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インサイド・ヘッド2を見て考えたこと(という名目の自分語り)

※大ヒット作品の予習をするのにわざわざこのnoteを読む人がいるとは思えないしもしそうならこれは感想のふりをした自分語りなのでお勧めしないけどゴリゴリネタバレが含まれます

先日、ディズニー/ピクサーの新作映画『インサイド・ヘッド2』を見てきた。
私は基本的にディズニー映画を避けてきたので、これまでの人生で見た記憶のあるディズニー作品数は合計しても片手の指におさまる。しかもほとんどは兄弟の付き合いや学校の授業で見たもので、劇場で見たのは実写版『アラジン』くらいだ。
家にテレビがなかったこと、親も別にディズニーを好んではいなかったこと、ディズニーはミーハーだと思っているひねたガキだったこと、要因は色々あるけれど、一番の理由はディズニー作品のような「ただしく美しい主人公が努力しハッピーエンドで終わる作品」を作りものだとしか思えなかったことだと思う(作り物で何が悪いねんという話だし、ここにはディズニーに対する強い偏見が含まれていることは自覚している、でもほぼ見たことないんだから許してくれ)。
もしかしたら小さい頃はちゃんとあったのかもしれない変身願望もヒーローを待望する気持ちも、それを自覚する頃にはもう失われていて、プリンセスになりたいと望むのはおこがましいことだった。
小学校の高学年のときにはPSYCHO-PASSとエヴァンゲリオンに夢中になっていたから、きっとこの時くらいにはすでに、世界はけっこう不条理で、そしてわたしはその世界の主人公ではないという感覚を覚えていたのだと思う。

これはきっと、小学校に上がった際に感じた小学校世界と今まで私が知っていた世界とのギャップ、そこから生じる「生きづらさ」に起因している。
幼稚園にも保育園にも行っていなかった小学校に上がる前の私が知っていた世界は家族を除けば主に二つ。一つはご近所コミュニティで、もう一つは父が舞踏家であったために自動的に属することとなったアンダーグラウンドな舞踏と身体表現の世界だ。ただ二つの世界には構成員の共通性があったこともあり、二つは私にとっては違和感なく繋がっていた。
でも、というか、だからこそ、というべきか、ここにいた私は「幼稚園」や「学校」というものに強いあこがれを抱いていたように思う。小学校が舞台の本を読んで、自分もこの一員になれるのかな、と目をキラキラさせていた。
そしていざ入学した小学校。授業も、給食も、掃除すらもなんでも楽しかった。当時どう思っていたのか14年もたつと正確にはわからないけど、それ自体というより、本で描かれるような世間の「ふつう」に染まれた感覚が嬉しかったのではないかと思う。
ただしばらく経つと私は強烈な対人不安を感じるようになった。同級生は問題なかったのだけど、当時の私から見てかわいくて、大人で、少女まんがの人物みたいな中学年・高学年の先輩たちに嫌われているんじゃないかとビクビクしていた。それが怖くて学校に行くことを渋っていたことすらある。(補足すると、私の地元は過疎地域で小学校は全校生徒合わせても普通の学校の一クラス分くらいしかおらず、学年を超えた交流が非常に活発だった。)
記憶にある限りでは、現在まで続く対人不安との付き合いが始まったのはこの時だ。
それではなぜこのときだったのか。その理由は先に軽く触れた入学以前とのギャップだったのだと思う。
小学校に入った私は、中学年・高学年の先輩たちにあこがれ、そのふるまいを内面で規範化していた。洋服、持ち物、好きなもの、話題、ついていこうとした。真似してみようとした。でも、うちにはかわいい服もなかったし、かわいいレターセットをどこで買うのかもわからなかったし、これ買ってと親にねだることもできなかった。
さらに、知れば知るほど、自分が「ちがう」ことがわかってきた。テレビのない家はふつうじゃないし、ふつうの人は秋になると踊りのツアーのために10日間も学校を休んだりしないし、放課後に稽古があったりもしない。ふつうじゃないことがバレてはいけない。ふつうのふりをしないといけない。
規範についていけない自分、「ふつう」じゃない自分を自覚して、いつそれがバレて追放されるんじゃないかとビクビクするようになった。他人のささいな言動を過剰に気にして、嫌われているんじゃないかと勝手に落ち込んで、存在を許してもらっている立場なのだから身の丈に合わないような言動をしてはいけないと自分を律した。
小学校に上がる前に知っていた世界ではなかった規範としての「ふつう」の存在(私が勝手に作り出したものであったとしても、当時の私には確かに存在だった)とそこからの逸脱の感覚が、今日に至るまでの対人不安の源にあるのだと思う。

ずいぶん話がそれてしまったけど、そもそもなんで私がディズニーを避けていたかという話をしていたんだった。
要は、自己肯定感が低くいつもビクビク生きている子どもにとっては、ハッピーな物語はずいぶんとおめでたく思えたのだ。この自己肯定感と対人不安についてはその後の人間関係の拡大と自分に向き合えるようになったことで徐々に緩和されているのだけれど、ディズニーに対しては小学生の頃の感覚をもったまま今日まで生きてきたので、二十歳になっても「エンタメとしては面白いんだろうね、で?」と思っていた(ヒロアカとか逃げ若とかアニメや漫画は面白い!だけでガンガン見るくせにディズニーだけ冷笑しているの実は意味不明なんだけどそんなこと考えもしなかった)。

