今日はやった
今日はやったのだった。
朝から同期の講談師、旭堂南歩君と会談。情報交換をする。
南歩君は少し様子が前と違って疲れた浪人生(三浪)というような見た目になっていて「これは由々しいな」と思った。
喋ってみると南歩君、冴え冴えの冴えだったのだけれど、あの見た目の感じは一体どういうわけだろう。
小鍋にインスタント麺を作ってどんぶりに移さずに食べてそうな感じが濃厚に漂っていた。完全三浪だ。
寝ぐせの効果が大きかったのかもしれない。
人様の見た目をどうこう言える見た目をしているわけではないことを今顧みて、書きながら少し落ち込んだ。
まあ、いい。
会談が終わって、作業に入る。
一気にいろいろな作業を片付けていく。
チラシの入稿・入金、ラジオ台本、パンダ修羅場、玉山物語、一分講談、次回霧隠才蔵台本覚え、立川文庫続き読み紹介記事、昨日記事に「明日はやるぞ」と書いたことの大体が完了した。(立川文庫続き読み紹介記事だけもう少し手を入れるけど)
昨日あまりに何も思いつかず、手がつかず、作業ができなかったので、もう僕には力が残っていないのではないか、との危惧もあった。
しかしながらなんとかなった。
明日はやるぞ、と嘯いた人間が本当に明日やる、ということができたのだ。
明日やろうはバカ野郎、という言葉がある。
中学時代や高校時代、塾に通っていた頃によく言われた言葉だ。
侮蔑的な表情をもって先生の口から吐き出されることの多い言葉だった。
塾で学んだ英語数学理科社会よりも、明日やろうはバカ野郎という言葉のほうを覚えている。
中々の男塾。
さて、昨日僕は明日はやる、という宣言をした。
よって確かに、明日やろうはバカ野郎が真だとしたら(だって塾では真を教えるでしょう)僕はバカ野郎だ。
しかしながらバカ野郎はバカ野郎なりに、バカ野郎だからこそ気持ちを切り替えたりしなければいけないのだ。だから明日やる、というのはバカ野郎なりの努力創意工夫なのである。
僕は明日やろうのバカ野郎をもっと褒めてほしい。しかしながら世は明日やろうはバカ野郎という言葉を侮蔑の意味で行使する。
いやじゃあ仮にここにバカ野郎が居て、明日やらずに今日やったところでバカじゃない野郎になれるわけではないじゃないか。
身もふたもないことを言うが、バカ野郎というのは今日やっても明日やってもバカ野郎なのだ。
例えば僕は今まで明かしてこなかったがバカ野郎だ(何人かの証言がある)。
そんなバカ野郎の僕が今日何かを引き延ばさずにやったとて、だからと言って僕が急にバカ野郎じゃなくなって、バカじゃない野郎、灘中灘高野郎、一橋マッキンゼーおじさん、アホウ、などにになれるわけがないのだ。
バカ野郎はバカ野郎なりにいい仕事、面白い仕事をしなければならないし、その為の努力が「明日やろう」なのである。
だから明日やろうはバカ野郎などという韻踏みラップをディスリスペクトにyo-yoされたところでバカ野郎の僕は何ら恥じるところはなく、むしろバカ野郎の努力・誇り・全力の身の処し方としての明日やろう。なのである。
満天下のバカ野郎諸君、胸を張って明日やろうではないか。
明日はもっとうまくやれるかもしれないじゃないか。
以上です。ありがとう。