「子ども観」を見直そう!
※この記事は「子どもは教えてあげないと」など子どもに対して「〜(して)あげる」という感覚を持っている人、そういう言葉を使う人に読んでほしい記事です。
※「子ども観を再確認しましょう。子どもを信じて注入をやめ、「水を向ける」ことをしませんか?」という提案です。
ある研修で「”叱る”をやめましょう」という講師の言葉があった。
すると会場は「えっ?じゃあどうすればいいの…??」「いや、無理でしょ」という戸惑いと反発の入り混じったような空気に包まれた。(ように感じた)
ここで会の中で示された「叱る」の定義を示しておく。
「叱る」=言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為
簡単に言えば
”恐怖や不安を与えて、教員の思うように変化させようとすること”
だ。
以下研修の流れを振り返りながら、タイトルを回収していく。
研修の流れ
今回の研修のねらい
これは憶測でしかないが、今回の研修のねらいは
「教員の意識を変える」
ということだったのではないか。
以下、研修の項建てとその項で示された内容を僕なりに解釈した内容。
多様性・・・「教員は権力者である。しかし、当人はそのことに気づか(け)ない。権力によって上下関係が生まれる。
合理的配慮・・・問題行動等の「障害」を解決しようとする場合、「医学モデル」的解決を図ろうとしていないか。つまり「問題行動」が起こった場合、その子の持つ特性(発達障害等)に原因があると考えていないか。
行動分析学・・・上記2つにより「叱る」が生まれ、その行為の特性により、その行為自体が強化されつづける。しかし「叱る」には教育的効果はない。それどころか悪影響さえある。ゆえに「叱る」をやめよう。
教員は権力者であると自覚せよ!
これを言いたいがための「多様性」という項建てだったのだろう。
「多様性とは、マイノリティに対してマジョリティが配慮すること」
↓
マイノリティ・マジョリティとは?
↓
単純な数の問題ではなく、「権力」を持っている・持っていないの差である。
↓
マジョリティは社会的に優遇される(特権がある)。しかし、そこに気づかない。一方マイノリティはそこに気づける。
学校におけるマジョリティ、つまり「権力者」は言わずもがな「教員」だ。
そして権力者(優遇される)側はその優位性に気づかない。
講師は若い方で相当遠慮していた様子であった。言えなかっただろうから、代わりに言おう。
「お前ら(教員)は権力を持っていることを自覚しろ!!」
と書いたところで気づいてしまった…。
講師は「叱る」をやめたのだ…。
合理的配慮=環境を変えること
合理的配慮とは、社会的障壁を取り除くこと。つまり「環境を変えること」「社会モデル」的視点で物事を捉えることが肝要である。
発達障害・学習障害という語が一般に浸透して久しいが、学校は困難を抱える生徒に対してそれのみに原因を求めていないだろうか。
実際「発達に凸凹があるかもね」という言葉を聞くことがある。
この視点は、原因を個人に求める「医学モデル」的視点である。
もちろんこの視点も生徒指導には必要だ。
しかし生徒指導は多面的にアプローチすることが重要であり、『生徒指導提要』(文科省)にも「多面的」という語が再三登場する。
行動分析学について
行動分析学と研修会では紹介されていたが、おそらく応用行動分析学(ABA)を用いてお話をされていたと思う。
この応用行動分析学については門外漢であるので、こちらをご参照いただきたい。→(子ども行動療育教室 https://www.midori-th.com/kodomonoteindex.html)
そして会の副題に「支援」という言葉が入っていた。
この「支援」という視点が重要である。
「支援」とは「支え、助けること」である。
人を支え、手助けすること。
そこに優劣、上下といった関係はない。
「学校」という枠組みの中で、「教員」という役割がその目を曇らせる。
その目を開かせるために行動分析学の視点をぜひ取り入れたい。
研修から得たこと
あなたの「子ども観」大丈夫?
ジャン=ジャック・ルソーは「子どもの発見者」と呼ばれ、「子どもは小さな大人ではない」といった。
これは現在でも保育・幼児教育の基礎となっている。
しかしそこから「子どもは未熟であり、教えなければならない、躾けなければならない」という誤解を持っているのではないか?
子どもは「純真無垢」な「善」であり、「からっぽ」である。
だから「悪」に染まらないようにしなければならない。そして中身を満たすために「知識」や「経験」を詰め込まなければならない。
そう考えてはいないだろうか?
「学校」という装置の役割
「学校」という装置の役割上、社会の構成員を生産するために一定の「型」に当てはめ、「一定品質の子どもを作り上げる」機能があるのは事実だ。
しかし学校に求められている機能はそれだけではない。
個を尊重し、それぞれの持っている「能力」を伸ばすことが求められる。
「一定の型」と「個の尊重」は対極にある。
しかし個人の中でグラデーションを持たせることはできる。
自明のことではあるが、私たちは「社会」の中で生きていく。
自分なりの感性を持った「個」でありながら、「社会」という共同体の中で生きていくのだ。
つまり「ホンネとタテマエ」の二面性を抱えて生きている。
この「ホンネとタテマエ」の両面を自覚させ、その成長を支援するのが学校なのではないか。
「型にハマって決められた作業を決められた時間だけ行う」が心地よい者もいれば、「自由に、創造的に行動する」が心地よい者もいるのだ。
しかしそのどちらかを100、もう一方を0という割合で生きていくことはできない。
だからこそ、子どもたち一人ひとりは「社会の中の自分」と「個としての自分」の両面を磨き、置かれた状況に応じて柔軟に「自己を調整」できるようにならなければならない。
教員の役割
そう考えたとき、私たち教員の役割はそのどちらも認め、尊重することである。
つまり、「「社会性」を伸ばしながら、「個性」も伸ばす。そのグラデーションの付け方を子どもと一緒に考え、悩み、その子にとっての「最善」へ導く」ことだろう。
さて、この役割を果たすために重要になるのが「子ども観」である。
子どもは不完全であり、大人が教えてあげなければ成長しない
そんなことないでしょ。
子どもに呼吸の仕方や眠り方は教えないし、言葉だってどんな言葉を使うかは吸収した中(生活環境で使われている言葉)からまずは自分で選んで使う。
子どもは自分にとって必要なことは備わっているし、選んでいるし、身につけようとする。自分から成長できるのだ。
それに対して我々大人ができるのは、
・社会で生きるためにその枠を示す
・その子が吸収しようしていること、伸びようとしていることを支援する
この二つだけだ。
「子ども観」を見直そう
子どもは未熟だから
教えて「あげなければ」
伸ばして「あげなければ」
直して「あげなければ」
余計なお世話だ。
自惚れだ。
子どもは強い。
吸収する。
伸びる。
立ち上がる。
弱いのは大人。
子どもを信じられない大人。
辛抱できない大人。
自分を守りたい大人。
「学校」で「教員」は「権力者」になってしまう。
「権力」に頼って「叱っ」てしまう。
「ラク」だから「叱っ」てしまう。
子どもは伸びる力がある。
よりよく伸びるように水を向けよう。
はぁ…、長かった。
バーイ(o_o)/