説明しないとわからないなら、説明してもわからない
これは僕がちょっと前にツイートしたことなんだが、それをもうちょっと掘り下げたい。
説明してもわからないのはどんなことか
まず、説明してもわからないこととは何だろうか。それは相手が説明を理解するための素地がない、ということになる。罪のない例でいえば、掛け算も習っていない小学校一年生に、微積分の説明をすることは意味が無い。基礎知識不足によって理解に至らないのは、純粋に高度な知識を必要とする専門領域ではよくある話だ。
現実的にはもっと微妙なラインとして、人間関係の前提となる「常識」や「社会的規範」の部分で問題になることが多い。たとえば「予定もないんだから、少しくらい遅刻してもその分後ろ倒しにしたら問題ないじゃないですか」と言う人を納得させることは難しいと思われる。実際、一理ある。一方絶望的なラインの話をすると、「私はあなたが不細工だと親切にも教えてあげたのに、どうして怒るの?」と本気で言っている人に、なぜ怒るかを理解してもらうことは不可能だろう。
こういった「社会的規範」とされるようなデリケートなところを教えてくれるのが親であり、時には教師や師匠のような存在もその役割を担う。
社会に出れば放置される
根本的理解のような難しいことを辛抱強く教えてくれる人たちは、学校を卒業したらいなくなる。これを教えるのは多大な時間と労力がかかるうえに、果たして成果が出るかもわからず、教える側からすれば「そんなことする義理はない」のである。
しかしそれだと組織として困ることもあるので、前者の専門的知識のほうは、組織的に教育プログラムがあったり(新卒研修などがそれにあたる)、組織的にメンターや先輩の指導者をつけたりする。もっとも、最近はコスト削減の煽りで手が回っていないところが多そうだ。後者の人間関係的な素地のところについてはさらに壊滅的かもしれない。最近は管理者向けのマネジメント講座や、メンバ向けにチームの一員として生産性をあげる名目での講座をしているところもあるようだが、どうも人間関係というのは、座学で学べることには限りがあるようで、功を奏しているとは言い難い。
その結果どうなるかと言うと、できなければ放置される。教育コストがあまりにも大きく、割に合わないと見做されるためだ。特に最近は職場のウェットな関係が嫌気されているため、一昔前ならば先輩や上司に一喝される場面でも、今はもういいやと放置されがちだ。それは社会が求めたことでもある。
教えてもらえる人もいる
例外は、当人が「教育してほしい」ということを明らかにしており、かつ「謙虚」で「頑張っている」ことが傍目にもわかっている時だ。そんなときは、周りの親切な人やお節介な人たちが、色々と教えてくれる可能性が高い。特に二十代まではただ素直に「よろしくお願いします!」という態度でいればだいたい大丈夫。
しかし年齢を重ねていると、「その歳でそんなこともできないのか」と侮られる可能性もあり、三十代以降は可能なら「自分はこれこれはできるしチームに貢献できます」という能力も必要かもしれないし、そのうえでより「謙虚」な姿勢も求められるだろう。
歳を重ねていればそれだけ教える側もやりづらくなり、コストに見合う「見返り」があると信じられづらくなる。それでも本当にできなければただただ頭を下げるしかない。しかし若い人より時間はかかっても、謙虚かつひたむきに頑張っている人に対しては、いくつになっても、応援してくれる人がなんだかんだでいるものだ。
歳を取るほどに難しくなる
さて、これだけ書けば「自分も(いくつになっても教えてもらえるように)そうありたいものだ」と思うかもしれないし、実際僕も思うのだが、事はそう簡単ではない。最初に書いたように、教えられるのは「専門的知識」だけではなく「社会的な規範」であることもしばしばだ。
そこで、「専門的知識」については、確かにいつまでも教えてもらいたいと思うだろうが、「社会的規範」となるとどうだろう?実はこれらが明確に区切られていることは少ない。というより、区切られているものが、「塾」「学校」「セミナー」と呼ばれるビジネスである。有り体に言うと、金がかかる。なぜ金がかかるかといえば、それは難しいことだからだ。
金ではなく人間関係の中で教えてもらうわけだから、当然ウェットな人間同士の心の交流なしではいられない。そして教える人・教わる人という明確な上下関係の中で、必ず「専門的知識」とセットでその人のもつ「社会的規範」も少なからず教わることになる。
「謙虚」というのは、専門領域の知識不足を受け入れるというだけではなく、「今までの自分の人生・価値観とは異なる人であったとしても、その教えを受け入れ取り込む努力をする」ことも含んでいる。少なからず、自分の人生・やってきたことについて、否定するようなこともあるだろう。
まぁ教える側も相手の年齢を程度の差はあれ慮るが(これが教える側にとって年長者に教える見えないコストである)、そうは言っても完全になくすことは難しいし、もし非常に気をつけなければいけないと感じられる場合、「なんでそうまでして教えなきゃならんのか」となるので、やはり損得を超えて教えてもらう以上は、相手の人生観をまるごと受け入れる、くらいの覚悟が教わる側にはいるのである。ま、現実的にそれは厳しいので、もう少しマイルドにするための手段を色々と画策することになるだろうが。
対応
以上より、説明してもわからないとはどういうことか、またそれはどのように解消されるかを書いたが、逆説的にそれがいかに難しいかを説明したことになっただろう。ここで、いくつかの立場に則って対応を考えたい。
教える側: 距離をとる、ただし取り方に違いはある
