VRCぽこ堂議事録:言葉にすると失われるものがあるー愛とその分類について
議題:
愛とはなにか/それはカテゴライズできるか?
哲学カフェのランダムトークテーマから、
「愛(隣人愛・家族愛など)について議論してみてはいかが?」
というお題が提示された。
なるほど、古来より愛は人にとって大きなテーマであり、様々な言い方で分類されている。では早速議論をーーと思ったとき、とある参加者から
「そもそも愛とは区別できるものなのか?しっくりこない」
という疑問が提示された。
ということで、
・愛情とはなにか?
・それはカテゴライズしうるか?
について議論を行った。
結論について:
ありのまま起こったことを話すと
愛情とは脳みその状態であると同時に、
何を愛と呼ぶかという「認識」の問題である言葉にしたとき、言葉と実際の感情は一致しなくなる。自分の感情を抜けもれなく把握できているかチェックすることは大事だ。
要するに感情にもPDCAサイクルが必要である。
我々は「愛について話そうぜ!」という60年代ヒッピー的ピースフルな態度で議論をスタートしていた…はずなのだが、いつの間にか、言語化とはなんぞや?というだいぶ違う話に移り、最終的にはPDCAサイクルを回せ、というコンサルファームみたいな結論に達した。
何を言っているのかわからねーと思うが、議論に参加した俺もこれだけ見ると何が話されたのかわからない。
ということで以下議事である。
愛情とはなにか?:
それは状態であり、認識でもある
さて、そもそも愛情とは何であるか?
この点、「生化学的な状態」と「認識」の観点が考えられる。
たとえば、あるものに愛情を感ずるとき、我々の脳みそには化学反応が起きている。我々の感情は全部脳みそで起きているわけで、これは現象として正しい。まずこの状態を愛ということができる。
一方で、あたりまえだがこれは身体反応であって、脳みそが「ご主人、これが愛です!」と教えてくれるわけではない。
また、我々が愛を感じるとき、各種脳内物質が出るとしても、そこには当然程度の差がある。そして、どれぐらいドーパミンが出たら愛で、どれくらいなら友情で、どこからは愛とはいえなくなるのかーといった区別もない。
そこに「愛」という線を引くのはあくまで我々の認識である。
つまり、愛とは、脳の状態という結果であると同時に、どういった状態を「愛」と呼ぶのか?という認識の問題であるといえよう。
愛情の分類:
お前の愛を言葉にできるか?ブラザー。
さて、世間一般ではいろいろな愛があるといわれているが、今回のテーマは「愛情はそもそもカテゴライズ可能か?」というものである。
では、一般的な意味での愛のカテゴライズはどのようにされているだろうか?議論の前提として検討した。
この点、ある人なにかの愛情を感じるとき、そこにはいくつかの構成要素が考えられる。たとえば
愛の対象(家族・友人・異性・モノ・ペットなど)
愛の態様(Love・Like・エロス・親近感・優先度など)
愛情の深さ
などなど。これらの要素の組み合わせによって、人間は「便宜上」愛の種類を分けている。
便宜上、と記載したのはそこには客観的なエビデンスがないためだ。
たとえば、生物学の分類であれば、呼吸方法や脊椎の有無など、客観的な証拠をベースに切り分けを行うことが可能だし、分類方法の体系が異なっていたとしてもその裏付けがある。
一方で、感情についてはそういったエビデンスを提示することは難しい。
その意味では、この場合のカテゴライズとは科学的分類というよりも、もうすこしゆるい言語化のプロセスといえよう。
では、多少あいまいであることを許容すれば、愛情はカテゴライズ可能である、という結論になるだろうか?
この点については、
「言語がちゃんと感情の実態を表現できているのか?」
という疑問が出された。
上記のように、愛の認識・分類が言語化であるとすれば、ある愛をどのように認識/表現するかについては、文化や習慣が関わる。
たとえば、人類全体をLIKE的に愛している場合、キリスト教社会では隣人愛と表現するだろうし、古代ギリシアではフィーリアと表現されるかもしれない。そして、それぞれの言葉の範囲は必ずしも一致しないし、上述のように比較のための具体的なエビデンスもない。
つまり、あなたの感情をぴったりと表す言葉があるとは限らない。
では、我々は自分の感情を言葉で表現できているのか?
この点を考えるために、言語化について議論を行った。
言語化ってそもそもなんだ?:
その有効性と限界
まず、言語化の目的、あるいはメリットは何であるか?
