VRCぽこ堂議事録:市民、道徳は義務ですー個人は社会に対して自由か?我々は科学的か?
議題:
個人は社会に対して自由か?我々は科学的か?
「市民、幸福は義務です」
これは、テーブルゲーム「パラノイア」における都市制御コンピューターの口癖だ。完璧なコンピューター様に支配された完璧な都市において、不幸な市民や完璧でない市民は「存在しようはずがない」
「万が一そんな不完全な市民がいたらどうするか」ですって?
そんな疑問を覚えるあなたはもちろん反逆者です。おわかりですね?
大丈夫、次のあなた(クローン)はきっとうまくやるでしょう。
さて、もちろん、現実の世界にはコンピューター様は存在しない。したがって、事あるごとに即座にレーザー銃で処刑→次のあなたに代替わりのコンボを決められることはない。しかし、社会の道徳・方向性と個人が対立すること自体はある。
このとき、社会は個人になにができるか?個人は社会に対してどの程度自由に振る舞うことができるか?について議論を行った。また派生して、「科学」は上記の振る舞いにどのように役割を果たしているかについて議論した。
結論を一言でいうと?
社会を相手にガチンコする覚悟がある限り、個人は自由である
みんな科学的なふりをしているが、全然科学的でなく権威主義である。
議事の詳細は以下
社会が個人に対してできることはなにか?:
市民に道徳を義務付けられるか
個人が社会に反対できるかを考えるにあたり、まず社会は個人に対して何をなしうるかを検討した。
この点、まず社会はモラルや法律の設定を行い、個人に対して望ましい行動を規定することができる。また必要に応じて実力行使を行い、個人を排除することもできる。一方で、人間は(少なくとも現在は)ロボットではないので、その行動のすべてを社会が直接制御することはできない。
したがって、最終的に社会的な行動を取るか・取らないかの選択は個人によってなされる。その意味では、個人には行動選択の自由がある。
もちろん、それは「社会がその個人を行動を許容する」ということを意味しない。当然ながら反社会的な行動を社会は放置しないし、必要とあれば個人の殺害や排除も辞さない。したがってこの場合の個人の自由とは、「社会と自分が対立することを前提として、あえて反社会的な行動を選択することができる自由」という意味である。
たとえば、殺人を例にとると下記のようになる。
社会は殺人を禁止する法律や、警察など様々な防止機構の設定をでき、事後的に刑罰を課すことができる。(日本では殺人は準備段階で刑罰を課すこともできる)
さらに「人を殺せば地獄行き」といった道徳観念で殺人行為への精神的負荷を増やすこともできる
上記社会の反応を踏まえた上で、個人は殺人を行うことができる。
さて、当然ながら上記「反社会的な個人」は社会にとって不都合な存在である。また、実際に行動が起きてから対応すると社会への損害が大きい。このことから、個人がより社会的に望ましい考え方をするよう、社会は事前に教育的介入を行う。いうなれば、社会道徳そのものも社会にとっての「良い市民」を作る教育的アプローチといえよう。
なお、教育・道徳というとそれが協力的・生産的なイメージ、つまり一般的にいうところの「善」のイメージを与えるが、社会道徳は善悪とは必ずしも一致しない。
歴史的な事例を上げると、ヨーロッパおける魔女狩りや、20世紀の優生学による人種排斥などがわかりやすい。これらは現代的価値観では倫理的に問題があったとされる事例であるが、その当時の社会においては市民に要請された道徳・行動様式であった。つまり、当時それに従った人物は、少なくともその社会の中では「道徳的な振る舞いをした人」といえる。すなわち、道徳とは単にある集団における望ましい行動・思考の規定に過ぎず、それが普遍的な「善」であることを担保しない。
個人の行動の判断基準:
個人はどのようなときに社会に従い、どのようなときに反逆するのか?
上述のように、社会との対立を前提とすれば、個人は自由に行動を選択できる。では、そうであるとして、個人はどのようなときに社会に従い、どのようなときに反逆するか?
この点、原則的には他の選択と同様、利益衡量によって判断していると考えられる。つまり、従った時のメリット・デメリット/従わなかったときのメリット・デメリットを比較し、より大きな利益を得られる方を選択する形式である。
ただ、このとき、自分にとってなにが利益になるかは人によって異なる。
たとえばある人にとっては金が重要になるし、別の人にとっては名誉が重要になるかもしれない。
このように、メリット・デメリットを判断する価値基準には、個人の価値観が影響する。この点、価値観とは「自分にとって重要な要素はなにか」を判断するものであると同時に、「その要素をどのように定義・解釈するか」を規定するものでもある。
たとえば、先に例にあげた魔女狩りの事例において、自分にとって重要なことを「道徳的であること」と規定した場合を考えよう。この場合でも、道徳の定義・解釈によって行動は分かれる。
道徳的であることを「その社会において道徳的な人であること」と解釈するなら、集団の選択に従うであろうし、「普遍的に道徳な人であること」というより大きな価値観と解釈するなら、集団と対立することになろう。
このように、「自分がどの要素を重視するか」と「要素をどのように定義・解釈するか」の組み合わせが行動基準を構成すると考えられる。
上記のようなプロセスを経て策定された行動基準をもとに比較衡量を行い、個人は服従/不服従の行動を決定する。
社会・個人の行動選択に対して、科学(知識)はいかなる役割を果たすか?
