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SNS時代にゴッホの「本物を見る」幸せ

 InstagramやYouTubeなどのSNSの普及によって世界は驚くほど身近に感じられるようになった。Instagramは世界中の映えスポットにあふれ、YouTubeで検索すれば気になる場所の旅行Vlog(Video Blog)やその土地に住む人の暮らしを簡単に覗くことができる。そんな現代を生きる友人がある時、「動画で見たからわざわざ旅行しなくてもいいかな」という言葉をつぶやくのを聞いた。「えっ? それはどうなの?」という疑問が湧いた。旅先で美術作品を見て、まったく違う体験をしたからだ。この記事ではオランダでゴッホの絵画鑑賞をした経験をもとに、「本物を見る」楽しさと意義を自ら問い直してみた。そして、そのこと自体もまた面白い体験になった。考えるきっかけを与えてくれた友人に、改めて感謝したいと思う。

ゴッホ美術館(オランダ、アムステルダム)

 2024年12月、オランダを訪ねた。アムステルダム中央駅近くから路面電車に乗ること約15分、ヨーロピアン建築の景色が広がる中に、一際目を引く近代的な建築様式の「ゴッホ美術館」が現れる。建築を手掛けたのはなんと、東京・六本木の国立新美術館と同じ黒川紀章である。ゴッホ美術館という名の通り、ゴッホの油彩画や交友があった作家の作品を千点以上所蔵している。《自画像》や《ひまわり》などゴッホの代表作を見ることができるので、ゴッホファンにはたまらない施設である。

「光」の魔術師ならぬ「天然の影」の魔術師

《ゴッホの寝室》1888年 72×90cm
オランダ・アムステルダム、ゴッホ美術館蔵

 同館が所蔵する《ゴッホの寝室》は、ゴッホがゴーギャンとともに制作に打ち込んだアルルの「黄色い家」で描いた作品。床やベッドがイラストのように描かれているのが印象的だった。この作品については、ゴッホ自身が弟のテオに宛てた手紙の中に、

寝台とイスの木部は新鮮なバターのような黄色で、敷布と枕は非常に明るい緑がかったレモン色だ。掛けぶとんは深紅色。窓は緑色だ。化粧テーブルはオレンジ色だし、金だらいは青だ。扉は藤色。あるのはそれだけー鎧戸を締め切ったこの部屋の中には、他には何もない。

『ゴッホの手紙 下 テオドル宛』(硲伊之助訳)第554信 岩波文庫より引用

という内容の説明を残しているのが興味深い。 しかし、実際にこの絵を見ると、いろいろな発見があった。例えば、ベッドに載っている枕に注目してみる。引いた位置からは、色を変えて立体的に描かれた枕とシーツに見えるのだが、間近に立つと、実は同じ黄色で塗られていることがわかった。絵の具の厚みや筆を動かす向きを巧みに操ることで、油絵には立体性が生じて「天然の影」をつくり出しており、光の加減が変わっていたのだ。まるでマジックのような描き方である。

《ゴッホの寝室》(部分) 枕がかなり厚く塗られていることがわかる
《夜のカフェテラス》1888年 81×65.5cm
オランダ・オッテルロー、クレラー・ミュラー美術館蔵

 アムステルダムから車で1時間強、まるで軽井沢のような鬱蒼(うっそう)とした林を抜けた先にあるクレラー・ミュラー美術館でも、ゴッホを見た。同館所蔵の《夜のカフェテラス》にもまた、「マジックのような技法」を見ることができた。絵の具の厚みが色の変化を呼んでいたのだ。さらに実物と接して実感できたことがある。《夜のカフェテラス》は驚くほど有名なゴッホの代表作であるにもかかわらず、この美術館は「芸術愛好家のための楽園」というモットーのもと境界線を感じさせまいと、距離ゼロで作品と対面することができたのだ。パソコンやスマホの画面では絶対に得られないリアリティがそこにはあった。

《夜のカフェテラス》(部分) 星の部分がビーズのように描かれている

 そのリアリティを少し叙述してみよう。明るく黄色に塗られた左側と夜の暗い右側という大胆な色分け、中央のどこまでも続く路地を走る馬車、そして星明かりとカフェテラスの光で照らされた地面が奥深く表現されている。写真では平面的な絵に見えたが、実物と対峙すると本当に立体的な絵だった。星をぐりっと厚く盛りあげて描き、カフェテラスのライトも厚く塗った絵の具を削りとって表現している。近づいて見てみると、塗り重ねられた一色一色が浮かび上がって見え、その立体感に恍惚とする。

心が震えた経験は永遠!

 時代を超えて愛される絵画はもちろん写真でも美しい。技術的に進歩した現代のカメラで撮影した写真ならなおのこと、本物に肉薄した色彩で見ることができるだろう。しかし、「本物を見る」ことでしか気付けない「発見」は、心を動かす。「作者の呼吸」を時空を超えて感じさせる。スマホで音楽を聴くのではなくコンサートやジャズバーで本物のミュージシャンたちの「呼吸」を感じること、星付きレストランで本物の料理、空間を舌で味わうこと、そして美術館へ足を運び本物の作品を自分の目で見ること、おそらくそれらはすべて同じ次元の体験である。そういった本物に触れた体験は鮮明に記憶に残り、自分の血となり肉となる。つまり、自分の一部になるのだ。インターネット全盛の今だからこそ、実物に触れるのはなんだかとても豊かなことのように思えるのである。

撮影・文=大塚理紗子

ゴッホ美術館(オランダ、アムステルダム)
Museumplein 6, 1071 DJ Amsterdam, オランダ
公式サイト=https://www.vangoghmuseum.nl/nl
クレラー・ミュラー美術館(オランダ、オッテルロー)
Houtkampweg 6, 6731 AW Otterlo, オランダ
公式サイト=https://krollermuller.nl/jp

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