見出し画像

今日も明日もあさっても「いってらっしゃい」

大切にしている言葉がある。
「ありがとう」「ごめんね」
そして、「いってらっしゃい」だ。

まだ私が小さい頃の話。
父は毎朝6時半に出勤していた。母は必ず「ほら、おいで」と私を呼ぶ。眠たい目をこすりながら玄関まで行くと、そこには靴を履く父と、どでかい保温タイプの弁当箱を持つ母。私は母が「いってらっしゃい」と言いながら父に弁当箱を渡すのを見つめる。ふんわりと、お弁当の良いにおいがした。

母に促されながら、私も「いってらっしゃい」と言う。父は昔堅気の無口おやじなので「いってきます」とは言わない。「ん。」とか「おう。」とか言いながら出勤するのだ。

平日は毎朝、玄関で同じ事が繰り返される。玄関に呼ばれては「いってらっしゃい」と言わされる日々。正直面倒だなぁと思っていた。
しかし、言わされていたはずの言葉はいつの間にか習慣になり、私は呼ばれなくても父の出勤時に玄関に行くようになった。ときどき母の代わりにお弁当を渡す役目をしたりして。

その時の父と母の表情は、どうだったか。昔のこと過ぎて、残念ながら覚えていない。
でも私は今でも、温かいお弁当からふわりと香るにおいが、父を見送る母の姿が、どんなに寒くても暑くても一緒に玄関に立ったという記憶が、ふと甦る事がある。

あの毎日は、大人になった今も私の心の深いところにあるのだ。ふしぎ。

***

高校生の時「“いってらっしゃい”を言えなかった」と悔やむ女の子の物語を読んだ。私はこの話に衝撃を受けた。誰かに「いってらっしゃい」と言えるのは、あたり前の事では無かった。

いってらっしゃいには『その人がまた同じところに帰ってくる』という前提がある。そうでなければ、見送る時にかける言葉は「バイバイ」や「元気でね」のような別れの挨拶になる。
いってらっしゃいには『無事に帰ってきてね』が含まれているのだ。まるでおまじないのように、何十回、何百回、何千回と繰り返すのには理由がある。

あたり前だと思っていた言葉には、大事な意味がある事を知った。毎日の些細なやりとりが幸せな事のように思えて、とても愛しく思えた。
こうして、玄関での「いってらっしゃい」は自分の中で大切にしたい習慣になった。

私が一番印象に残っているのは、就職で実家を離れるときに母が「いってらっしゃい」と言って泣いたことだ。

お別れのような、これからを祝うような、でも寂しいような、祈るような、複雑ないってらっしゃいだなぁと思った。そして、私も一緒に泣いてしまった。

だいじょうぶ、また帰ってくるから。帰れる場所があるのは幸せな事だなと思う。

***

時が流れて、私も結婚し新しい家族ができた。出産・育児で慌ただしく過ごして、言えていない期間もあった。

そして現在。
今日も玄関に立ち、みんなが順番に出発する姿を見つめる。

「いってらっしゃい」

できるだけ、明るく、楽しい気持ちで過ごせますように。
そして、無事に帰ってきてくれますように。

これは私がこっそり続けている ひみつの習慣。

いつもの朝

いいなと思ったら応援しよう!

玉三郎
お読みいただき、ありがとうございました☺️