見出し画像

VRCぽこ堂議事録:「良い人」であるという高利貸しー責任とその構造について

議題

せき‐にん【責任】
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。

出典 小学館デジタル大辞泉

責任。実にいやな言葉である。
人には負ってもらいたいが、自分では負いたくないものランキングがあるとすれば、おそらく「税金」と覇権を争うことになるワードだ。

しかも、ただでさえ負いたくないのに、しばしば「え、そこまで俺が責任持つんスか?!」という謎の責任のおかわりをくらうことがある。つらい。

しかしーー、残念ながら責任と税金と死からは逃げられまい。
ということで責任について議論を行った。

議論の内容をまとめると

  • 責任の前提にはなんらかの「約束」がある。

  • ただの労働の約束を超えて、「良い人」でありたいという願望を持つとき、そこには新たな約束と責任が追加される。

  • 「良い人」であることはタダではない。ご利用は計画的に。

具体的な議事はこちら



責任概論:その概要と前提

責任とは、ある人に「求められる行動や義務の実行」を定めたものである。
たとえば教師であれば、まず生徒を教える責任があるし、同時に生徒側には授業料の支払いや教室に来る責任が生じる。

さて、責任が厳密な契約ベースであれ、ゆるい場の空気のようなものベースであれ、何らかの振る舞いを求められるものである以上、その前提としてそれぞれの義務を規定する何らかの「約束」が必要である。

約束ってなんだ?

では、責任の前提として約束が必要であるとして、約束にはどのような要素が含まれるだろうか?この点は複数のパターンが考えられるが、最低限必要な要素としては、「誰と誰で結ぶか」および「なにをしなければならないか?」である。

【誰と誰で結ぶか:約束の主体は誰か?】
約束なので、成立には「誰か」が必要だ。「誰か」は個人でもグループでも問題ない。例えば下記のような形である。
 ・個人対個人(いわゆる普通の約束)
 ・個人対社会(法律や倫理)
 ・社会対社会(条約)
また、変則的に言えば、
 ・現在の個人と「なりたい」将来の個人
なども考えうる。この点については後述する。

【なにをしなければならないか?:義務の規定】
誰かに責任を求めるためには、最低限やらなければいけないこと(あるいは望ましい行動・原則)と誰がそれをやるのか?(責任の所在)が分かる必要がある。
ただこの点、約束にはゆるいもの(マナーなど)/厳しいもの(法律など)があるほか、成立しているのかさえあいまいなもの(場の空気など)もある。形式も口約束から書面まで様々だ。

その意味で、約束の内容や形式には大きな自由度を持つ。

責任は都合よく拡大されていないか?

さて、責任の基本構造は約束である点について論じたが、実際に我々が現実の場で「責任」という言葉にふれるとき、それは一見本来の約束以上の範囲に踏み込むことがしばしばある。

たとえば、あなたが医者だったとして、下記のような事例で考えてみよう。

シフトが1830までのあなたが帰り支度をし、病院の入口を出た瞬間、
急患が担ぎ込まれてきた。時間はすでに1900である。
不幸にして、代わりの医者はいない。
では、どうするか?

自分のシフトを完全にこなしているので、あなたにはなんの契約上の義務はないはずだ。しかし、「責任感のある」医者なら当然対応しますよね?というプレッシャーがかかることは想像に固くない。

このとき、本来的な意味での契約(労働契約)の内容は無視され、貴方には過大な義務が課されているように見える。

こういった事例は、誰にでも心当たりがあろうし、殺意に目覚めそうになったことも少なからずあろう。あるいは、この事例のように上司や職場の雰囲気に強制されずとも、責任感がゆえに、過大な仕事を抱え込む人間をみた人も多いのではないか。

責任が双方の約束にしたがって生ずるのだとすれば、これはいかなることか?これは結局のところ、使用者側に都合のいいダブルスタンダードではないのか?

