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誹謗中傷の時代。今、改めて「御霊の実」について。

誹謗中傷が溢れる世界

 SNSが当たり前の時代になって久しい。一部の言論統制されている国以外では誰もが世界中に、オンタイムで自由に発信できる時代である。それは良いこともたくさんあるが、気軽に誰でも言葉のナイフで人を切りつけることが出来るということでもある。
 インターネット上では誹謗中傷が溢れている。そこまでは行かずとも、自分と立場や意見や異にする他者に対して論戦を挑み、論破しようとする殺伐としたオンライン上での殴り合いが常である。それによって追い込まれ自死に至る痛ましいケースも報道されているし、報道される件は実際のほんの一部なのかもしれない。
 まことに嘆かわしく悲しいことに、人口の1%強から長年脱皮できない日本のクリスチャン同志であっても、それが日常的に行われている。しかも聖書の言葉を用いながら殴り合っている。
 カトリックとプロテスタント、福音派とリベラル、終末論、シオニズムの立場か否か、LGBTについての見解etc.
 立場・意見の相違はあって当たり前だし、前広に建徳的に議論することは必要である。しかしそこに怒りの感情が入り込み、相手を論破しようとする。更に進んで誹謗中傷合戦に転じてしまうことがあまりにも多く見受けられる。誹謗中傷を端的に言うと人格攻撃である。


 毎日激しい人格攻撃がSNS上で繰りひろげられており、SNS上のクリスチャンの多くが、この風潮に乗らされてしまっている。こんな有様をクリスチャン以外の人が目にしたらクリスチャンに失望し、クリスチャンに魅力を感じるわけがない。

「クリスチャン」とは

 クリスチャンとは、この世から選ばれ、救われて、キリストに属する者となり、キリストにすべてを依存するようになった者たちを指す呼び名である。

新聖書辞典 いのちのことば社

 キリストに属する者、キリストにつく者、キリスト党,キリストに従う者

新キリスト教辞典 いのちのことば社

 イエス・キリストは、愛の欠如した律法主義者、宗教指導者を厳しく批判されたが、誹謗中傷は一切なさらなかった。そして社会からは後ろ指をさされるような者たちに自ら近づかれ、寄り添い、癒し、友となられ、救いに導かれた。
 クリスチャンとは、この方に属し頼り従う者なのだ。

「サタン(悪魔)」とは

 一方でイエス・キリストさえ誘惑したサタン(悪魔)という存在がある。

元来は「敵対者」という意味。試みる者(マタ4:3),誘惑者(Ⅰテサ3:5),悪い者(マタ13:19),告発者(黙12:10),敵(マタ13:39,ルカ10:19),悪霊どものかしら(マタ9:34,マコ3:22)などと呼んでいる.他の表現では「この世を支配する者」(ヨハ12:31),「空中の権威を持つ支配者」(エペ2:2),「ベルゼブル」(マタ10:25)などがある。
サタンは常に神への敵対者(ルカ22:3),また神の計画を破壊する者として描かれている(マコ4:15)。

新キリスト教辞典 いのちのことば社

 イエス・キリストに敵対し、彼に属し頼り従うクリスチャンを彼から引き離し誘惑するのがサタン(悪魔)である。
 サタンは巧妙で、誘惑されている張本人は、自分が絶対に正しいことをしている、言っていると信じさせる。そのために聖書の言葉を巧みに用いさせる。荒野でイエス・キリストを誘惑した際と同じである。
 そして対立をあおり、憎しみと怒りで当事者たちを分裂させ、それぞれのコミュニティーさえも破壊しようとするのだ。当事者同士はますます自らの正しさと相手の愚かさに息巻くのである。サタンはこうして火に油を注ぎ、キリストのからだを破壊しようと画策しているのだ。

御霊の実

5:19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

ガラテヤ人への手紙5:19~26 (新改訳聖書第3版)

 とても有名な聖書の御言葉である。
 見解・意見の対立から誹謗中傷合戦になってしまった者は、知らず知らずのうちに
敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」(20節)
などというサタンの術中に入れられてしまっている。言い換えれば「サタンの実」が実っていくのである。

神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

コリント人への第一の手紙12:3(新改訳聖書第3版)

 しかしそもそもクリスチャンとは、神の御霊(聖霊)がその者に臨んでくださって「イエスは(私の)主です」と告白し信じた者である。

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

コリント人への第一の手紙6:19~20(新改訳聖書第3版)

 この神の御霊(聖霊)はイエス・キリストを信じる者の内にいて下さる。そのことをしっかり自覚し感謝して日々聖霊と豊かに交わる(聖書に親しむ、祈る、礼拝する)ことによって、「サタンの実」とは正反対の実を結ばせて下さる。それが
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」
という「御霊の実」である。

 聖書理解の立場、解釈、適用などが違っていて、仮にあなたが相手を論破したとしても、逆に論破されたとしても、また平行線でモヤモヤした思いだけが残ったとしても、優越感か敗北感、フラストレーションしか残らない。どれも御霊の実ではない。
 正しくジャッジできるのは神だけだ。だから議論・討論はしても、違う意見・見解をそのまま受け止めて最終判断は神にお任せする。自分は間違う可能性がある者だと認めつつ聖霊に信頼し、聖書に真摯に向き合うのだ。

16:13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

ヨハネによる福音書16:13~14(新改訳聖書第3版)

 神が与えて下さった聖霊について正しく知り信頼する。そうすればサタンの策略に気づくこともでき、イエス・キリストに倣う者として9つの「御霊の実」を少しずつ少しずつ実らせていくことが出来る。それはクリスチャンにとって素晴らしい約束だ。
 私は人生の後半を迎えて、いかにこの実を実らせて頂けるのかが地上で残された生涯の大きな楽しみである。
 どんなに素晴らしいことを言っていても、その人の生き方に実りつつある実が「サタンの実」か、「御霊の実」かでその人の生き様を私たちは判断することが出来る。
 主イエスの言葉を最後にかみしめたい。

6:43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
6:44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

ルカによる福音書6:43~44(新改訳聖書第3版)


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