雨曝しだがそれでも【amazarashi】
また酒を飲んでいます。
私はお酒好きとは言われますが、厳密にはビール依存です。ハイボールも好きだけど。
さて、お酒の話から始まったということは、その通り。
音楽の話です。
今回は、私が愛してやまないamazarashiについて語ろうと思います。
きっと感情が溢れて長くなると思うので、少しずつ読んでください。
スピードと摩擦
私がamazarashiと出会ったのは、2015年。
当時放送されていた「乱歩奇譚」というアニメのオープニングテーマを務めていたのがamazarashiの「スピードと摩擦」という曲だった。
当時中学生の私はこの曲に衝撃を受けた。あの時の感覚は明確に思い出せないし、言葉にすることもできない。
この曲に衝撃を受け、amazarashiの虜になったのは私だけでなく、一緒にアニメを見ていた兄もである。私は高校になるまで、アニメもゲームも漫画も音楽も兄と同じ道を辿っていた。兄と一緒にアニメを見ていたし、兄がやっていたゲームを借りてやっていたし、漫画だって借りていた。
音楽もそうだった。ONE OK ROCKにハマってロックバンドが好きになったのも兄の影響だった。彼が大学生になり実家を出てからは自分の趣味にアイデンティティを持ったが、やはり根っこでは彼から受けた影響がある。
それが、いまだにamazarashiが好きな理由だ。それに共通の趣味があれば、それが家族を繋ぐ糸となり得る。
私が明確に音楽にハマったのはこの曲が一番最初だろう。今の私があるのはこの曲のおかげだ。
今この曲を聴きながら書いているけど、中学生の自分にこの歌詞の意味がわかっているとは思えないな。それでも、当時の自分の固定観念的な音楽の見方は変わった気がする。
ジュブナイル
初めてamazarashiのライブを見たのは高校生のとき。正確に何年のことかは忘れてしまったが、サマーソニック大阪に家族で参戦したときのことだった。兄の影響を受けたのは私だけでなく父親もそうだった。今は私と兄と父がamazarashiのファンをやっている。母は相変わらずサザンのファンだが、最近はK-POPも聴いているらしい。良いと思う。
私が初めてamazarashiのライブを見たとき。その時がちょうど高校の部活でメンタルが崩壊しかけていた時のことだった。じゃあ高校二年の時かもしれない。
そのライブで披露された「ジュブナイル」という曲を聴いて家族の前で号泣してしまったことを覚えている。
なぜ泣いてしまったのか。当時の彼に聴いてみたいものだ。きっと今とは感じ方が違うから。大人になりかけている今、この曲を聴くとまた刺さるものがある。当時の私も思ったことかもしれないが、この曲こそamazarashiという名を体現している曲だと思う。
特に好きなフレーズがある。
ああ、そうだ。私は始めたんだ。当時は、部活のために。大会でより上を目指すために。自分でもできることがあると示すために。
当時の私は色々なものに負けていた。自分の書いた脚本は採用されなかった。同期は舞台で演技を磨き才能を伸ばしていた。その舞台の袖で大道具の作業をしていた私を鼓舞したのがこの曲だった。
脚本は採用されなかった。それでもそこでへこたれたままではいけない。そんな時でも前に進めば、負けではない。前に進むことこそが次への一歩だったのだと自分に気づかせてくれた曲だ。
きっとこの曲にはこれからも救われる。思えばそんな曲ばかりだ。
ナモナキヒト
下校中にこの曲を聴いて泣いてしまったことをよく覚えている。
あの日は脚本選びの日で、自分の脚本ではなく同期が書いた脚本が選ばれた日であった。何度でも言うが、今となって考えるとあの日の自分の脚本は駄作だ。先輩の作品に憧れすぎた結果、二番煎じの脚本が出来上がった。あんな作品は選ばれるべきではない。
しかし、当時の私は自分の書いた世界が否定され、何も見えなくなっていた。当時の彼女と相談しながら書いたが、あれは間違いなく私の描いていた世界観で、それが否定されるなんて思ってもいなかった。自意識過剰な人間だな。