それはダブルスタンダードである:
約束は一つとは限らない

実際、この状況はダブルスタンダードである。

ただ、都合のいい方向にあわせてルールを変更する、という意味でのダブルスタンダードというよりもむしろ、より根本的に、2つの約束の影響下にある、という意味でのダブルスタンダードである。

たとえば上記の例でいえば、
1:その病院との労働契約としての仕事
2:良い医者/良い組織人としてなすべき仕事

という2つの約束が併存している。

この点、仮に労働時間外の患者の診察を拒否したとしても、1には違反しない。要するに職場の居心地は悪くなるかもしれないが、病院は貴方をクビにはできない。
一方で、2の基準、つまるところ「良い医者」「職場で認められる医者」であるためには、たんなる労働以上のことが求められる。医者の職業倫理のためであれ、病院の職場仲間のためであれ、「良い」医者であるなら、困った患者を放置して帰ったりはしないだろう。

つまるところ、「良い」という称号は高価なのである。

責任に潰されないために:
「責任」の収支を計算しよう

責任感のある人間ほど鬱になりやすい、とよく言われる。
では、責任に押しつぶされないためにはどうしたらよいのか?

この点、いわゆる書面上の契約なら話はシンプルで、条件をしっかりと把握して契約を結ぶこと、また、相手にそれを守らせる実行力があるのかを確認することが重要だ。このあたりを曖昧にしておいていいことはない。

一方で、厄介なのは上述の「良い」医者のような見えない約束と責任である。多くの場合、それは書面による労働契約などを超えた「あいまい」な約束に伴う責任である。それは職業倫理のこともあれば、個人的な道徳のこともあり、労働契約と約束の相手が変わることもしばしばだ。

このとき、もちろん相手が自分の利益のために、労働契約と別の約束をすり替えていないか注意を払う必要がある。一方で、上司など「相手」に注意するだけではおそらく十分ではない。自分自身にも注意を払うべきだ。

上述のように、あなたが良い社会人・人間であろうとするとき、その願望は「普通」の人間よりも大きな義務を強いる。それは文字通り立派なことであるが、自分自身に問うべき一つの質問がある。

自分は本当にコストを支払って、そのポジションを手に入れたいだろうか?

という質問である。

それは買い物に似ている。
自分の可能な範囲で、支払いに納得しているのなら、何にいくら使おうと自由だ。しかし、値札を見ずに買い物をしたり、いらないものを買ったりすることを賢い買い物とは言うまい。

買い物と同様に、自分を超えたなにものかであることもまたコストを要求する。であるなら、自分の責任について考える場合でも、無駄遣いを防ぎ、本当に必要なものにフォーカスすることが肝要であろう。

まとめ

  • 責任の前提にはなんらかの「約束」がある。

  • ただの労働の約束を超えて、「良い人」でありたいという願望を持つとき、そこには新たな約束と責任が追加される。

  • 「良い人」であることはタダではない。ご利用は計画的に。


個人的所感

先日、新しくクレジットカードを作ったのだが、クレジットカードを契約すると、ものすごい勢いでリボ払いを勧められる。
リボ払いは定額支払を隠れ蓑にしているが、その実態は金利・手数料をむしる「人を殺す魔法(ゾルトラーク)」である。

「良い人」であること、というのもそれに似ている。
目先の行動で良い人で「ある」ことを示すのは簡単だ。ちょっと親切にすればいい。1回の支払いは大した金額ではない。
しかしながら良い人で「居続ける」となれば話が変わってくる。あらゆる行動に金利が上乗せされ、最終的な支払金額が膨らむ。

さて、かようにリボ払いと責任とは恐ろしいものである。

ただ、そのような側面がある一方で、組織の観点から見ると、責任感のあるメンバーの多い集団のほうがそうでない集団より強い、とも感じる。
それは集団を構成するメンバーからより多くの力を拠出させるからだ。

その意味でいえば、名誉や道徳といった一見実態のない価値を媒介に、個人から実利以上の仕事を引き出す、という点で「責任」は社会側が開発したテクニックである、という見方もできそうである。

もちろん、それは社会が個人から幸福を不当に収奪している、というような単純な話ではない。ただ、約束とは常に双方の綱引きである以上、それぞれが技術を磨いているのだと考えると興味深い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?