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【小説】2ヶ月前のチケット

 会場に近づくと、『チケット譲ってください』と書かれたプレートを掲げる人たちが増えてきた。
 3ヶ月ほど前にバンドの解散を宣言してから、ツアーが開催されることなく、収容人数3,000人程のこの会場で行う解散ライブの他にライブをしないので、抽選の倍率も相当高かったのだろう。
 リグレットは、人気アニメの主題歌などのタイアップをしていた頃に比べると人気も落ち込んではいたが、それでもツアーをやればほとんどの箇所でチケットは売り切れていた。そして、ツイッターを見た限り『リグレット解散って、そもそもまだ活動してたの知らなかったw でも、メロディとか高校生の頃よく聞いてたしそれは生で聞いてみたいな』『何年かぶりのリグレットのライブのチケット取れた。それがラストライブなの辛い』といったような呟きもちらほらあり、過去にリグレットを好きだったという層もチケットを申し込んでいるのだろう。そのせいで倍率が上がり、ずっとリグレットを追いかけていたファンにチケットが回らないというの現状には、どうしてもやり切れなさを感じてしまう。
 会場の目の前にたどり着くと、入場待ちの列が既にできており、入場ゲートから会場に沿って規則正しく人が並んでいる。私ははーっとため息をつくように息を吐いてから、辺りを見渡しあの顔を探す。

リグレットの解散ライブのチケットの抽選があったのは2ヶ月前だ。当たり前のように、付き合う前からよくリグレットやその他のバンドのライブに行っていた知也とチケットを申し込んだ。「おれ、くじ運だけは誰にも負けないから」と根拠のない自信を見せつけてきた通り、狭い倍率をかいくぐり友也は2枚のチケットを手に入れることができた。
 今から考えれば不思議なのだけれど、なぜ、2ヶ月先も一緒にいると確信していたのだろう。2人でそれぞれ1枚ずつチケットを申し込めば良かったのに、なぜ別れるリスクを事前に考えていなかったのだろう。まあ、別れた後だからそんな風に考えてしまうのかもしれないけれど。
 チケットを申し込む頃から、別れる兆候は多々あった。友人としては一緒にいて楽しかったけれど、友人として一緒にいた時間が長かったせいか、手を握ったり肌を触れ合ったりといった恋人同士なら当たり前の行為にも気恥ずかしさを感じてしまうし、付き合ってすぐ「初めて会った時から好きだったんだよね」と言われた時も、『ああ。じゃあ、これまでしてくれた親切とか全部下心ありきだったんだ』なんてことを考えてしまっていた。
 時間が解決してくれると楽観的に考えたものの、時間による解決を待つことなく友也の浮気が発覚し、『良かった。これで別れる理由ができた』とホッとしつつ別れを切り出したのが、今から1ヶ月ほど前のことだ。
 LINE電話で別れ話をした時も、リグレットの解散ライブのチケットについては頭の片隅で考えてはいたものの、泣きながら謝り続ける知也の声を聞いていると(なぜ、嗚咽まじりに「ごめん。もうしないから」と繰り返す情けないところを晒しておいて、このまま交際し続けることができると思ったのだろう)、そのことに触れることはできなかった。
 とはいえ、既にライブのチケットは売り切れてしまっており、昔から好きだったリグレットの解散ライブはどうしても行きたいので、後日私から連絡をし友也の取ったチケットで一緒にライブに行くことになっていた。

辺りを見渡すと、入場ゲートの近くにある樹木桝に腰掛けている友也を見つけた。すると、相手も私に気づき立ち上がり、昔からよく被っていた黒いバケットハットを振って私に笑いかける。
「久しぶり」
 私が「うん、久しぶり」と返すと、友也は不自然な間を空けてから、
「結構人、いるね」
 と話しかける。友也の、気まずさから来ているであろうよそよそしさに、なんとなく苛立ちを覚える。気まずくさせたのそっちだろ。
「うん、そうだね」
「てかあのさ、ごめんなんだけど」
 『ごめんなんだけど』というのは友也の口癖だった。この枕詞を掛けてから謝ることで、相手の気持ちを和らげることができると思っているみたいだけど、謝る誠意のなさが露呈しており逆効果であることに気づいていない。
「今の……彼女がさ、結構束縛とか激しくてさ。沙穂とLINEするのあんまよく思ってなくて。今日2人で会うってのも隠してるから……。とりあえず、とりあえずさ、2人で会ったり、LINEするのも今日が最後ってことでさ、いいかな?」
 私の理解が追いつかず、不自然な間が空いてしまい、友也が申し訳なさそうな表情を向ける。
 別れた以降にしたLINEはこのライブについての話だけだったし、もちろん今日を最後に二度と会う事はないと考えていた。それなのに、この男に頼まれたからコンタクトを取るのをやめたと思われるのは、あまりに癪だ。
 頭がぼーっとしてくる程の苛立ちに任せて、友也が一番言われたくない言葉をかけてやろうと決意し、言葉を探す。
 そんな私を見て、何を勘違いしたのか友也は「ごめんあの、どうしても連絡とりたかったらTwitterのDMとかだったら、大丈夫だと思うから」と続ける。
 それを聞いて、さらに苛立ちを感じたが、勢い任せに言ったと思われないため語気を荒げぬよう気をつけて言葉を並べる。
「小籠包の下の紙、焼肉屋さんで帰りにもらう板ガム、シングルのトイレットペーパー、ケーキの……」
「ちょっと待ってちょっと待って、何?どうしたの、沙穂」
「私にとって、君の存在と同価値なものを並べた」
「え?どういう事?」
「薄っぺらくて興味がなくて、最後には捨てるもの」
「え?」と固まってから、「は?」とようやく侮辱されたことに気づき、私を睨み付ける。
「どういうこと?や、確かにさ、浮気したのは悪かったよ。悪かったけどさ、今は付き合ってないわけだし、それで怒るのは違くない?」
 ああ、そうか、と思った。この男は、私が何に怒っているのかも理解していないんだ、と。
 苛立ちに任せてそもまま立ち去ってしまおうかと右足を踏み出したところで、いや、と思い直す。それはこの男にとって、最も都合の良い状況になってしまう。ここで立ち去るよりも、なぜ機嫌を悪くしているかよく分からない元カノがライブ中に隣ではしゃいでいるという状況の方が不快感を与えられるだろう。
 踏み出した右足を引っ込めて、何も言わなくなった私にポカンとした表情を向ける男に、「早く行こうか」と声をかけた。