自分が教える側だと感じられた場合、まずやるべきことは、不足しているのは「専門的知識」なのか「社会的規範」なのかを峻別することである。前者のみで後者は十分だと思うならば、好きにすればいい。教えてもいいし、教えなくてもいい。どちらでも大した差は無い。
そうではなく「社会的規範」と考えられる場合、次にすべきことは、「本当に自分は教える側なのか」と自問することである。たとえば「仕事のために夜更かしするのはいけないことだと、どうしてわかってくれないのだろう」という場合、これはただの価値観の違いであって、教えるようなことではない。仕事を優先するか睡眠を優先するかは、一義的に言えることではない。一方で、「夜中に騒いだら近所迷惑になると、なぜわからないのか」の場合は、確かに社会通念から言ってももっともなので、徒労の未来が約束された教師と言えるだろう。
しかし、いずれにせよその次にやること自体は実は変わらない。「距離をとる」である。ただ、その距離の取り方が変わる。
「あくまで価値観の違い」であれば、別の場面では協力できる関係を築ける可能性がある。なので、連絡手段は残しておくと、そのうちに互いを認め合える日もくるかもしれない。実際これはよくある。求められれば、必要に応じてちょっとくらい「教える」のもいいだろう。
一方でもっと本質的・根本的、人間的な無理解が根底にあると感じられるのであれば、恐らく、付き合い自体を可能ならばやめるくらい強烈な措置を取るほうがよい。とはいえ会社の上司や家族、ご近所さんなど、切れない・切りづらい関係も多い。こればかりは個別のケースなので、なんとか少しでも距離を置くしかない。
教わる側: 自覚して受け入れて成果を見せて感謝する
まず、自分が「教わる側」と自覚していること自体が稀と思われる。たいていの教わる人に、自分が生徒である自覚はない。迷惑な隣人は夜中に叫ぶことを迷惑行為だと認識していない。自分が生徒だと本当に思える謙虚さと内省する姿勢を持っているならば、それだけで上位ランカー(何のだ)である。
ただし、成人してから社会的規範を教えてくれる存在など期待すべきではない。これは自分で学ぶしかないと思う。専門的知識を人に乞う時点で一定程度要求されるので、その過程で学ぶしかない。
二十代までならば、熱意だけでも十分だ。「教えてください!」と頭を下げ続ければ、誰かが教えてくれる可能性は高い。もっとも、教えてくれる人が良い教師かはわからないが。またその後無礼な態度をとったら何にもならない。むしろ教わった後が大事まである。
歳を重ねると難しく、生徒の自覚だけでは足りない。実際に良き生徒として振る舞って初めて生徒と認められる。教えてもらったことを実際にやり、その成果を見せ、そして感謝する。これは必須。
そのうえで、人生指南が入るかどうか。これが入るようだと教わる側はしんどい。受け入れられるならいいけれど、難しそうなら師弟関係は無理だから、その時はアドバイザーくらいの距離感になんとかシフトしたい。当たり前だが、生徒の立場で何故か逆に先生の人生指南するとか、その瞬間に関係崩壊するので絶対しない。
まぁ正直、専門的知識については、金払って教えてくれる人がいて、その金を払えるなら、それが一番楽ですな。しかし使える金がないなら、気を使うしかない。
組織・あるいは社会
マクロな視点として、組織・あるいは社会はどうあるべきかという観点もある。これについては、人々が助け合い学び合うことが良いに決まっているが、ここまで述べたように事はそう簡単ではない。「教えることのコストは甚大であり、しかも報われない可能性が高い」ことを認識すれば、「教える」ことになんらかのインセンティブが必要だということになるだろう。
それは必ずしも経済的な報酬に限らない。というより、どうも「人間的」なところは金銭を絡めるとむしろ学べないように思う。かといって、仕組みとして経済的な報酬以外を用意するのは難しい。組織内だけであれば、地位や評価に反映することは可能だろうが、その評価の具体的な方法と言われると厳しい。
個人的には、師弟関係が社会的に広く認められると良いとは思う。そういえば研究室にはそういう側面があった。今も職人文化には残っているだろうし、なんだかんだ揶揄されるJTCの社内文化にもあるだろう。師弟関係に強制性があったり、自己の意思が介在しないと、それはそれで問題になる(ウェットな企業文化が嫌気された遠因と思う)が、逆に言うと、そうでなければ可能性はある。RPGには師弟制度のあるゲームがあるけれど、あんな感じで、ある程度フランクに誰かに師事するのが普通になるといいかもね。
とはいえ、これは遠大な話だ。正直マクロには現状厳しいのが実情だろう。ひとまず一市民としては、ウェットな関係の功罪について見直すところからではなかろうか。
まとめ
以上が、「説明しないとわからないなら、説明してもわからない」の詳細である。これはとどのつまり、理解をするための基礎的な概念について体得できていないことに尽きる。
その概念が専門的な知識なのか、あるいは社会的規範なのかで道は大きく分かれる。単なる知識不足ならば、やりようは必ずある。一方で社会的規範の場合は、距離の取り方が重要である。単に価値観の違いなのであれば、適切な距離を確保することで、有意義な関係性を維持することは可能と考えられる。一方でそれがもっと本質的、人間的なところにまで下がる場合は、その関係自体を見直すべきだろう。
最後に、立場というのは固定的なものではない。人は時に教える側であり、時に教わる側であり、時にどちらでもない。重要なことは、自分と相手のために、もっとも最適な距離感を推し測ることだと思う。その測定結果は心の痛みとなって表れることも多いが、結局のところ、僕らはそれを続けていくしかないのだし、またその痛みの積み重ねが、その人の一部を作るんじゃないかな……。