VRCぽこ堂議事録:偏っているのは誰かーソーシャルメディアと望ましい情報接触の形
議題
知らない街にあなたが降り立ったと仮定しよう。
お腹が空いたのでランチを食べようとおもった貴方は食べログを開き、口コミを見て良さそうな店に入るーーー何も変わった行動ではない。ただ、この行動様式は、新聞やTVしかない時代には考えられなかったことだ。
ソーシャルメディアの発達に従って、情報発信は確実に増えた。地方紙にさえ乗らないような飲食店の情報・口コミから、各種専門メディアでも報じきれない最新技術の専門的論文まで、あらゆる情報がそこにあふれる。
このように、ソーシャルメディアは現代の情報収集やエンターテイメントに欠かせないものである。一方で、アルゴリズムが偏っていること、それによって意見が先鋭化することなどの問題点も指摘されるところである。
ソーシャルメディアの検討を通じて、望ましい情報伝達とはなにか、および情報伝達にはどんな要素があるかについて議論した。
議論をまとめると
問題はソーシャルメディアというよりも情報の偏りそのものであるが、そもそも「偏っていない情報」という概念そのものが偏っている。
情報は発信側だけでなく、受け取る側にもスキルが必要である。
結局、偏っているのはソーシャルメディアではなくお前らである。
具体的な議事内容は以下。
ソーシャルメディアの問題点整理
まず、ソーシャルメディアの問題点についてどのようなものがあるか、例示を出しながら議論を行った。具体的に出た内容としては下記。
アルゴリズムによって情報が表示されるため基本的に情報が偏る。
他の立場の意見に触れられず、元々持っている意見がより強化される。
信頼性が低い情報やデマが交じることがある。
バズった情報がよく見られるが、過激な意見ほどインプレッションを集めやすいし、意見が極端になりがち。
一方で、ソーシャルメディアには利点があることも指摘された。たとえば、従来型メディアに比べて下記のような利点がある。
個人が直接発信可能で、情報量の増加に貢献している。
一次情報が直接発信され、余計な解釈のない生データに触れられる。
媒体にのせる必要がないので、発信のスピードが早い。
従来型メディア(新聞・テレビなど)とソーシャルメディアはよく比較されるが、前提として留意すべきは、インターネット・ソーシャルメディアの登場によって、社会全体/個人が受け取る情報量そのものが増加している点だ(※具体的なメディア接触時間・データ流通量については注釈を参照)
これはソーシャルメディアが、過去従来型メディアの独占状態であった情報発信のコストを下げたことが大きかろう。
その意味で、仮にソーシャルメディアに分断などの欠点があるからといって、それはただちに従来型メディアが優れている(=昔は良かった)ということにはならない。前提が異なる状況で、ソーシャルメディアの欠点のみ取り出して比較するのはナンセンスである。
何が分断を加速するか:
アルゴリズムは悪い文明?
上記を前提としつつ、情報の偏りについて議論を行った。
今日、多くのソーシャルメディアでは、情報表示にアルゴリズムを取り入れており、現在の好みに合いそうな情報を表示するシステムとなっている。この構造上、自分と異なる意見にふれる機会が失われがちである点があらためて指摘された。
この点、たしかにソーシャルメディアにはそういった側面がある。
ただし、自分の好みによる情報の偏り自体は、従来型のメディアでも発生していた問題である。たとえば、新聞やメディアは発信時に情報を取捨選択している時点で何らかの偏りがあるし、各媒体によるカラーがある。
これはもちろん、ソーシャルメディアに責任がない、ということを意味しない。オールドメディアに同様の問題があったとしても、アルゴリズムのような「より洗練された」形で情報の偏りを加速させているという点は否定できまい。
一方で、ここで指摘しているのは、それはあくまでも程度・加速の問題であって、ソーシャルメディアを排除すれば解決する問題ではない、ということだ。その意味で、より根本的に問題とすべきは、どのメディア・技術で情報が伝えられているか、ではなく「偏った情報接触」そのものといえよう。
「偏らない情報接触」とはなにか:
それは中立的といえるか?
