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【小説】ピッピ

 彼女と初めて交わした言葉は覚えていないけれど、仲良くなったきっかけは覚えている。

 それは、大学に入学し、以前からイメージとして持っていた『大学生』になろうと必死になっていた頃だった。
 大学から歩いて5分ほどで着く、友人が一人暮らしをする部屋で、サークルのメンバーが6人ほど集まり、お酒を飲み交わしていた。
 国から大々的に飲酒を許されるよりも少し前に飲むお酒は、苦くて不味くて喉を通らなかったけれど、罪悪感と一緒に飲み込んだときの爽快感が僕は好きだった。

「ねえ、金ロー見ない?今日たしかコナンだよね」
 その部屋の主人である海藤綾那がそう言うと、みんな一斉に「いいね」と言ってからテレビのある方向へ顔を向けた。
 正直、僕は映画を見ることなんかよりも、サークルの先輩の悪口をみんなで言い合う事を続けたかったけれど、遊び場を提供している海藤さんの言う事に逆らうことは出来なかった。

「あれ、ピッピどこだろ」
 海藤さんが辺りを見渡しながら言うと、周りのみんなが不思議そうな表情を浮かべていた。
 なんでみんな探さないんだろうと思いつつ僕も辺りを探すと、それはテレビラックの前に落ちていた。
「あ、あったよピッピ」
 ピッピを海藤さんに渡すと、「ありがとう」と言ってそれを受け取り、テレビの電源をつけた。

「え?え?どういうこと?」
 のちにサークル長になる片岡圭が、僕と海藤さんの顔を見比べて、目を丸くさせながら訊く。『どういうこと』の言葉の意図もわからずに、僕は答えた。
「え、いや、ピッピがあったから」
「もしかして、リモコンのことピッピって呼んでるの?」
 圭の言葉に周りのみんなが笑い出した。その中で、苦笑いを浮かべているのは僕と海藤さんだけだった。

「え?これ、ピッピって呼ばないの?」
 海藤さんの問いかけに「呼ばないよ」「なんだよピッピって」という言葉が帰って来たが、僕だけは「呼ぶよ」と小さな声で伝えた。
「だよね。言うよねー」
 それから、僕と海藤さんは『ピッピーズ』という謎の括りでまとめられ、「テレビはテレビっていうの?」「スマホはスマホだよね?」などと質問責めにあった。その話題が終わる頃には、テレビでは映画のストーリーが終盤に差し掛かっており、謎解きシーンが流れていた。

「ピッピって言うよねこれ」
 映画が流れ終わってからも、しつこく僕に尋ねてくる海藤さんは酔っ払っているらしく、目尻がトロンと垂れていて、「うん、言うよね」という言葉に、いちいち目元を細めて笑ってくれた。

 それから1年をかけて『海藤さん』と言う呼び方から『綾那さん』と言う呼び方に変わり、勇気の出せない僕を見かねて綾那さんから告白をしてもらってから、『綾那』と呼び方が変わった。

 そして今、『綾那』から『ママ』と呼び方がかわっても、僕らはずっと、ピッピはピッピのまま呼び方を変えることはなかった。