日常ブログ #43ある朝
ある朝。
私は一件のメールの通知音で目覚めた。
絶賛締め切り前原稿作業中の疲労は、一晩寝ても全く回復していないことを実感しつつ、私はスマホを開いた。
寝起きの私の目に飛び込んできたのは、とらのあなからの入荷通知メールだった。
説明しよう!
とらのあなとは、同人グッズ専門の通販サイトである。
説明終わり。
私は一瞬で覚醒した。
その入荷通知で知らされた同人本とは、私がXのタイムライン上を徘徊している時偶然見つけて、サンプルページだけで感動し、該当同人作家さんを好きになったきっかけの本、つまり始まりの書。バイブルである。
必ず手に入れなければと思っていたものの、既刊だったため、その時点で品切れになっていた。
入荷したら何が何でも入手してやると誓った、あの本である。
ついにこの時が来た。
私の行動は素早かった。
目にも止まらぬ指さばきでカートに投入、お会計ページへ。
連休の朝なんて誰も起きていまい、しめしめ。同人誌、勝ち取ったり。
と、勝利を確信してほくそ笑んだ時、再び私の目に飛び込んできた文言は、
「決済に失敗しました。」
私は状況が理解できなかった。
登録情報、合ってる。
届け先、合ってる。
決済方法、合ってる。
では何が問題だというのだ。
私はページの一番上からくまなくチェックした。
そして、ページの上部に真っ赤な字で書かれているお知らせに気がついた。
そこに書かれていたのは、
「Visa、Mastercard ブランドのクレジットカードの決済を停止しています。」だった。
なんと。私が使っているクレジットカードはまさにVisaだったのである。
どういうことだ。
何でだ。
てかいつから?
いや、それよりも。
この状況どうしたらいいのか。
クレジットカードは Visa の一枚しか持っていないし、代引きも後払いも使えない。
支払い方法はカードかとらコイン支払いのどちらかである。
何だとらコインて。
このとらコインとやらを利用できなかった場合、私は同人誌を購入できなくなってしまう。
天啓を得たバイブルが。
私は直ちにとらコイン支払いについて調べた。
説明しよう!
とらコイン支払いとは、とらのあな通販系列サイトで利用できるWebマネーである。
1ポイント=1円で利用でき、専用ショップからの購入、またはキャンペーンによって入手できる。
購入は、カード(一部ブランド除く)、電子マネー、銀行振り込みから可能。
(参考:とらのあなご利用ガイド)
説明終わり。
ギリ理解した。
要はチャージ購入して使える専用通貨ということである。
私が可能なものだと、PayPayからとらコインを購入できる。
ならPayPayで直接払わせてくれ、と思わなくもない。
私はとらコイン購入サイトに移動した。
いつもチャージするのを忘れる+普段あんまり使ってないせいで、PayPayに小銭以上の金額が入っているのは稀なのだが、この日は幸運なことに千円ちょっとの金額がチャージされていた。
これなら本を購入できそうである。
私はホッと胸を撫で下ろし、とらコイン購入ボタンを押そうとした。
いや、ちょっと待て。
このPayPayの残金から購入できる金額だと、商品の金額は払えるが送料を含めた合計金額には足りないのではないか?
これは盲点だった。
一旦とらのあな通販ページに戻って送料を確認する。
ああ、一旦サイトを離れたから「カート内の商品を見る」からやり直しになってしまった。
お支払い方法選択までもう一度入力する。
送料を確認したところ、三種類配送方法を選ぶことができ、それに応じて金額も変わるのだが、どうしたってPayPayの残金では足りない。
ならばとらコインをチャージする前にPayPayをチャージしなくては。
私はパジャマに上着と帽子だけ羽織って家を飛び出した。
なぜ私がこんなに焦っているのかというと、同人グッズはよほど本格的な商業同人サークルでもない限り、作家さんのご厚意によって我々消費者は商品を享受できている。
販売、在庫管理、再販、等々、それらは全てサークル・作家さんの都合によって行われるものなのである。
今回の入荷も、通知が届いた段階で既に在庫わずかになっていたということは、手持ちの数冊を通販サイトに入荷したということなのだろう。
つまり私のこの週末寝起きの戦いとは、支払い方法との戦いでありながら、その本質は品切れとの戦い、時間との戦いであった。
エレベーターのボタンを連打し、上がって来るのをソワソワしながら待つ。
こういう時だけやたら長く感じるのはなぜだろう。
到着したエレベーターに素早く乗り込み、途中階で乗り合わせた人と一緒に、一階を目指す。
一階についたら、すぐにマンションのエントランスを抜け、早歩きで五分ほどのコンビニに三分で着いて、ATMで入金を終わらせる。
脳内シミュレーションは完璧だ。
そして一階に到着。
クラウチングスタートの構えでドアが開くのを待っていると、開かない。
開くボタンを押してみるが、開かない。
連打しても、一向に開かない。
沈黙するドアを前にして、思わず同乗人と顔を見合わせた。
どうやら我々はエレベーターに閉じ込められたようだ。
時間差で、顔も洗わずに出てきたことを思い出して気まずくなってしまった。
いや、私の顔面とかエチケットなんかどうだっていいのだ。
ヤバいぞ。シンプルに緊急事態である。出られない。
とりあえずエレベーターの通話ボタンを連打してみる。
連打してから長押しであることに気がついた。