「偏った情報接触」をどのようになくすか?については様々な方法論を取りうる。たとえば、議論の場で上がっただけでも、ランダムに一部情報を表示する、Xで行われているように科学的疑義がある発信にはNoteをつける、おすすめなどで異なる意見を表示させる…、など数々の例が挙がった。
一方で、そもそもの問題として、
「情報の偏りをなくすためにどのような手法・アルゴリズムが最適か?」
という問いに回答するためには、
「人々にとってどういった情報接触が理想か?」
という目的・評価軸の設定が不可欠である。
ただ、より広い観点で見れば、この設定そのものが恣意的=偏った視点にならざるを得ない。
例えば、
「自分の好みだけでなく、社会を反映した意見にふれるべきだ」
というテーゼを考えてみよう。
一見したところ、この目標は理想的に見える。しかしながら、例えば下記のような問題が考えられる。
◯「社会を反映した意見」を誰がどう定義するのか?
分断防止のため、異なる意見をある程度ランダムに表示させるとしよう。
ここで一つ考えてもらいたいのだが、どの意見をどの程度の割合で表示すれば、それは理想的に社会を反映した、といえるだろうか。
人数ベースで意見の重さを調整すべきなのか?それとも人数にかかわらず、それぞれの意見を平等に扱うべきなのか?
いずれにせよ、そこには様々な回答がありうるのではないだろうか。
なるほど、一度理想を詳細に設定した後なら、それに基づいてルールやアルゴリズムの決定は可能かもしれない。しかし、その理想そのものをどう決定するかは、恣意的にならざるを得まい。
◯「意見を表明しない人間」の意見をどのように考えるか?
ソーシャルメディアでは前提として自分から情報を発信する必要があるが、ほとんどの人間は積極的に意見表明をしない。トピックは無限にあるし、情報発信は手間だからである。しかしながら、積極的に意見を表明しないことは、意見を持っていないことを意味しない。
だとすれば、「発信された情報」の中で表示回数を調整したところで、それは社会の意見に対して中立といえるだろうか?
このように考えると、「偏りのない情報接触」という一見中立的な観念そのものが、客観的基準によって設定できるものではなく、何らかの思想を反映したものにならざるを得ない、と考えられよう。
情報を受け取る技術について:
受け手にもスキルが必要である
ここまで、情報発信側の立場から偏らない情報発信について述べたわけだが、当然だが情報とは送り手と受け手がいる。
仮に客観的な情報が発信されたとしても、受け手のところで情報が無視されたり、受け取り方に間違いが発生したら、その情報はねじまがってしまう。
このため、情報を「受け取る側のスキル」についても検討を行った。
検討の結果としては、情報を獲得・精査する能力だけでなく、自分や情報の限界を考えるメタ認知能力も必要である、という話となった。
◯情報そのものに対する収集・処理技術
自分の得たい情報を得るには、情報の獲得・取捨選択に関する技術が必要だ。これは一般的に情報収集に必要とされる技術といったときにイメージされるものに近しい。具体的には下記の2つがあげられよう。
知りたい情報にたどり着く技術
何らかの知りたい情報が発生したときに、確度の高い情報に自分からアクセスする技術(論文検索/一次情報ソースへのアクセスなど)不要な情報をフィルタリングする技術
大量の情報を受信しているとき/受動的に情報収集をしているときに、情報のノイズを除去し、自分が求める情報にフォーカスするスキル。
※この部分が「面倒」なゆえに、ソーシャルメディアのアルゴリズムがある程度代替し、広義の意味ではその技術でカネを稼いでいる。
◯自分の理解力に対するメタ的認知
情報の難易度と、自身の理解能力についてを客観視する能力。
正しい情報にアクセスできたとしても、それを自分が理解できるとは限らない。つまり、特定の個人が受け取れる情報の上限は、自身の理解力に依存している。
たとえば、先端産業の最新技術についていきなり話されても、多くの場合我々は理解できないが、それは発信側の問題ではなく我々の問題である。その場合、即座に決断をくだすのではなく、資本を投下して理解に務めるか、あるいはわからないものとして判断を保留するのが正しい。
◯情報の完全性を評価するメタ認知
場にある情報が完全であるかどうかを判断する能力
今回の議論では、中国からの参加者がおり、興味深い視点が上がった。 中国では情報が政府によって検閲されているが、国民は「検閲されていること」つまり、場に与えられた情報が不完全であることを知っている。
