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【小説】サブリミナル・マルゲリータ

山下加奈には、生まれてから28年間誰にも言っていない秘密がある。
それは、相手の目を強く見つめると、その人の脳裏にマルゲリータが浮かんでくるという能力を持っているという事だ。
こんな能力を持っていたところで、何か得られるものは特にない。
友人に能力を使った後、「ねえイタリアン食べに行かない?なんか急に食べたくなってきた」と言われる事が多く、そのせいでイタリア料理のお店に詳しくなったくらいだ。
それでも加奈は、ふとした時にその能力を使ってしまう。
大げさな話だけれど、『誰かの思考を操作している』という事実に、優越感を感じるのだ。
趣味の悪い遊びだとは分かってはいるものの、『別に誰に迷惑もかけてないし』と開き直り、イライラした時は特に能力を多用してしまう。

とりわけその能力をよく使う相手は、会社の同僚である村上優馬だ。
優馬はトマトが苦手らしく、加奈が能力を使うたびにしかめっ面になるのだが、その様子が面白くてたまらなく、頻繁に彼の目を強く見てしまう。
「もし良ければ、付き合って欲しい」
これも昔からよくある事なのだが、相手の目を強く見つめる事が多いということから、勘違いした男性からアプローチを受ける事がある。
今回も優馬にイタリア料理店に誘われ(彼はカルボナーラを注文した)、今まさにアプローチを受けている。
「えっと……」
優馬は仕事も出来るし、見た目も好みで、趣味も合う。恋人になるという点では魅力的ではある。
ただ、結婚相手として考えるとどうだろう。
嫌いな食べ物を食べ残したり、欲しいと思ったものをすぐ買ってしまうタイプで、その子供っぽさに嫌気がさす事がたまにある。
30歳を間近に控えた加奈にとって、結婚を前提としない付き合いが出来るほど、時間に余裕があるわけではなかった。
優馬に見つめられ、早く答えを出さなければと焦れば焦る程、考えがまとまらない。
すると、こんな時に全く関係ないものが頭に浮かんできた。
「ラーメン!」
思わず口走ってしまった。
脳裏にふと浮かんだ、油の浮いたとんこつラーメンは、控えめのパスタの量で満たせなかった空腹を抱えた加奈が、最も欲していたものだった。
「ラーメン?」
優馬が不思議そうな顔をする。
加奈は項垂れた。
当たり前だ。交際を申し込んだら、いきなり高カロリーな麺類を叫ばれたのだ。
だが、恐る恐る顔を上げると、優馬はいつもの優しい表情に戻っていた。
「ラーメン食べに行く?ちょっとここ量少なかったよね」
店員に聞こえないよう気遣って小声で伝えてきたその提案に、加奈は笑顔で頷く。
その優しさ、加奈に向けられた笑顔、それを見て涙が溢れそうになった。
きっとこの失態でさっきの告白は無効になる。でも、最後に彼と並んでラーメンを食べれれば、それで良いと思えた。
彼の口元についたホワイトソースに笑いが止まらなくなった風を装い、涙を拭った。

「ハイ、どうぞー」
ラーメンが、手元に置かれる。
「いただきまーす」
嬉しそうに割り箸を割る優馬を横目に、加奈は「いただきます」と小声で言ってから、レンゲでスープを啜る。
「そういえば」
ラーメンを頬張りながら、優馬がこちらを向いた。
「告白の答え……聞いてなかったよね」
まだ有効だったのか!嬉しさで立ち上がりそうになったが、必死に冷静を装う。
「ああ。ごめんね、さっきはラーメンだなんて急に言って」
「いいよいいよ。慣れてるから」
「慣れてる?」
「なんか昔から、相手の目を見ると、その人がラーメンを食べたいって言い出す事が多いんだよね」
そういう事か。
告白をした後に、加奈の様子を伺う様に見つめていた優馬を思い出す。
優馬も、能力者だったのか。
加奈は思わず笑い出してしまった。
「え?なんで笑うの?」
それは、いつも人に使っていた能力を自分に向けられた事、しかも優馬の持っている能力が、ラーメンだという事。
その全てがどうしてか、おかしくてたまらなかった。
「付き合おっか」
「え!?ホント!?」
ガッツポーズをする優馬に、加奈はまた、笑いが止まらなくなってしまった。

それから4年が経ち、優馬との間に宗太という息子が産まれた。
去年建てた新居のリビングで、まだ髪の毛も生え揃っていない可愛らしい息子の寝顔を見つめていると、宗太が目を覚ました。
加奈を見つめるその小さな瞳に対して自然と笑みが溢れた後に、いきなり胸焼けがしてきた。
脳裏に、マルゲリータの上にラーメンを乗せたものが浮かんできたのだ。