No.337|理屈っぽい
2023年12月7日 たまちゃんの「いつか何ものかになる道」 No.337
当ブログは、30代後半の元ポンコツのサラリーマンが何ものかに変化変容を果たす過程をリアルに発信します。
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最近、自分のことを理屈っぽいと感じるようになりました。
「おいおい、それは昔からだろう。今更何言ってるんだ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、私自身は自分のことを理屈っぽいとは思っていなかったんです。
自分なりになるほどなぁ、と感じることに対して納得し、そうでなかったら納得できないと意見していただけ。
だと思っていたんですが、それを世間では理屈っぽいというんですね。
ジョハリの窓の他者が気づいていて自分が気づいていない自分でした。
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そして、今日、それが顕著だなと思ったのが、某ストレッチ店のサービスを受けていた時のこと。
身体のある部分を伸ばした際のストレッチの説明が理屈に沿った内容だったため、「なるほど」と思い、自分なりに感心した旨を会話していたんです。
でも、何やら隣で受けている方々とは会話の内容が違うんですよね。
皆さんの会話が軽く聞こえるんです。
会話に納得を求めていないんですよね。
「共感」しあっていても、「納得」するような会話はしていないんですよ。
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いちいち会話に「納得」を求めていたようで、気楽に会話をしていない自分がいました。
私の場合、
「原因は何か」とか。
「こういうことが裏側にあるに違いない」とか。
「AだからBをした方が良い」とか。
自分では気づいていなかったのですが、「何かの論理を見たり聞いたりして納得する際に心が動かされている」ようです。
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理屈っぽいかもしれないとは思っていましたが、「物事に論理や理屈を求め、それが見つかった際に納得する」。
こういう性質なのはまったく気づいていませんでした。
これを認識できたため、納得を求める会話とそうでない会話のモードを入れ替えることができるかもしれない、といえます。
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また、理屈っぽいということは、変な理屈でも通っていると思うと、騙されてしまう可能性もあるということ。
こうした自分の特徴を客観的に見れるようになったのも、円熟味を増してきたと解釈しています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
明日も「即断・即決・即実行」「平均ではなく異常をやり続ける」「わからないからすべてやる」「完璧主義より完了主義」「批評家ではなく実践家であれ!」でいきます!
●本日のまとめ
・理屈に沿っていることや論理的かどうかで納得することが思考の癖となっているようだ。
・ジョハリの窓にあるように、他者が気づいていて自分が気づいていないことだったため、新鮮である。
・自分の性質として客観的に見ると、それはそれで良し悪しがあり、うまく対応してきたいものである。