中国の場合、情報への介入は検閲という明白な形で行われるが、「与えられた情報は完全ではない/アクセスできない情報がある」という点では、検閲がなくとも同様の状況は発生しうる。備考:
不完全な情報が与えられたときに、周囲の反応を認識する能力
これは正確には情報能力とは異なり、社会的スキルに類するものだと思われるが、興味深い指摘だったので取り上げる。
中国のように検閲された状況では、何が隠されているか/事実とはなにかを察知するだけでなく、周りがその状況をどう考えるか、がより重要になる。どのみち実際の事実にアクセスができない状況では、事実そのものではなく周囲の認識が社会にとっての「真実」とみなされるためである。
同様に「検閲されて情報発信がないこと」自体が政府からのメッセージであり、情報発信がなされないとはどういうことか?というコミュニケーションを読み取る必要もある。
まとめ
以上の議論をまとめると、下記のようになる。
あまりに極端な情報接触は分断を引き起こすので、ある程度対立意見にふれることは望ましいように見える。
ソーシャルメディア/オールドメディアを問わず、問題は情報の偏りそのものであるが、「偏っていない情報」という概念そのものが偏っている。
情報は発信側だけでなく、受け取る側にもスキルが必要である。
このとき、情報へのアクセス・フィルタリングスキルだけでなく、自分や情報の限界を考えるメタ認知能力も必要である。
このような点から考えると、情報発信・受信とは極めて複雑なプロセスであることにあらためて気付かされる。すくなくとも、「ソーシャルメディアのアルゴリズムをちょっと改善すれば、偏りのない情報接触を達成できる」というような簡単な問題でないことは確かだ。
後半の情報の受け手のスキルを鑑みるに、もしも偏りをなくすことを本気で考えるなら、そこには発信側に求めるのと同等程度、受信側つまり我々個人の努力が必要であるように思われる。MetaやXといったソーシャルメディア側に責任を押し付けるだけでは解決するまい。
個人的所感:多様性は猫より価値があるか?
ここまでソーシャルメディアにおける情報について述べてきたわけだが、ここでひとつの真理に触れておきたい。では、真理とはなにか?
ソーシャルメディアといえば猫である、ということだ。
XだろうがインスタだろうがTiktokだろうが猫だ。プラットフォームもアルゴリズムも別に猫を支援していない。にもかかわらず、猫はあらゆるところに溢れている。なぜなら、人類にとって猫=価値だからである。
ねこですよろしくおねがいします。
では翻ってみて、「多様性」や「偏りのない情報」に、学者やリベラルが主張するような価値があるなら、なぜそれは猫のように自然拡散しないのか?
もちろん、そこには様々な理由をつけられる。しかし、結局のところ、多様性というものに我々個人がメリットを感じていないからではないか?
偏りのない情報や多様性について論じるときよく思うのが、それが誰にとって望ましいのか?という観点が過度に軽視されている点だ。たしかに社会のエンパワメントという点では、多様性は望ましいのかもしれない。一方で、個々の生活シーンにおいて、個人が多様性が望んでいるとは限らない。
というよりも、アルゴリズムがクリック率などで調整されていることを考えれば、問題の根本はアルゴリズムよりもむしろ、自分と同じ意見を好む人間自体の性質である。
結局のところ、恣意的で差別的なのはメディアやシステムよりも、我々個人だと考える。それが多様性であれ、他の理想であれ、到達するためには我々個人をハックする技術が必要であろう。
脚注:
データ量の増大について
・日本における1日の平均メディア接触時間は、2006年の335分から2023年の443分と108分伸びている。また、内訳として増加に寄与しているのは、PC・スマホ・タブレットである。
・23年の接触時間割合(全世代平均)はテレビ30.5%・ラジオ6.3%・スマホ34.2%・タブレット8.0%・PC15.5%・新聞3.1%である。
出典:博報堂DYメディアパートナーズ 「メディア定点調査2023」
男女15歳~69歳(資料は登録DL制のため検索のこと)
・ネット登場以前も含む、より長期間の統計については下記を参照
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2006_07/060706.pdf
・データ流通量の変化としては間接的なデータであるがデータトラフィック量の変化に関するデータがある。いずれもトラフィックは急増している。
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