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「墨汁350円」、レシートが教えてくれること

仕事を終えた夕方5時55分。18時タイムリミットの学童に娘を迎えに行き、その足で文房具屋にいった。このあと息子のお迎えもある。早く早くと急きたて買ったのは、書道教室で使う墨汁、350円。

その前日のこと。やけに早い時間にインターホンが鳴ったと思ったら娘だった。いつもなら学童から直接、書道教室に向かうはずが「2回連続で墨汁忘れたから、もう貸してもらえませんって言われたの」と娘。あぁ、またかとがっくりうなだれるわたし。こんなことは初めてではない。

わたしが小さいときにはこんな失敗はなかったのに、お友達はみんなちゃんとしてるのに、と思う気持ちが、ときに怒りや悲しみにすら変わることがある。相手はわたしではなく、ましてやお友達とも違う別の人間だから仕方ない。いや、仕方ないと思うのは時間が経ったいまの話であって、そのときは「もうなんで!」とブツブツ小言を言っていたと思う。娘は少々忘れっぽいところがある。はたから聞けば、よくある小学生の忘れ物エピソードだろう。けれど、彼女のこの性質と向き合い、寄り添っていくことはわたしの課題であり、ひとつのハードルにも感じている。

子育ては、総じて誰かと暮らすということは、小さなトラブルやがっかりや、「なんで!?」の連続だ。
けれど、それと同じくらい喜びや感動や、そのほかたくさん豊かな気持ちを子育てがくれることもわたしは知っている。
あっちとこっちを行ったり来たり。笑ったり怒ったり、喜んだり落ち込んだり。毎日はそんな気持ちの連続である。きっとこれからも。

財布の整理をしていたら、ふとでてきた「墨汁350円」のレシート。そこからあの日の景色が浮かび上がり、子育てについてあれこれ考えてしまった。


「レシート、拝見」という連載をさせてもらっている。一枚のレシートから、思い出すその日の出来事や、そこから芋づる式に導かれるその人の価値観や過去のエピソードなどを気ままに語ってもらうというインタビューである。

そこには、スペシャルなレシートも話も出てこない(もちろん出てくることもある)。生姜やミョウガを冷蔵庫には切らさないんですとか、この日はドーナツ屋で夫と待ち合わせをして映画を観たんですとか、お刺身半額だったんですとか、近所のスーパーの品揃えがいい感じなんです、とか。誰のなかにもあるような、ごくごく普通の日常だ。

でもそのなかに、キラリと光るその人らしさや、にんまりするエピソードがある。取材者が家族を思ってカゴに入れた牛乳や納豆の話を聞きながら、いつの間にかわたしは、自分の家族の好物を思い描いていたりもする。

普段は人に見せることのない、ごくプライベートな部分に隠れたその人の色がある。こう書くと、なんだか悪趣味だと思われるかもしれない(実際、レシートを見せてくださいというのはかなり勇気がいる企画だった)。でも、プライベートな部分だからこそ、取り繕った美しさや建前が取り払われ、素顔を覗かせる。そしてスーパーの話から、気づけば自分の大切なもの、深く考えてきたことについてを話してくれたりもするから不思議なものだなと思う。

緑で覆われた広大な大地、抜けるような青空を縁取る美しい稜線、数々の絶景があるように、ベランダから望む夕焼けのグラデーションもまた、唯一無二のすばらしさがある。日常があるからこそ、特別な日が輝くのだとも思える。写真には映らないくらいの小さな光をすくいあげたい。すぐそばにある喜びを感じられる自分でいたい。

自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ

茨木のり子さんのこの詩を目にしたことがある人も多いだろう。美しさも喜びも輝きも、日常のなかに満ちている。受け止めるための曇りなき感受性を磨いておきたい。守っていきたい。それができるのは自分自身しかいないけれど、かけらを言葉にして伝えることならできるはずだ。そう願って、この連載を書いているのかもしれない。

(2023年7月追記)
この連載が一冊にまとまり、技術評論社より発売となりました。
タイトルは「レシート探訪 1枚にみる小さな生活史」です。

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