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小さな幸せをかき集めるということ

思えば私は、自分が幸せではないと決めつけていたような気がする。幸せであるとは、恵まれた家庭に産まれ、五体満足、心身ともに健康でいて、何一つ不自由のない暮らしをし、容姿端麗、眉目秀麗、秀外恵中、才色兼備、知勇兼備…などとありとあらゆる四字熟語を総ナメにすること。そんな風にすら思っていたのかもしれない。実際の私は何一つとして手にしてはいないのだが、それでは私は不幸なのか。果たして幸せとは何なのかを私なりに考えてみることにした。

私はアルコール依存の父と、その父に服従する母の元に産まれた。両親は気に入らないことがあれば暴力を振るい、長男である兄ばかりを可愛がり、私のことは家政婦くらいにしか考えていなかった。食べるものに困ることはなかったが、お世辞にも裕福とは言えなかった。五体満足ではあるものの、アレルギー、喘息、甲状腺機能低下症、うつ病などの病気があり、健康とは言えないだろう。決して美人ではないし、スタイルも良くはない。頭は悪くもないが、群を抜いて優秀なわけでもない。

はぁ…。すでにため息が出てしまった。これだけでうつ病にかかることができそうだ。そろそろ幸せな点を挙げようと思う。私が他人より恵まれているのは、1つだけだ。それは人との出会いに恵まれたこと。友達は、私が良いときも悪いときも変わらず私と接してくれる。学校の先生は本当に影響が大きく、特に学童期までの先生たちは、私を育ててくれたといっても過言ではない。血縁関係のない伯母が、私の良き理解者になってくれている。X(Twitter)のフォロワーさんも優しく見守ってくれる。

私は親に愛してもらえなかった。これはとても残念なことであり、根源的に何かが欠けているような状態である。しかしながら私を愛してくれる人は親以外にいた。何人もの人がリレーのように繋がって、私と本気で向き合い、叱り、共感し、満たし、導き、支え、愛してくれた。これは当たり前のように親に愛されるよりも、尊くて稀有なことであるように感じている。

親からの愛という絶対的な何かが欠けた私が、およそ30年かけて少しずつ愛の欠片みたいなものを集めて、相対的に愛で満たされた。これを幸せと呼ばずしてなんと呼ぶのだろうか。この幸せに気づいたとき、私は初めて自分の両親のことを「親」として受け入れることができたような気がする。他人に大切にされる幸福を知った私は、初めて人に優しくできて、また初めて人に優しくする幸福感を感じることができた。私にとって幸せとは、ありのままの私を愛し、そのままの私でいい、そのままそこに居ていいよ、安心して居てくれたらうれしいよという気持ちを感じとり、また同じように伝えること。お互いの存在を認めてもらうことなのかもしれない。認め合うこと、大切にし合うこと

これから先、私に何が起こるかわからない。私にも目に見える幸せが訪れるかもしれない。地獄が待っているのかもしれない。しかし私は思うのだ。何が起ころうと、私には愛すべき人たちがいる。たとえどん底に落ちようとも、変わらずに居てくれる人たちがいる。それだけは忘れずに生きていたい。

私は私であって、私以上でもなく私以下でもないのだから。

人は愛し愛されて、その事に気付く心を持っていれば、何はなくとも幸せなのかもしれない。

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