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わたしを知ること~(5)変化の実感

わたしの感情浄化と掘り下げは続いていた。セッションの度にわたしの書き込みや、直近の出来事で気づいたことについてカウンセラーさんと語り合い、多角的な視点を教えてもらい、その度に視野が広くなって行った。

3か月経過

3ヶ月ほど経った頃、わたしは落ち込まなくなって来ていた。

行き違いがあり、上司 Aさんにマウント取られていや~な気持ちになった時、その感情を引きずらなくなって来ていた。
それまでは、嫌な気持ちを感じたくないから、出来るだけ感じないように無視してきた。そうすればそうするほど頭を離れなかったものだ。

ところが、感情観察、感情観察と気をつけていたので、すぐに気持ちをキャッチし、それから「うん。あるね。あるある。こういう気持ちあるよね。」って寄り添ってあげると、嫌な気分を感じながらも、同時に嬉しい気持ちも湧いてきて、二つの気持ちが同居するようになって来た。
そして、なにかと否定する上司のことが、なんだか面白く感じてきた。少し余裕が出てきたのだと思った。

当時のわたしは、もうマウントや否定はデフォルトだと思っておこう。それはほおっておく。相手の態度とわたしの感情がリンクされる必要はないのだと考えるようになっていた。

カウンセラーさんからも、「こういった取組みでは、現実が変わってもいいし、変わらなくてもいいというスタンスでいることが大事。」とアドバイスを受けていた。
確かに、物事が何も変わらなくても、自分の感じ方が大きく変化してしまったら、まるで世界が変わったと感じてしまうだろう。

そして感情観察を続けると、さらに気づきがあった。わたしはあれこれ厳しい言葉をかけられた時よりも、自分の意見をぐっとこらえてしまう、我慢してしまう時のほうが、自分をより苦しめているということに気づいたのだ。

少し余裕の出てきていたわたしは、不機嫌に圧をかけられている時に、勇気を出して怖さを感じながらも自分の意見を言ってみた。
そうすると、結局はまたそれに対し、反対意見を言われたとしても、わたしの中では、自分の思いを言葉として出してあげることが出来た、わたしを救ってあげたという気持ちを感じ、ほっとして安心するようになった。
この小さな実感に力を得た私は、それからも、へこたれずに、目標をただ「自分の意見を言う」だけに絞り、何度も言ってみた。わたしが話してる時に、かぶせて来られても、めげずに務めて冷静に言い返す。それは場数の問題で、だんだん慣れて来た。もちろん何度もしくじったりしたが。

ここまで頑張れたのは、わたしの取組みを応援してもらってる存在があったのがとても大きい。それに、この取組み報告をカウンセラーさんに何度もするうちに、実験感覚になって来ていた。怖いという心に、好奇心が半分くらい進出して来ていた。

ひとの悩みは、ほぼ人間関係の問題が占めているらしい。
わたしのこのような性質、もともと持ってた心の痛みなどどと、まったく重ならないタイプの人からすると、こんなこと理解できないだろう。
しかし、そういう人はそういう人なりに、別の点できっと何らかの引っかかりを持っていることだろう。痛みが何ひとつ無い人などいないのだから。

こうやって、3か月ほどで、少し自分の内面の変化は見えてきたものの、まだ時折、自分はダメなやつだという自分責めが止められないでいた。まさに、トライ&エラーを繰り返していた。

6か月経過

半年が経った頃、ひとつ、わたしに大きなこだわりがある事に気づいた。それは「争うことが、とにかくイヤ」というものだった。
好きな人もいないと思うが、極度にイヤで、だたの打ち合わせでさえ人と対立することが苦しかった。
それは、自分と上司との対立もだが、周囲の人間どうしの仕事上での喧々囂々のディスカッションも苦手だった。当時は特に仕事が忙しく、みんな激務だったし、打ち合わせの多い部署だった。

カウンセラーさんとのセッションで、「意見の違うのはいいこと。みんな違ってみんないい。例えば、ジョブズのこだわりがあったからiphoneが出来た。建築士のこだわりがあるからハイセンスな建築物が出来る。それはひとりでは出来ず、時には意見を戦わせることもある。その場の言い合いという形だけで、問題だと捉えないこと。」
マイナスな出来事の裏に潜むプラスを見つけ出し書き出してみることをアドバイスされた。

自分のことを当てはめて考えてみると、度重なる上司 A さんのこだわりと細かい指摘で、わたしの仕事はどんどん緻密さを増していった。そういう部分の能力は上がることになった。これはプラス面。
また、争いや対立が嫌い!良くないこと!という思い込みに関する掘り下げでは、争いが嫌いという思いが強すぎて、本気でぶつかることを避ける部分がわたしの中にはあったことがわかった。穏便に済まそうと思い過ぎて、誤魔化したり正直ではなかったり。時にはそういうことが必要な場面もあると思うが、動機を見てみると、逃げだったり、めんどくさいからだったりであったことが多かった。それがわたしの中の偏りだとも感じた。
「対立すること」について考えるうちに、良い面、悪い面が同等の比率で浮かび上がってきた。対立することに対し、無条件に見たくない!とガードするのではなく、より良いものを作っていこうというディスカッションだという理解を持てるようになった。
意見の違いがあっても敵対しているわけではない。コミュニケーションをあきらめてしまわないこと。という意識の切り替えを腹に落とし込んでいった。

どうだろう。こうやって、書いてみるとこんなことは当たり前のことで、中学生でもわかることだ。わたしも、上記のような内容をはじめて気づいたわけではもちろんない。ただ、心の奥の方の、条件反射的にブロック!してしまう小さい子供に言い聞かせるには、ひとつひとつ車掌さんの指差し確認のごとく、しっかり見るという作業が必要だった。少なくともわたしはそういうやり方で合っていた。
このように意識上に何度も上って来る馴染の概念に対し「こないだ点検してたことどうだっけ?あっそうだった。逆の視点もあったよね。」と繰り返し納得するうちに、自然に馴染んで消えていった。

このように、概念の点検作業を繰り返す日が続いた。

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