その大きな機能の一つは「対象の明確化」であると思われる。
対象を明確にすること=何について話しているかを明らかにすることは、まず他人と話す時に役に立つ。現実にはままあることだが、二人の人間が全然別のことを話していると、当然ながら話は噛み合わなくなってしまう。
このため、コミュニケーションにおいては、名称がある方が圧倒的に便利である。愛情について話す場合も例外ではない。
また、この機能は、自分の感情を客観的に把握する場合も役に立つ。
感情とはそのときの一瞬の状態であって、何らかの形で整理しなければ、そのまま消えてしまう。
「あのときこういうことがあった」という記憶から感情を呼び覚ますことはできるかもしれないが、感情という状態そのものを、認識や記憶から切り離して保持することは難しい。対象化してラベル付けを行っておくことは、自分の記憶の整理という意味でも有意義である。
このように、言語化は対象を明確にすることによって、他者とのコミュニケーションのときだけでなく、自分の認識を整理するのにも役立つ。
まさに俺によし、お前によし、みんなによし、である。
さて、大変便利な言語化であるが、これは全く問題がないのか?というとそうでもない。たとえば、言葉で我々が己の感情を表現するとき、異性であればLove/同性であればLike(友情)といった具合で単純な区分けをしがちである。
これは別に愛に限った話ではなく、単純化は言語化自体の性質でもある。
言葉とは私と貴方の両方でわかる必要があるため、両者が理解できる最大公約数的なものにならざるを得ないのだ。
一方で、実際の感情というものは、複合的に発生しうる。
たとえば、
特定の異性に対して、友情とエロい気持ちを同時に覚える
ペットと人間を評価しペットの犬のほうが「好き」だが、命が関わる状況では人間を優先する
といったように、一口に愛といっても、複数のーーしばしば矛盾するーー要素が同時発生しうる。というか完全に一つのパラメーターしかない愛情というもののほうが珍しいだろう。
しかしながら、自分の感情を表現するにあたって
「私の感情は友情80・隣人愛40・エロス15です!」
という人はあまりいない。そんなこといわれても、言う方にも言われる方にも結局なんなのかよくわからんからである。
多分上記の場合であれば、
「(なんやかんやあるけど)私の感情は友情です」と表現するはずだ。
その意味では、言語化とはある意味で「捨てること」である。
以上のような理由により、自分が抱いている感情の実態と、それを表現するワードは必ずしも一致しないことがある。このため、議論のスタート地点である、
「そもそも愛とは区別できるものなのか?しっくりこない」
という認識は、
「言語化によるカテゴライズと、実際の感情との間にズレがある」
という意味で正しい。
どうしたら感情を言葉にできるか?:
言語化のPDCAサイクルをまわそう
このように、言語化は有用であるが、自分の複雑な感情を示すには一面的に過ぎる場合がある。翻訳の世界ではLost in translation(翻訳時にニュアンスが抜け落ちてしまうこと)という表現があるが、我々が何かを言葉にするときもおそらく同様の抜け落ちが発生している。
これはやむを得ないことであるし、そのことをもって言語化には意味がない、とするのはもちろん早計である。一方で、自分の感情を言葉のカテゴライズに押し込めてしまうと、我々は言葉にできない感情を無視してしまうおそれがある。
さて、これとある種似通った状況がある。
それは『品質改善』のプロセスだ。
品質改善の有名な標語の一つに
「測定できないものは改善できない」
というものがある。
これを、「計測できないものは改善に繋がらない」と捉えてしまうと大きな間違いを生むし、実際そういう落とし穴に落ちる事例もまた多い。
もちろん計測は重要だ。しかし同時に、現在計測できているものが十分に実態を表しているのか?という点は定期的に確認する必要がある。そして、『改善方法のプロセス自体を「カイゼン」する』PDCAサイクルを回すことが望ましい。
(※PDCAサイクル:計画・実行・計測・改善のステップをぐるぐる回すこと)
同じように感情も、単純に言語にしただけだと品質改善と同様の抜け落ちが生じる可能性がある。言語化できていない感情がないか?を意識することによって、より自分の感情をより正確に把握・表現することができる。
その意味で、我々は業務よりもまず自分に対してPDCAサイクルが必要だといえよう。
まとめ:
以上をまとめると下記のようになる
愛情とは脳みその状態であると同時に、
何を愛と呼ぶかという「認識」の問題である認識には言語化が必要であるが言葉にすると抜け落ちる情報がある。
このため、自分の感情そのものと、言葉にした感情ではズレが生じる。
したがって、「愛情というもののカテゴライズがしっくりこない」という感想は正しい。言語化による「抜け落ち」が発生する危険性を意識すると、自分の感情をより正確に把握できる。だから感情にもPDCAサイクルを回せ。
個人的所感:
個人的に語学学習のために言語交換をやっているのだが、外国の方が日本人と会話するときに、大変便利な単語がある。
「マジで」と「ヤバい」である。
これらのワードはマジでヤバいレベルで応用が効く。
肯定・否定、平叙文・疑問文問わず利用でき、なんならこの単語だけで会話が成立する。言語の粒度が粗いがゆえに、あらゆるシチュエーションで使えるのだ。
コミュニケーションのツールとしてある種「最強」なこれらのワードだが、思考ツールとして利用すると問題が生ずるようにも思う。
愛のカテゴライズが自分の感情を正確には表せないように、粒度の粗い言葉を使っていると、自分の感情の言語化、つまりは解像度が低くなるのだ。
愛だろうと怒りだろうと、感情そのものは最終的な結果に過ぎない。
「なぜ自分がそのような感情を抱いているのか?」
を考えるにあたっては、たとえ自分の感情であっても第三者的視点が必要になる。あらゆる感情を一つのワードに押し込めてしまうと、自分の感情を細かく理解することが難しくなる。
ネイティブにとって、国語の授業がなんの役にたつのか?
これは誰しも(特にテストの前日において)一度は通る疑問であるように思う。これに対して、我々はニュース読んだり、他人の気持ちを理解したり、といった「外側」のことを考えがちであるが、自分のことを理解する、という文脈においてより重要であると思われる。
人間、他人を無視したって最悪生きていけるが、自分自身を無視しては生きてはいけないからだ。
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