そんな私がなんで劇場までディズニー映画を見に行くことになったかといえば、ただ単に友達に誘ってもらったからである。
私は面白い人間の勧めるものは面白いと思っているので基本的に勧められたものは摂取するようにしているのだけど、最初にこの『インサイド・ヘッド2』を友人Aに勧められたときは「いやでもディズニーだしな…」「そもそも1見てないしな…」となんやかんや理由をつけてあまり見る気はなかった。ところが別の機会に友人Bにも勧められたうえ、1を見ていないといったら鑑賞会を開いてくれたので、これはさすがに行くっきゃないかぁと思い始めたのである。ちなみに1を見た時点でディズニー/ピクサー冷笑しててごめんねという気持ちになったのだけど、ここで1の感想だけ語りだしても仕方がないので後でまとめて話します。そしてなんやかんやで友人Bと一緒に見に行ってきたので、前置きが極めて長くなったけれど、ここからは当該作品を見て私が感じたことを話していきたいと思います。この作品を見て特にこう思った!という趣旨のある感想文をまとめることはできそうにないので、思いついたことをつらつらと書いていきます。

(知ってると思うけど)『インサイド・ヘッド』シリーズは、ライリーという少女の頭の中の「感情」たちを描いた物語。ヨロコビ、カナシミ、ムカムカ、イカリ、ビビリの5つの感情たちがライリーを幸せにするために奮闘するようすを描いている。感情たちがそれぞれコンソールを操作することでライリーの感情が変化するのだけど、完全に操作できるわけではなくて、うまくいかなかったり、外的な変化によって感情たちが影響を与えられたりもする。さらに『インサイド・ヘッド2』ではライリーが思春期を迎え、頭の中に新たな感情たちがやってきて更なる混乱が起きる。

この映画の感情をそれぞれキャラクターとしてとらえるアイデアは、自分の感情を客観視することにも有用だった。例えば私は目の前にやらなきゃいけないことがあるのが分かっているけどやりたくなくて、そこまでやりたいわけではないこと(どうでもいいweb漫画を読むとかTwitterをスクロールするとか)を後ろめたさを感じながら延々とやってしまうことがあるのだけど、これはシンパイとダリーが葛藤しているのかな、とか。
一方で、この映画で「理性」と「意志」はどう位置づけられるのだろうというのは少々疑問だった。理性が感情の手綱を握っているという伝統的な理性中心主義に一定の批判があることは理解しつつも、その考え方は自分にとってわりと自然なものだったので。
これらについてはあるレビューを読んだときに、この作品に「理性」の描写が存在しないのは無意識的な部分も含めた人間の行動のほとんどは理性ではなく感情に支配されているからだ、とあって、一定の納得感を得た。
また制作陣へのインタビューでは「ライリーは決して操り人形ではありません。たとえば怒りを感じたとき、その感情にどう対処するかは彼女が決めること。怒鳴るにせよ、そうでないにせよ、行動は彼女の決断によるものであって、怒りの感情が「こう動け」と告げることはないんです。」と述べられていた。そう考えるならば、ライリーの「決断」をする部分こそが理性なのだろうか。
もっとも文献をいくつか見てみるとここについてもいろんな考え方があるらしく、しっかり知ろうと思うとかなり勉強が必要そう。

感情の一つであるヨロコビはその名の通りいつでも明るく前向きなみんなのリーダー。ライリーにはいつもハッピーでいてほしいと思っていて、だから最初はカナシミをできるだけコンソールに触らせないようにしたり、嫌な思い出を遠くに追いやってしまったりする。ここまで読んだ人ならなんとなくわかるかもだけど私は当初この子が苦手だった。そりゃあいつでも前向きでいられたら最高だ、そんなのは分かっている。でもそれって私みたいな、自分でもままならない部分を抱えている(と思っている)人間にはそれはちょっと眩しすぎるのだ。
だから『インサイド・ヘッド2』でヨロコビが「いつでも前向きでいることがどんなに大変かわかる!?」といって泣き出してしまったとき、彼女にもそういう気持ちがあるのだと知って驚いた。この作品の面白いところは、それぞれの感情たちもその感情だけを持っているわけではなくて、他の感情もちゃんと持っている、いうなれば人間であることだ。ライリーという少女と彼女の感情たち、二つのレイヤーで人間を描いた物語であることが、この作品をエンタメとして面白くしていると思う。

この作品では、記憶は「思い出ボール」という球体として保存され、そのうち人生を左右するような記憶が特別な思い出として性格の島を形成する。つまり「性格」は最初からあるわけではなく、記憶によって形成される(世界核にいうと「気質」は最初からあって、そのうえに経験によって「性格」が形成されるのだろう)。冒頭の私の小学校時代に遡る自分語りも「自己肯定感が低い」「人と接するのが苦手」という性格がどういった経験によって形成されたかを書いたものだ。これは逆に経験によって性格が変えられる可能性があるということで、最近の経験も相まって私に人に頼る経験をする勇気をくれた。

