VRCぽこ堂議論メモ:科学は「地図のない道」をどう歩く?ー米ソ・ロケットエンジンの形状差から考える科学の発展
議論の背景
米ソのロケット開発競争が行われていた際、
・米国型のエンジンは集約型(大型エンジンを少数積む)
・ソ連型のエンジンはクラスター式(小さなエンジンを複数積む)
と、異なる形式を採用していた。
現在、ロケットエンジンの主流は米国式の集約型である。
では、なぜソ連はクラスター型を採用したのか?
この疑問には、技術的側面と科学の発展過程という2つの側面から回答が考えられる。当時の技術的背景については、別途コスモリアのLTで発表される予定であるが、本稿では、後者の科学の発展についての考え方を検討する。
※元々この議論は宇宙に関する情報を展示しているワールド「コスモリア」
のイベントにおいて、Yotta氏が上記疑問を提起したことに端を発する。
現在、この問いをきっかけとしたLTを企画中(?)とのことで、以下の
議論は発表予定者であるYotta氏と議論した内容検討のためのメモである。
※筆者(tamtam)はYotta氏の発表内容検討の壁打ち相手として議論し、
その範囲での理解に基づいて内容をまとめているため、
理解が浅い可能性がある。事実の認識などに齟齬がある場合、
それは筆者の認識不足に起因する。
科学は「地図のない道」をどう歩く?
科学の発展を考えるとき、我々はゴールに向かって直線的に向かう形式を想像しやすい。特に、完成された理論について事後的にその経緯を振り返るとき、このように考えがちだ。
たしかに、後世の「答えがわかっている」立場から見れば、発展のポイントとなった点は明確で整理しやすく、直線で進んでいるようにも見えよう。
しかしながら、実際の科学の発展、すなわち現在から未来に向かって進むとき、その道はジグザグに進む。なぜなら、目標を立てたスタート時点では、ゴールに至る筋道を誰も知らず、探索的に進むしかないからである。
地図の整備された道であれば、我々は目的地と現在地からルートを事前に算出できる。しかし、地図のない道を進むとき、我々はまず歩き出し、道を探しだす必要があるのである。
その意味で科学の第一歩もまた「まず歩き出す」ところから始まる。
科学は「進むべき道」をどうやって見つける?
では、「地図のない道」を進むとき、我々はどのように進むか?
このときに重要なことは複数の異なるアプローチを行う=複数視点を持つことである。あるアプローチを選択するとき、それが正しい道なのか、その時点で誰にもわからない。その状況で一つのアプローチにオールインするのは賢い賭け方とは言い難い。
それよりも、複数の方向性でアプローチを行い、それらの情報を比較・統合していくことで、総合的にベストな手法を探るのがベターである。
検討の結果、進むべき方向性が見つかった場合、最初は異なるアプローチをしていたものが、ある種一つの形に収束していくこともある。
その過程は測量に似ている。
片目でものを見た場合、我々はその奥行きをつかめない。座標を特定できないからだ。物事の座標を特定するには、両目=複数視点が必要なのである。
(2つの直線AとBが交わるポイントの座標を求めよ、という中学数学でやった問題と原理は同じだ)
地図上の位置がわかれば、仮に最初のスタート地点が異なっても、同じゴールに到達できる。
具体例としては、第二次大戦における戦車開発が挙げられる。
第二次大戦の際、戦車の形状は各国の開発力・資材状況などもあり、丸っこかったり角ばっていたりとバラエティに富んだ姿をしていた。
しかし、現在の主力戦車は各国ともある程度の形状に集約している。少なくとも世界大戦初期におけるほどのバラエティはない。これは各国がそれぞれの視点で開発→運用してデータ収集が行われた結果である。
丸い戦車がいいのか、角張った戦車がいいのか、あるいは今はない別の形がよいのか、それは試してみて初めて分かる。
その意味で、現在の戦車の形状は、各国のこれまでの研究開発の総括であるということもできる。
さて、ここで最初の問いに戻ろう。
「なぜソ連は(その後非主流となった)クラスター式を採用したのか?」
この問いを考えるとき、我々は前提として米ソがロケット競争を始めたとき、ソ連はもちろん集約型エンジンを採用したアメリカも、どちらのエンジンが正解か知らなかった、という点に十分留意する必要がある。
彼らはまず試し、数々の技術的課題を解決し、結果として集約型エンジンが生き残ったにすぎない。
経験をどう積み重ねるか?