科学による、(ある程度)客観的な情報は、社会・個人のいずれについても、選択を決定するときに判断を補佐する情報を提供する。一方で、社会や個人の判断材料は科学だけではなく、伝統や宗教・経済など他の考慮要素と並立する。
それらすべての要素を総合して、社会はモラルや法律を設定し、個人は行動を決定する。その意味で、科学はあくまで判断材料の一つを提供するに過ぎない。
我々は科学的でありうるか?:
科学はコスパがわるい
一般的には現在は科学の時代とされており、科学的態度が「正しい」と捉えられがちである。では、我々は本当に科学的であるのか?また、科学的な態度を取りうるのか?
この点、科学的である、というためには、科学的方法論を取る必要がある。科学の方法論には様々な考え方があるが、例えば、アメリカ科学振興協会による報告書「すべてのアメリカ人の科学」によれば
を科学的学問の間で、特に類似性の高い部分としている。
このことから考えると、我々が科学的であるためには同様に、証拠の収集と検証・仮説立案・論理一貫性のあるプロセスを踏むべきであろう。つまり、物事に証拠を要求し、それの検証を自ら行う必要がある。
たとえば、「コロナ感染防止のためにワクチンを打て」と言われたときには、従う/従わないの判断を下す前に、学術論文を読んでワクチンの有効性評価のプロセスを把握したり、実験データの統計解析が正しいか検証したりしなければならない。必然、それは非常に大きなコストを伴うが、それを経て初めて科学的態度は形成されうる。
一方で、現実的にはそのようなコストを負担できる人間は少ない。
このため、学会や官庁等が発表する案を無検討に受容し、それをもって「科学的」態度とすることが多い。しかし、結論のみを鵜呑みにする姿勢は科学的プロセス(証拠・仮説立案・論理一貫性)を経ていない点で実はなんら科学的ではない。むしろ、科学のプロセスを通じてその正しさを検証することなく、学会や政府という権威を正しさの論拠としている点で「権威主義」と考えるべきである。
以上のように考えると、現在の社会で我々はたいして科学的でないし、科学的でありうる人間はそう多くないと考えられそうだ。
まとめ:
以上をまとめると下記のようになる。
社会は個人にたいして、法律・道徳などその行動をコントロールする枠組みを設定できるが、社会との対立を前提とすれば、個人は反社会的な行動を選択できる
個人が集団に従うか反逆するかは、個人の価値観による比較衡量によって判断される。
科学は個人・社会に対して情報を提供するが、それは絶対ではなく、判断材料の一つに過ぎない。
科学的であることには非常に大きなコストがかかり、検証を権威にまかせている現状は科学的であるよりも権威主義的である。
2行で雑にまとめるならば
・社会を相手にガチンコする覚悟がある限り、個人は自由である
・みんな科学的なふりをしているが、全然科学的でなく権威主義である。
といえよう。
さて、上述のように我々は権威主義的な側面が大きいが、これは科学的であることが権威主義よりも個人の選択として優れていることを意味しない。
人間の能力は有限であり、実際に生きるにあたってはコストを配分する必要がある。その点で、自分で考える箇所を減らし、ほかの重要な部分に多くコストを配分するのは否定されるべきことではない。わざわざ「コスパ」の悪い科学を自分の人生に採用する必要はないのだ。
権威主義、つまり「俺は強い方につく」という処世術が強力なのは、だいたいの社会において、強い方についたほうが楽に生きられるからである。冒頭の「パラノイア」のようなディストピアにおいてさえ、体制に従っていたほうが楽に生きられる(というよりも従わない人間は即座に処刑される)。その点で、個人の利得を考えて権威主義を選択するのは悪いことではない。
ただし、それは科学ではない。それだけのことだ。
個人的雑感
例えば中世ヨーロッパの歴史を学ぶと、免罪符・魔女狩り・地動説など、非科学的で血なまぐさい、いわば「歴史の恥部」に多く出会う。
そういった事象に触れた時、我々はしばしば「当時の人間は教会権力に無批判に従っているがゆえに愚かであった。科学が発展した今、我々はもうそのような振る舞いはしない」と冷笑する。
しかし、権威の対象が教会から政府・学会に変わっただけで、我々もまた権威に盲従しているに過ぎないのだとすれば、冷笑する我々の態度こそがまさに滑稽というべきだろう。
そも人はなぜ権威に従うか?
それはもちろん先に述べたように、権威がより大きな力を持つからである。しかし、もう一つ見落とすべきでない重要な利点は「楽であること」だと思う。つまり、権威にしたがっている限りにおいて、人は自分で考える必要がないのだ。それは判断の放棄であり、価値観の放棄である。
その意味で、人が社会に対して道徳的に振る舞っているとしても、それはその道徳に賛成という「判断」を下しているとは限らない。判断や検証が面倒だから、とりあえず道徳に盲従しているのだとすれば、それは道徳というより、いわば怠惰の結果というのが正確であろう。
思うに、それが社会的であれ反社会的であれ、自分で判断したもの=価値観を反映したものこそが「その人」の選択といいうる。その意味で、我々がなにものかであること/なにがしかの基準にしたがって行動することには常に判断のコストを伴う。
つまるところ、我々が我々であること自体、きっとタダではないのだ。
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