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大丈夫

自分が1番つらかったのは二十歳の誕生日の時期だった。
その時期が1番noteを更新していて、書かないと自分が保てなかった。

最終学年になって、ことの流れで学生団体の代表を務めたり、サークルの運営を4つ掛け持ちしながらバイトして国試勉強して友達との時間もつくって、20歳以来キャパオーバーに陥りそうでちょっと弱音を吐く。自分のキャパを過信しすぎたかもしれないけど、キャパ云々の前に、それを自分が引き受けるのは当たり前という感覚がある。
「ダメな時はちゃんとNOっていってくれる」とこの前おとなに言われたので、自分がYESマンになっている自覚はなかったけど、結果的に安請け負いしてたかもしれない。そういうスケジュールを組んだのは自分だから、弱音を誰かに吐くのは違うよね。(でも吐かせてください…)

休むこと・がんばることというのは、大学生になってからずっと考えてnoteにも残してきたことで、自分なりにゆっくりと時間をかけて活動と休息のバランスを弁えて過ごせるようにもなったというプライドがあった。ゆっくりした日々も忙しい日々も基本楽しくて充実している。たまにちょっとダメになっちゃうだけ。
だけど、想定外のことが立て続けに起こると、ちょっとやっぱり立て直すのが難しい。ただ最近は、根拠のない自信だけが先走りして、リスク管理が甘かったかな。

組織の代表を務めるということは、何があっても自分が責任を取るということで、責任をとるということは誰かに迷惑をかけたりなすべき役割を果たせなかった時にそれをお詫びして最大限の対応を図る、立て直すことなんだと思う。誰かのミスの誘因は自分のマネジメントの仕方にある。もちろんミスが起きたのは自分だけが原因ではないから、重く受け止めすぎる必要もないのであろう。でも、仕事の振り方やその人がどれだけ期日までに完璧にタスクをこなすか、過去の相手の姿から未来の行動を想像して、その人を信じて託す、ということはやっぱり難しい。できなかったときに責任を感じずにはいられない。ケアが入りすぎると相手の挑戦する機会や考える機会を奪ってしまう。そこには依存や支配関係すらも生まれる。

別居している妹から相談事があるとLINEが来た。もう何も引き受けないと決めた矢先、今までにないSOSが舞い降りてきたら、応じるほかないような…。

そうだ、明日はマラソンだというのに、喉の痛みと頭痛が治らない。
日付が変わる前に起きたアクシデントの対応を深夜にして、そのまま1限で学校に行って、グルワを進めた。そのあと、頭も身体も動けなくなって、友達とふたりだけの大教室で寝そべっていた。
「もっと寝たらいいんじゃない?」と友達に言われたけど、体調壊さないように睡眠だけは削らずに生活しているので、これ以上どうすることもできないような気がして、とりあえず葛根湯を口に含む。

そういえば、この間の哲学対話で、「自分の身体がコントロールできないときはどんな時か」という問いが出てきたことをふと思い出した。心がある閾値に達すると、そのSOSは身体に症状としてでる。無理して身体に症状として現れてくれるうちは、私の体は正常なんだなと思う。心と身体はつながっている。心が揺さぶられることがたくさん起きた2024年の終わりに、こうやってとりとめもなく、意味を求めず、自分の気持ちに言葉を与えていくことはなぜか少し安らぎと落ち着きを取り戻させる。

もっと自分を大切にしなよ、責任感じすぎないでいいんだよ、自分ですぐ頼れてえらい、Love Myself ここ数日で友達からもらったたくさんの言葉。
今度は誰かに返せるように

20歳の誕生日。
自分のアイデンティティが再構築された年(?)
あのとき頑張れなくて絶対にダメだと思っていたことが報われた時の喜びを思い出せば、今が逆境にあってもまた乗り越えられるはず、と思えてくる。
はたちの自分に会えるなら、あなたのがんばりや苦労は報われたよと伝えたい。その経験のおかげで今の自分に自信が持ててるんだよって。

困った時は人に頼る、感謝をする、休む。

大丈夫、きっとうまくいく。


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