VRCぽこ堂議事録:「良い人」であるという高利貸しー責任とその構造について
議題
責任。実にいやな言葉である。
人には負ってもらいたいが、自分では負いたくないものランキングがあるとすれば、おそらく「税金」と覇権を争うことになるワードだ。
しかも、ただでさえ負いたくないのに、しばしば「え、そこまで俺が責任持つんスか?!」という謎の責任のおかわりをくらうことがある。つらい。
しかしーー、残念ながら責任と税金と死からは逃げられまい。
ということで責任について議論を行った。
議論の内容をまとめると
責任の前提にはなんらかの「約束」がある。
ただの労働の約束を超えて、「良い人」でありたいという願望を持つとき、そこには新たな約束と責任が追加される。
「良い人」であることはタダではない。ご利用は計画的に。
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責任概論:その概要と前提
責任とは、ある人に「求められる行動や義務の実行」を定めたものである。
たとえば教師であれば、まず生徒を教える責任があるし、同時に生徒側には授業料の支払いや教室に来る責任が生じる。
さて、責任が厳密な契約ベースであれ、ゆるい場の空気のようなものベースであれ、何らかの振る舞いを求められるものである以上、その前提としてそれぞれの義務を規定する何らかの「約束」が必要である。
約束ってなんだ?
では、責任の前提として約束が必要であるとして、約束にはどのような要素が含まれるだろうか?この点は複数のパターンが考えられるが、最低限必要な要素としては、「誰と誰で結ぶか」および「なにをしなければならないか?」である。
【誰と誰で結ぶか:約束の主体は誰か?】
約束なので、成立には「誰か」が必要だ。「誰か」は個人でもグループでも問題ない。例えば下記のような形である。
・個人対個人(いわゆる普通の約束)
・個人対社会(法律や倫理)
・社会対社会(条約)
また、変則的に言えば、
・現在の個人と「なりたい」将来の個人
なども考えうる。この点については後述する。
【なにをしなければならないか?:義務の規定】
誰かに責任を求めるためには、最低限やらなければいけないこと(あるいは望ましい行動・原則)と誰がそれをやるのか?(責任の所在)が分かる必要がある。
ただこの点、約束にはゆるいもの(マナーなど)/厳しいもの(法律など)があるほか、成立しているのかさえあいまいなもの(場の空気など)もある。形式も口約束から書面まで様々だ。
その意味で、約束の内容や形式には大きな自由度を持つ。
責任は都合よく拡大されていないか?
さて、責任の基本構造は約束である点について論じたが、実際に我々が現実の場で「責任」という言葉にふれるとき、それは一見本来の約束以上の範囲に踏み込むことがしばしばある。
たとえば、あなたが医者だったとして、下記のような事例で考えてみよう。
自分のシフトを完全にこなしているので、あなたにはなんの契約上の義務はないはずだ。しかし、「責任感のある」医者なら当然対応しますよね?というプレッシャーがかかることは想像に固くない。
このとき、本来的な意味での契約(労働契約)の内容は無視され、貴方には過大な義務が課されているように見える。
こういった事例は、誰にでも心当たりがあろうし、殺意に目覚めそうになったことも少なからずあろう。あるいは、この事例のように上司や職場の雰囲気に強制されずとも、責任感がゆえに、過大な仕事を抱え込む人間をみた人も多いのではないか。
責任が双方の約束にしたがって生ずるのだとすれば、これはいかなることか?これは結局のところ、使用者側に都合のいいダブルスタンダードではないのか?