:セーブポイントから始めよう
上述のように複数視点からアプローチ・検討を行うことで、目標にむけ一歩前進することができる。これは、さきほどの図でいうところ一つ目の矢印(フェーズ)である。一つのフェーズをクリアすると、次のフェーズのプロセスにうつる。通常、遠大な目標をクリアしようと思えば、そこには多数の課題が連続するものだからである。
暫定的にこの一つのフェーズを「世代」と表現しよう。
第二世代は第一世代が最終的に収束した地点をスタート地点として、次の開発をスタートできる。つまり次の世代はセーブポイントから始めることができる。これが、いわゆる「巨人の肩に乗る」状態である。
しかし、これは次の世代は楽ができる、ということではない。
前世代がそうであったのと同様、次のゴールへのアプローチはわからないからだ。ここでも先に進むためには、上記同様、複数の異なるアプローチを行い、道を見つける必要がある。
これらの「世代交代」を繰り返し、少しづつ前進することで最終的にゴールに至る、その道筋が科学の発展である。
目標に合わなかった研究は無意味か?
科学がこのようなプロセスを取る場合、目標に到達するまでに、大量の仮説・研究が脱落することになる。今回のテーマでも、ソ連のロケットエンジンに採用されたクラスター方式は現在の主流ではなくなった。
が、それは技術や研究そのものが無駄であったことを意味しない。
そもそも「優れた」技術とは、失敗した技術を土台にして洗練されたものであるし、より実利的な観点では、ある目的に合わなかった研究でも、他の目的には適合する可能性があるからだ。
例えば、イタリアの航空機の技術は、その後オートバイのエンジンの技術に活用されている。バイクエンジンの開発にあたってエッセンスとなった技術は、バイク開発とは全く無関係の目的から生まれたものなのである。
このように、どんな技術・研究がどこで役に立つのか、我々にはあらかじめ予測することはできない。同様に、クラスター式エンジンの技術は今日のロケットエンジンには適さないとしても、それが他の技術に転用できないとは言い切れない。
まとめ
以上をまとめると下記のようになる
・高い目標に科学が挑むとき、何が正解かは誰にもわからない。
このため、科学は手探りでスタートし、
その発展の道も直線ではなくジグザグになる。
・ジグザグの道は、複数視点の統合と研究の世代交代によって目標に向かう
・その過程で多数の仮説・研究が「脱落」するが、
それはそれらの研究が無駄であることを意味しない。
もちろん、科学もまた人の営みである以上、政治的・国家的な制約を受けるし、必ずしも「科学的」な判断がされるとは限らない。資金・人材・文化、良い意味でも悪い意味でも、影響を与える要素は無数にある。
そういった周辺環境も踏まえた上で
・目標にむけてまずアプローチを試みること
・やみくもに行動するだけでなく、失敗からの学びを蓄積すること
が科学的アプローチの本質といえよう。
つまるところ、成功はもちろん失敗も資産であり、
成功と失敗の総体が科学なのである。
個人的雑感
この話をしている中で、ジョジョの奇妙な冒険の中のセリフを思い出した。
テーブルの下で犯罪の証拠品(ビンとそれに付着した犯人の指紋)を探す警察官を見て、作中のある人物が次のように疑問を投げかける。
それに対し、警察官は以下のように回答する。
これは作中では「正義」に対する問答であるが、科学における「真実」に置き換えても同じことがいえそうである。
世の評価方法には成果ベースのものもあるし、プロセスベースのものもある。すでに何が正しいのかが分かっているサイクルの中でなら、そういった評価方法の採用も意義があるだろう。
しかし、地図のない場所に踏み出すとき、我々には何が正しいのかわかりえない。その状況で我々にできることは、向かおうという意志を持つことと、行動することだけである。
過程を吹き飛ばして結果に至ることはできないのだ。
意志がなければ我々は真実に向かって前進できないし、
真実がなければ、それを求める意志が生まれようもない。
その意味で、真実に到達する過程と、到達した真実、
そのいずれもが科学なのだと考える。
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