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【小説】噂の種田さん

「ねえ、今日の種田さんさ」
ぞろぞろと歩く社員達の中から聞こえたその言葉に、キーボードを打つ手が止まる。
営業から頼まれ、見積書の作成を行なっていたのだが、それを一時中断し、聞こえてくる会話に意識を集中する。
「またタートルネック着てたよねー。もうここまでくるとジョブズかよー」
タートルネックを着ているのか。しかも頻繁に。
私は、自分の中で築かれている“種田さん像”が、より強固になっていく事に笑みが溢れてしまった。

派遣社員として派遣されたIT企業で、私は営業事務の業務を行なっている。
このフロアにいるのは私を除く全員が正社員なので、この現場に派遣されてから半年が経つ今も、疎外感を感じていた。
現に今も、私以外の人は全員朝会から帰ってきたところだ。朝会には、社員のみの参加と決められている。
最近その社員達の中で交わされる会話に度々登場する、“種田さん”という人を私は見かけたことがない。
ただ、その噂話から、どんな人なのかというのを想像するのが、ルーチンワークばかりで退屈な仕事の中で、唯一の楽しみであった。
今集まっている情報は、『エンジニア部のリーダーとして毎日発言』『眠そうに喋る』『ゲームが趣味っぽい(これはある女性社員の偏見)』『友達がいなさそう(これも偏見)』と、今日追加された『タートルネックばかり着る』だ。
この情報を元に、トイレ等で席を立つ際、すれ違う人を観察する。
ただ、フロア内に100人以上いる社員のうち、見た目で言うと黒縁メガネとタートルネックという情報だけなので、種田さんを探し当てることは未だ出来ていない。

「これ、新作見つけたのー」
ふと声が聞こえた方向に顔を上げると、眼鏡をかけた30代くらいの女性が、チョコミントのお菓子を私に差し出している。
「あっありがとうございます!」
この現場に来て3ヶ月ほど経った頃、チョコミント味のキットカットを食べている私に、「チョコミント好きなんだ」と話しかけてくれた女性だ。
いつも、『甘党』や『なんやかんや木曜日が1番辛い』等と胸元にかかれたTシャツを着ており、不思議な人だなあと思っていたので、初めて声をかけられた時は驚いた。
それ以降、新作のチョコミント系のお菓子を見つけると、彼女は私の席まで届けに来てくれた。
「先月の○○社のアイス、あんまりだったよね」
「そうですね。ミント感が薄いというか」
「だよねー。なんか、チョコミントのライト層に媚び売ってる感じだよねー」
正直、個人的にはチョコミントをとても好きなわけではなく、“ライト層”に私は属しているのだろうけど、社内で唯一気軽に話しかけてくれる人なので、彼女と会話すること自体は好きだ。
そのため、チョコミントが好きな後輩女子を演じ、話を合わせている。
しばらくチョコミント関連の会話を続けていると、彼女の着ているTシャツに目がいった。
いつものように胸元に文字が書かれており、珍しく英語だった。『turtleneck』と書かれており……あれ?タートルネック!?
「え!?種田さん??」
「ん?何?」
この人が種田さんだったのか。
エンジニア部のリーダーだと言うから、勝手に男性だと思ってしまっていた。無意識に男女差別をしていた自分を恥じる。
そして、タートルネックを着ていると言うから、丸く高い襟のシャツを着ているのかと思ってしまっていた。……ただこれは、『turtleneck』と書かれたTシャツを着ているだなんて流石に予想できない。
というか、全然ジョブズじゃない。
笑みの溢れた私に、種田さんは「どうしたの?」と言い、心配そうに苦笑いした。