それはダブルスタンダードである:
約束は一つとは限らない
実際、この状況はダブルスタンダードである。
ただ、都合のいい方向にあわせてルールを変更する、という意味でのダブルスタンダードというよりもむしろ、より根本的に、2つの約束の影響下にある、という意味でのダブルスタンダードである。
たとえば上記の例でいえば、
1:その病院との労働契約としての仕事
2:良い医者/良い組織人としてなすべき仕事
という2つの約束が併存している。
この点、仮に労働時間外の患者の診察を拒否したとしても、1には違反しない。要するに職場の居心地は悪くなるかもしれないが、病院は貴方をクビにはできない。
一方で、2の基準、つまるところ「良い医者」「職場で認められる医者」であるためには、たんなる労働以上のことが求められる。医者の職業倫理のためであれ、病院の職場仲間のためであれ、「良い」医者であるなら、困った患者を放置して帰ったりはしないだろう。
つまるところ、「良い」という称号は高価なのである。
責任に潰されないために:
「責任」の収支を計算しよう
責任感のある人間ほど鬱になりやすい、とよく言われる。
では、責任に押しつぶされないためにはどうしたらよいのか?
この点、いわゆる書面上の契約なら話はシンプルで、条件をしっかりと把握して契約を結ぶこと、また、相手にそれを守らせる実行力があるのかを確認することが重要だ。このあたりを曖昧にしておいていいことはない。
一方で、厄介なのは上述の「良い」医者のような見えない約束と責任である。多くの場合、それは書面による労働契約などを超えた「あいまい」な約束に伴う責任である。それは職業倫理のこともあれば、個人的な道徳のこともあり、労働契約と約束の相手が変わることもしばしばだ。
このとき、もちろん相手が自分の利益のために、労働契約と別の約束をすり替えていないか注意を払う必要がある。一方で、上司など「相手」に注意するだけではおそらく十分ではない。自分自身にも注意を払うべきだ。
上述のように、あなたが良い社会人・人間であろうとするとき、その願望は「普通」の人間よりも大きな義務を強いる。それは文字通り立派なことであるが、自分自身に問うべき一つの質問がある。
自分は本当にコストを支払って、そのポジションを手に入れたいだろうか?
という質問である。
それは買い物に似ている。
自分の可能な範囲で、支払いに納得しているのなら、何にいくら使おうと自由だ。しかし、値札を見ずに買い物をしたり、いらないものを買ったりすることを賢い買い物とは言うまい。
買い物と同様に、自分を超えたなにものかであることもまたコストを要求する。であるなら、自分の責任について考える場合でも、無駄遣いを防ぎ、本当に必要なものにフォーカスすることが肝要であろう。
まとめ
責任の前提にはなんらかの「約束」がある。
ただの労働の約束を超えて、「良い人」でありたいという願望を持つとき、そこには新たな約束と責任が追加される。
「良い人」であることはタダではない。ご利用は計画的に。
個人的所感
先日、新しくクレジットカードを作ったのだが、クレジットカードを契約すると、ものすごい勢いでリボ払いを勧められる。
リボ払いは定額支払を隠れ蓑にしているが、その実態は金利・手数料をむしる「人を殺す魔法(ゾルトラーク)」である。
「良い人」であること、というのもそれに似ている。
目先の行動で良い人で「ある」ことを示すのは簡単だ。ちょっと親切にすればいい。1回の支払いは大した金額ではない。
しかしながら良い人で「居続ける」となれば話が変わってくる。あらゆる行動に金利が上乗せされ、最終的な支払金額が膨らむ。
さて、かようにリボ払いと責任とは恐ろしいものである。
ただ、そのような側面がある一方で、組織の観点から見ると、責任感のあるメンバーの多い集団のほうがそうでない集団より強い、とも感じる。
それは集団を構成するメンバーからより多くの力を拠出させるからだ。
その意味でいえば、名誉や道徳といった一見実態のない価値を媒介に、個人から実利以上の仕事を引き出す、という点で「責任」は社会側が開発したテクニックである、という見方もできそうである。
もちろん、それは社会が個人から幸福を不当に収奪している、というような単純な話ではない。ただ、約束とは常に双方の綱引きである以上、それぞれが技術を磨いているのだと考えると興味深い。
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