「歴史記述」とデータ分析
哲学者のアーサー・ダントーの思考実験に「理想的編年史家」というものがあります。理想的編年史家は、起こったことを、起こった時に、起こった通りにすべて記すことができる能力を備えている人のことです。思考実験なので、もちろんそのような能力を備えている人はいません。ダントーは投げかけます。彼は最良の歴史家になりうるか? と。
答えはNOです。例えば、「セルビアの青年がオーストリアの皇太子に向けて放った一発の銃弾が、第一次世界大戦の引き金となった」という歴史記述を題材に考えてみます(*1)。 この記述が可能となるのはいつか? セルビアの青年がオーストリアの皇太子を暗殺した1914年6月28日(サラエボ事件)でしょうか? でも、サラエボ事件が第一次世界大戦の引き金になったことは実際に第一次世界大戦が勃発してからでないと分かりません。さらに言えば、その戦争が“第一次”世界大戦であると言うためには、第二次世界大戦が勃発してからです。
そもそも、“history” が“story”の語源であるように、歴史(history)とは単なる事実の配列ではなく、それを伝える人の示す物語(story)の流れを指しています。つまり、歴史の記述とは、後の時点・視点から過去を振り返り、意味のある事実を拾い集め(無意味な事実は無視!)、それをストーリーによってつなぎ合わせてはじめて成り立つものといえます。
事実をリアルタイムにありのままに記述できたとしても、それは歴史記述にはなりません。歴史記述そのものは過去から現在に向かって時間が流れるストーリー構成ですが、実際に歴史を記述する際には、現在の視点からさかのぼって過去が意味づけられるというかたちで時間の流れが逆になっています。
データ分析についても同じことがいえます。ビッグデータの文脈でやみくもにデータを集めて処理したり、調査レポートというかたちで事実を羅列したり、考えられる限りのKPIを定義してトラッキングしたりしがちなのですが、事実をいかに正確に記して羅列しても、それは分析にはなりません。それらが意味を持つためには、目的(課題)の観点から必要な事実を拾い集め、不必要な事実は無視し、有意味な事実をストーリーによって連関させなければならないといえます。
分析結果のストーリーとは、歴史記述と同じく、目的からさかのぼって構成されるのです。
注釈:
(*1)浅野智彦, 2001, 『自己への物語論的接近』勁草書房から引用。
本記事は、2016年8月17日に掲載したInsight for Dの記事を、note用に許可を得て転載しています。
※元記事:https://d-marketing.yahoo.co.jp/entry/20160817410788.html
(Insight for Dは2020年6月30日に終了予定です)