思春期になったライリーのふるまいにはかなり共感した。ライリーは周りに合わせようと好きなバンドを嫌いなふりをしてみたり、それまでの友達と距離をとってみたりするのだけど、これは完全に中学~高校初期の私がやっていたことで苦笑いと共感性羞恥がすごかった。ちょっと年上の子に「どんな音楽が好きなの?」って聞かれて、背伸びしてテイラースウィフトが好きなの、って答えたら、背伸びしてることまで全部見破られて、「ほんとは何が好きなの?」って聞かれたことがあります。自分では思春期やってた自覚あまりなかったのだけど、実はしっかり迷走してたことに気づかされました。

1でのカナシミも、2での嫌な記憶も、否定していたものが結局戻ってきて、最終的にはそれを受け入れることによってうまくいく。うまくいかなさ、ままならなさ、そして最後にはすべてが肯定される姿勢が通底していて、そうあってくれてよかったと思った。

思いつくことを雑多に書き起こしてみたけど、総じてライリーの行動には多かれ少なかれ共感を覚える人が多いだろう。そのうえでその後ろにある感情たちの奮闘を描き出してみせたことが、視聴者の心に訴え、この作品を唯一無二にしていると感じた。

ところで、『インサイド・ヘッド2』で鍵となる感情は「シンパイ」である。クライマックスでライリーの頭はシンパイに乗っ取られてしまい、「わたしは、全然だめ」という呪文が頭の中でリフレインして、思い込みと焦りで無茶苦茶な行動をしてしまう。
私は見たばかりのときは自分にはこれってあまりないかもなと思っていた。
冒頭で話した自己肯定感の低さとは一見矛盾するが、私は根本的なところでは自尊感情が強い。周囲との違いから疎外感を感じても、運動音痴でどれだけ人に迷惑をかけても、自分なんてこの世からいなくなればいいと思ったことは一度もない。おそらくは「認めて、褒めて、愛して育てる」という七田式(小学生くらいまでやっていた教育メソッド)の教えを実践しようとした母のおかげだ。
そして、小さいころから会社に通勤するサラリーマン以外の生き方をする人を大量に見てきたことも私を助けてくれている。人はわりとどうにでも生きていけるという、将来に対するある種の楽観。父については色々と思うところはあるけれど、いくつかのとても価値のあるものを与えてくれたのも事実で、これはその一つだ。
だからこそ私はシンパイに乗っ取られることもめったにないし、あっても回復する方法をそこそこ心得ている、自分の機嫌を自分でとれるタイプだ。
このおかげで私はなんやかんやあっても一晩寝たら大体忘れる精神的健康優良児(肉体的にも健康だけど)で、前述のとおり成長するにしたがって周囲との付き合い方もわかってきたので、メンタルの問題に直面することはめったになかった。
だから、ずっと自分の頭の中に影のように貼りついていたシンパイの存在に気付かなかった。
「成長するにしたがってわかってきた周囲との付き合い方」とはつまり、好きなものの話とかは積極的にしつつも根本的な部分の自己開示を避けること、人にあまり深入りせず程々の距離を取ることである。自分の世界を持った大人びたキャラを確立することで、対人不安を感じなくて済む人間関係を築いてきた。でもこれを動かしてるのって実は「深入りすれば拒絶されるんじゃないか」「迷惑だと思われるんじゃないか」というシンパイだったのだ。そしてこれは「拒絶されたくない」「生きてていいっていってほしい」という愛と承認を求める気持ちの裏返しでもある。シンパイは嵐を起こすことこそなかったが、私の頭の一部でずっと一人で愛を求めてうずくまっていたのである。

思えば、大学に入って以降人との距離を取っていることの弊害が出てきていた。予備校くらいまではこんなスタンスでやってきても毎日顔を合わせるメンバーばかりだったので自然と仲良くなったのだけど、大学というのは一人で何とかなる場所なので積極的にコミュニケーションを取りにいかないと本当に友達ができない。クラスでもサークルでも優秀な人たちに囲まれて劣等感ばかりを感じて、コミュニケーションも大して取らないので勝手に「優秀な人たち」のイメージを描いてどんどん苦しくなっていった。いくつかの外的要因でこの状況からはなんとか抜け出したのだけど、根本的な問題は解決されてないよな、と思って時々苦しくなってTwitterの鍵垢で騒いだりしながら生きていた。
最近になって、ちょっとしたきっかけで自分の内面について考えることが増えて、それでこの映画を見て、この文章を書きながらやっと自分のなかのシンパイを見つけてあげられた気がする。
前にも書いた通り性格は経験によって形成されるらしいから、少しずつでも人に頼ったり自己開示したりする経験を積んで、シンパイをケアしてヨロコビを増やしてあげられたらいいなと思う。

以上、タイトルの通り、映画『インサイド・ヘッド2』にかこつけてけっこう根深い私の対人不安について考えてみたよ、という記録でした。それにしても6500字は長すぎる。


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