落ち着け自分よ。
長押ししたら、すぐに外部のオペレーターと繋がった。
どうやら既に不具合は把握済みで、一階のドアだけ開かなくなっているのだそうだ。
今このマンションに係員が向かっているらしい。
把握しているのなら間違えて乗らないようにしてくれればよさそうなものだと思ったが、発生直後だと対応も難しいのだろう。
二階に上がったらちゃんとドアが作動して、問題なく降りることができた。
安心するのも束の間、そうだ、コンビニに急いでいたのだった。
外階段を使って地上に降りる。
想定外すぎる足止めを喰らってとんでもない時間のロスり具合だ。
急がば回れとはよく言うが、急いでる時こそエレベーターを使わず十二階から階段を駆け降りろなんて誰も思いつかないではないか。
しかし、人生に苦難はつきものだ。
こんなことで私は諦めたりなどしない。
エレベーターの不具合なんぞで私を止めることは出来ないのだ。
希望を絶やさず、超高速早歩きでコンビニを目指す。
頼む、間に合ってくれ。どうか売り切れにならないでくれ。
コンビニに着き、店の前に立つ。
最後の確認で、商品ページを開く。
緊張の瞬間。
そこにあったのは、灰色に染まった「品切れ中」の文字。
私はその場に崩れ落ちた。
ここまで来て・・・品切れ・・・
じゃあ、これまでの頑張りは一体何だったんだ。
一生懸命とらコインの概要を読んだあの時間は一体。
握りしめた財布とスマホの意味を問うても虚しいだけ。
私の心まで灰色に染まってしまいそうである。
さらば。私のバイブル。
されど人生は続く。
時は容赦なく進み続ける。
生きていれば、再販のチャンスはなくとも、何かしらのいい感じのチャンスがあったりするものである。
ここは気持ちを切り替えて、新刊に期待しつつ二度寝でもしよう。
と、踵を返しマンションのエントランスに入ったがエレベーター止まってるの忘れてた。
エレベーターの前には、さっき通話ボタンでオペレーターの人が言っていた係員の人が、点検中の囲いをエレベーターの前に置いて、ご不便おかけします、と、ぺこりと頭を下げた。
いやいや、直してくださるなら何よりありがたい。
しかし、あれ?エレベーター止まってるとなると、私はどうやって部屋に戻るんだ?
どうやって十二階まで上がるんだ?
あれれ?おかしいぞ?
その時、同じくエントランスに居た、私より少し早くに到着したのであろうスーパーの袋を持った男性が、やれやれ仕方ないという調子で、外階段の方へ颯爽と向かっていった。
すごい。ここに勇者がいた。
私なんて現実逃避して直るまでこのままどっかに出掛けて行ってやろうか、喫茶店かなんかでモーニングでも食べてやろうか、とまで考えたのに。
顔も洗ってないのに。
上着の下はパジャマなのに。
ごちゃごちゃ考えて誤魔化したところで現実は変わらない。
私は受け入れるしかないのだ。
本も買えずエレベーターにも乗れないこの朝を。
そう思って外階段を昇る勇者の背中を追いかけたが、勇者は三階で家に帰っていった。
ここからは私一人の戦いである。
いや、初めから私自身の戦いだったのだ。
残暑の朝は運動不足の人間にとって非常に厳しい。
加えてこの外階段は日差しが照りつけるので、ここにいるだけで汗ばんでくる。
五階の時点でここ一ヶ月の階段昇段数と運動カロリーを余裕で超過したと思う。
ここに来て、アドレナリンで揉み消されていた日々の疲労が思い出されてくる。
そうだった。
私はここ最近ずっと缶詰め状態で、肩も腰もガッチガチだったんだ。
自分の本当の姿を取り戻したところで、十二階までワープする特殊能力が解放されるわけでもない。
もうこれ以上上げたくない足を上げて、一段一段昇っていく。
疲れてくると当然ペースが落ちるので一階上がるまでにより時間がかかり、一向に増えない階数に絶望が募る。
暑さでじわじわと体力が削られる。
余計にペースが落ちる。
新手の拷問だろうか。
何の罪で?煩悩?バイブルなのに?
自己矛盾と無駄な考えがぐるぐると脳内を駆け巡る。
心身に余裕が無いと思考をまとめることさえままならない。
いや、今朝私にままなることが一つでもあっただろうか。無い。
私は何をしているのだろう。
世の中は連休だっていうのに、毎日毎日原稿やって、寝ても覚めてもぐったりして、Visa 使えなくなって、エレベーターに閉じ込められて、欲しい本は売り切れて、クソ暑い中外階段を十二階まで昇っている。
何だこれ。滅茶苦茶だ。やってられない。
でもやらなくちゃ部屋に帰れない。
やらなくちゃいけないからやるだけだ。
そこに意味などないのだ。
九階あたりからは無心で昇った。
いつの間にか十二階に着いていた。
感動などない。
ただやり遂げたという事実と、途方もない疲労感と、絶対絶対絶対二度寝するという強い意志だけがあった。
部屋に入り、起きた時のままの布団に飛び込んだ。
ああ、今日はもうこのまま夕方まで起きないぞ。
原稿なんて知るか。
私は私を労うのだ。
私は今日、多くの試練に直面し、負けて、負けて、負けた末に、最後は負けなかったのだ・・・
そうして私は二度寝の眠りについたのだった。
と、いうことにしたかったのだが、アドレナリンの余韻と運動により交感神経が働いて全く眠れない上、汗だくの身体で布団に寝っ転がるのが不快すぎて落ち着かなかったので、結局、私は半べそをかきながら布団を畳み、パジャマを洗濯して、原稿に取り組み、作業は深夜にまで及んだのだった。
すごい疲れた。