自分の脚本が却下された理由は様々だろうが、当時の私は悔しくて、自分の世界観が拒否されたようで悲しかった。
その時に聴いた曲だった。
私が感じたことだが、あの演劇部で脚本を書くことは孤独で辛い作業だった。当時の自分の境遇が原因かもしれなかったが、脚本が却下された私にとって、その場所に私のことを理解してくれる仲間はいない、誰にも理解されないまま言葉が死んでしまったと、そう思った。
私のこの悲しみもきっと誰かが讃えてくれる。誰かが見つけてくれる。私の世界観が受け入れられなくても、誰かがこの努力を知ってくれる、と。そう私に伝えてくれたのがこの曲だ。私の挫折はこの曲と共にある。
独白
それでは、当時の演劇部で採用されなかった私の脚本はどんな世界観だったのか。それは、過去に短編小説として書き直してある。
小説用に書き直したし、大学生になって感じたことも加えたが、概ね書きたかった世界観は曲がっていない。
当時流行っていたドラマの「3年A組」を覚えているだろうか。私はドラマにはあまり興味がなかったので、たまたま流れているのを見ていたのだが、そのドラマのメッセージ性ははっきりと伝わってきた。
「心無い言葉で人を傷つけるのはやめよう」
そんなメッセージだった。主演が菅田将暉であり、出演する生徒役の俳優さんたちも人気な人が多くかなり多くの人が見ていて、クラスでも少し話題になっていた気がする。特にアホな女たちがこぞって見ていた気がする。彼女たちにあのドラマの本質が伝わっていたかは分からないが。
当時の私はそのドラマに対するアンチテーゼ的な作品を書こうと思っていた。
「確かに心無い言葉で人を殺すこともできる。だが、心無い言葉で傷ついた人を救うのもまた言葉だ。」
この曲は、武道館公演「新言語秩序」の最後の曲として初披露された曲である。この公演はボーカルの秋田ひろむさんが書いた「激しい言語統制が行われる」世界の小説と共にある。新言語秩序という言語統制団体による厳しい規制が行われていた。主人公は新言語秩序の一員であるが、言葉ゾンビという、その世界では不適切とされる言葉を使う人との接触により、独白する。
その主人公の独白がこの曲だ。
数行でこの世界観を語ることは難しいのでぜひライブDVDを見てほしい。
曲の終わりで何度も秋田さんは叫ぶ。
私が書いた「青春の解像度」では、最後に別の人間が言葉に侵される描写がある。
言葉で人が傷つくならば、言葉で人は救える。だが、その言葉でまた人が傷つく。
結局、言葉による傷は埋めることができないのだ。
そんな世界を描いたつもりでいる。
秋田さんのように上手に表現することはできなかったが、素人の作品としてよくできていると思う。
空白の車窓から
最後にこの曲を紹介させてほしい。
私はこれを書いている2024年9月28日現在、大学4年生で来年の4月からは社会人になる。地元の静岡も離れ、大学の4年間を費やした福岡を離れ、東北の地で社会人になる。
歳をとり、別のステージになるにあたって、別れは必然的にやってくる。
この曲はそんな別れを描いた曲と捉えている。
そうだ。終わることなんか知らなかったのだ。ずっとこの無邪気な楽しさが続くと思っていた。そう思うと今当たり前になってしまった仲間たちとの楽しい時間も終わりがあると感じてしまう。
社会人になってきっと自由になるだろう。それでもその空白は怖いのだ。そして何より寂しいのだ。
そんな卒業間際の私の気持ちを間違いなく言語化しているこの曲を最近何度も聴いている。
先日の軽音で大切な仲間たちとamazarashiのコピーバンドができて嬉しかった。amazarashiをあまり知らない仲間も楽しそうに弾いて協力してくれたのが嬉しかった。
もう学生生活の終わりが来る。私みたいな半人前の人間が社会に出てうまくやれるかはわからないが、駄目だったらその時はまた、amazarashiと共に立ち上がって進むのだろう。
人生に絶望して、雨曝しだがそれでも前に進もう。
彼らもそう歌っているのだから。