浪人生的運命論
その手紙が来たのは、2022年も終わろうとしていたある日のことでした。
河合塾と大学入試センター以外からの郵便物はひさしぶり。手書きの宛名、しかも速達。心当たりはゼロ。
差出人は高校の友人だった。そういえば住所は教えていたけれど、LINEは今も繋がっている。わざわざ手紙?余計に謎が深まった。
封を開けると、グリーティングカードと便箋が一枚。
どうも祝意を示す手紙らしい。そういえば彼女はそういう子だった。スマホに打ち込めば数秒で済むことを、わざわざ手書きで、時間をかけて書いて、でも少しでも早く伝えられるように速達料金は惜しまない。そんな子だった。
最終限まで残った予備校で擦り減った心に潤いが戻ってくる。読み進める。
どうだろう。
浪人する運命だったとはちょっと信じたくないね?
運命。うんめい。ウンメイ。どう使うだろう。決定論や神学をきちんと学んだわけではないけど、浅はかな知識で少し考えてみようか。
全部最初から決まっている、というのは、絶望でもあり救いでもある。
予定説という考え方がある。
16世紀はヨーロッパ、聖職者カルヴァンは人間が救われるか否かは神によって予め定められていると唱えた。初めて聞いた時、それなら努力したって無駄じゃん、と思った。労働に励むことで救いの確かさを確信しようとした商工業者の心理はさっぱり理解できなかった。
得心がいったのは浪人してからのことだった。最初から合否が決まっているかどうかはともかく、「こんなに頑張ってるんだからきっと合格するはず」と信じ込み、勉強することそれ自体によって不安を和らげる私は、ある意味で予定説信者だった。
幸い全知全能の悪魔でも、起こる全てのことを正確に予言するのは不可能らしい。だからといって自由意志が肯定されるかというと、そう単純な話ではないようだけど。
逆の見方をすると、すべてが決まっているなら、間違った選択なんてものは存在しない。どんな選択をしようがなるようになるのだから、ある意味気持ちは楽だ。それに、今の自分が自分のおかげではないと思えるのは、周りに感謝できるということでもある。「運命に感謝!」と手紙の彼女も言っていた。自由意志論というのは、今の自分がいるのは自分の努力の成果だと信じられるつよい人の考え方ともいえる。
それにすべてが決まっていても、選択することには意味があると思う。えいや!って直感で決めても、一ヶ月ウンウン悩んでもいいと思うんだけど、とにかく自分が納得できるプロセスを踏めれば、その選択がどんな結果になろうと自分も他人も恨まなくてすむと思うから。
かくいう私は一応悩むフリはするものの、選びたいものは多くの場合最初から決まっていて、そこになんとか理論的正当性を付与しようとするタイプ。大体のことは、人生面白くなりそうだから、とかいう意味不明な理由で選んでしまう。
そんな理由で選んだ浪人生活の結果が判明するまでは、まだ数日ある。答案の採点はもう終わっているのだろうか。受験番号の載ったPDFはまだないだろうな。載るかな、載らないかな。正直全然わからない。後期だってふざけた選択をしてしまったせいで随分苦しんでいる。あんなの2時間半で終わるかよ。
なんてブツブツ言ってみたけど、今年はどんな結果でも受け止められると思う。落ちるのは悔しいよ。悔しいけど、そこまで含めて私の選択だから。
だから大事なのは、運命が決まってるかどうかじゃない。運命に道をあけさせるほどのバイタリティがないわたしは、わたしの進む道を運命にするよ。
合否までは、あと4日。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?