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信仰のルーツ②

小学5年生でクリスチャンではない両親に連れられて行った小学校以外で初めての教会。
中学3年(1978年)の11月19日に私はそこで洗礼を受け、名実共にクリスチャンとなった。
以来45年、現在まで一度も離れることなくその教会(中央福音教会)をベースにして

クリスチャンとしての人生を送っているのである。
長年、日本のクリスチャンは人口の1%前後と言われている。いわゆるマイノリティだ。その中でも50年近く同じ教会に通い続けているクリスチャンはマイノリティ中のマイノリティだと思う。

人にはライフステージがあって、就職や結婚、転職、転勤、転居などつきものであるが、私の場合そういう変化があっても信仰生活の基盤は変わらなかったのだ。
また、その約50年の間にクリスチャンを辞めようとか、教会を変えようとか本気で考えたことが一度もないのだ。
本当に不思議で、それは本当に神様の一方的な恵み、憐れみとしか言いようがないのだが、その1番の土台は立教小学校で培われたと確信できる。
6歳から毎日祈り、毎日聖書の言葉を口ずさみ、毎日聖歌を歌っていたのだから。

ではなぜ裕福ではない無学な親が立教小学校に息子を入れたいと決意したか、という本題にようやく入る。

父は福岡県鞍手郡筑前宮田(現在の宮若市)という小さな町の出身だと聞かされており、幼い時に1回だけ連れて行かれた記憶がうっすらとある。
8人兄弟の次男で、私の祖父は炭鉱夫だったが大酒飲みであまり働かず、祖母が苦労して働き、また父を含む年上の兄弟たちが中学を出るとすぐに働きに出て、幼い兄弟を何とか養ったそうだ。父は福岡、大阪、東京と色々な仕事を転々としながら働いたようだ。
私が物心ついた頃には祖父母も父の兄弟たちも皆東京に出て来ており、正月には祖父母の都営住宅の小さな部屋に親戚一同ぎっしり集まり、あまり見たことのない祭壇にぎっしり料理が並べられ、独特のお辞儀を3回くらいしてから宴会が始まるのが毎年の日課だった。

こんな感じの正月

幼い時から毎度お馴染みの正月の風景だったから、それが当たり前だと思っていた。

私が中学生になった頃だったと思う。母から「帰化」という耳慣れない言葉を聞く。
「やっと帰化できたからこれで安心」
と。帰化ってなんだ?

それから断片的にであったが母は、父方の祖父母は韓国人で、第二次世界大戦中にどうやら強制労働で筑前宮田に移住を強いられて来たこと。1939年生まれで次男の父は当時2〜3歳で連れてこられたため日本での記憶しかなく、3番目以降の兄弟は日本で生まれたらしいこと。
戦時下〜戦後間もない炭鉱の町では、朝鮮半島からの移民は「朝鮮人!」と侮蔑され虐めと差別の対象だったことなどを私に語ったのだった。

母は宮崎県東諸県郡高岡町(現在は宮崎市に吸収)出身で、6人兄弟の下から2番目。田舎で兄弟が多いと生活が苦しいため、中学を出てすぐに看護婦(当時の呼び方)になるべく東京の女性開業医のもとに転がり込んで修行していたらしい。
そんな折に父と母は出会い(どういうきっかけだったのかは未だに聞けていない)、私を身籠ったのだという。

母の父は早くに亡くなり(戦死)、長兄が父親代わりだったそうだが、母の結婚したい男が朝鮮人(当時は韓国人のことも朝鮮人と呼んで差別的に扱う人が多かった。)だと知り大反対したらしい。これが母にとっては傷となっていたのかもしれない。しかし若い2人は駆け落ち同然で強引に一緒になった。

こんな経緯があり母は、自分の息子には「韓国人だから、朝鮮人だから」という理由で絶対に虐められてはいけない!そう固く決意したようなのだ。
ではそのためにはどうしたらいいのか。

1.戸籍上の苗字ではなく通称として日本の苗字を使用すること。

2.帰化のための手続きを進めること。

3.キリスト教の学校に入れること。

の3つだったのだ。
クリスチャンではないし、親戚や友人にクリスチャンがいない母がなぜそう思ったのだろうか。
それを聞く機会がないまま母は認知症を患ってしまい、現在特養ホームに入所している。
そこで父に尋ねた所、
「俺は別に差別されてないし、キリスト教の学校に入れようなんて思ってなかった。ママがそうしたんだ。」
「何で?」
「それはよくわからん。でも…」
父はここで絶句し、
「立教に向かう途中に小さな児童公園があるだろ。立教小学校の合格発表を2人で見に行って、2人で泣いたんだ…」
そう嗚咽したのだ。「差別されていない、キリスト教の学校は母の望み」というのは父のプライドだったのかもしれない。
私はこぼれそうになる涙をぐっと抑えた。

いずれにしても、クリスチャンではなかった母がキリスト教の学校なら大丈夫と思った理由はいまだに謎のままである。

立教小学校に入れてもらった私は、一度も虐められることはなかったし、他に外国名外国籍の子も複数いたけれども、それらの子達も含めて差別的扱いを感じることは一切なかった。
先生方は当然私の国籍のことは知っていたはずだけれど。

そのような環境のもとで、私はただ純粋に聖書に親しみ、日本人として能天気に成長していったのである。
しかし、あの正月の儀式は韓国式だったし、祖父母の言っていることが分かりにくかったのは福岡訛りではなく韓国語訛りだったのだということが、帰化後の母のカミングアウトで初めて分かったのだ。

2011年4月。
東日本大震災の直後、不思議な導きで、私は中央聖書神学校の通信科に入学することになった。
いわゆる献身である。
(なぜ献身に導かれたのかはまた別の機会に。)

これを機に、私をキリストの元に導いてくれた両親に福音を伝えなければ!という思いが強くなっていった。
そして卒業を間近に控えた2015年1月18日。
私は当時派遣されていた埼玉県日高市のベテルキリスト教会で礼拝説教を担当することになっていた。
両親の住む実家から車で30分ほどであるから、ぜひ来て欲しいと頼んだ。
その頃母は認知症の症状が少し出始めていたのだが、まだ通常のコミュニケーションが可能だったのだ。

説教は、「あなたは永久に不滅です!」と題して、有名なヨハネによる福音書3:16からであった。
全身全霊で御言葉を語った後、
「イエス様をご自分の救い主として信じたいと願う方は手を挙げて頂けますか?」
私の招きにともう1人の方がハッキリと手を挙げた。

この母に愛されて、その切実な思いによって、私は奪われることも、朽ちることもない真の希望に生きる者となった。
しかも自分の出自のことなど訳も分からなかった小学校1年生の時から、まもなく還暦を迎えようとするこの年まで逸れる事なく。
もちろんその背後には、信仰の導き手であり完成者である(ヘブル12:2)主の御手があるが、母の愛があったのだ。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

ヨハネによる福音書3:16

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