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上海発展途上異聞

手記

なぜここに来てしまったのだろう。
好奇心であった。
異国での体験は自分の糧となり、日本での再就職にも有利に働くだろう。
少し言語が達者だからと、現地法人に就職した。
二十台中盤の女が異国の地でおいかけた夢は、ものの半年で霧散した。

雑然とした街並み、北時雨、灰色の空、ほとんどの人がくすんだ濃い色の衣服を着ている。肉まんに吸い殻が混入。1日数百も作るのだから、1個くらいは入るものだと開き直る店主。会社の社宅なので、管理人がいて安心かと思いきや、昨日私が捨てたはずのセーターを着ている清掃員のおじさん。洗濯機の水は薄茶色で、白い衣服を洗えばそのままその色に染め上がる。突然冷たい水へと変わるシャワー。凍えそうになりながら急いでベッドに入る。不意に割ってしまったコップを片付ける気力もない。
知り合いもいないし、頼れる人もいない。

帰国したい衝動を抑えながら起床した。
朝食を摂って身支度をする。この国に来た時に買った、オシャレなミサンガはお守り代わり。赤・茶色・黄色・緑・黒の5本の紐で出来ていて、大変気に入っている。
何はともあれ生活費を稼がねばならない私は、勤め先の日本向けツアーを企画している旅行会社に向かった。地下鉄で二駅先の水城路駅を降りたら、出口の大きな交差点から虹橋路という幹線道路を東へ10分ほど歩けば会社に着く。
午前中は日本とのやり取りに忙殺される。昼は近くの公園で灰色の空のもと、ぼーっとコンビニ飯を腹に入れる。午後は、時間に余裕があるので、同僚とも会話しながら、時折さぼりつつも、ごくごく一般的な会社員みたいに働く。退社後はスーパーで買い物をして(私の趣向の話ではあるが、私はビールが好物で、何気にスーパーで海外の品を漁るのが好きなのだ)、家で簡単な夕飯を作り、インターネットで日本のドラマや映画を見る。
そんなありきたりな毎日だ。

会社では異国のうら若き乙女(二十台中盤でと思うと恥ずかしいが、そう見えていたはずだ)が珍しいのか、周りの若い男性からの扱いは大変丁重だった。優しい笑顔の裏には、恋人に若しくは妻にと、狩猟民族さながらの狙いすました本気の香りがする。彼らからすれば、自分よりも高給取りで異国の若い女など、葱どころかフカヒレを背負った北京ダックに見えただろう。
とはいえ、都会なうえ高級住宅地ばかりの街なので、この会社に勤める男性は小綺麗であり、かつマナーも良い。中には、日本のアイドルグループにも入れるような、いまどきのユニセックス風の男性とか品のある顔立ちの男性もたくさんいる。もともと自分のキャリアのために出国した私だが、男性に興味がないわけではない。同僚の中にも、数人は付き合ってみたいと思う男性もいるし、一人でいる寂しさからか、最近はめっぽう前向きに品定めしている。


一人目の男<ラピスラズリ>

名を海平(ハイピン)と言う。1歳年下の同僚だ。
第一印象としては、背は高くなくスタイルが良いわけではないが、可愛らしい笑顔が特徴の大変好感の持てる、少し日本人らしい(はにかむ感じだとか、自分を前に出さないおくゆかしさとか)そんな男の子だ。
きっかけは、単純に夕飯に誘われたから。その後も第一印象とは全く変わらず、可愛くもおくゆかしい海平は、一緒にいてとても居心地の良い男の子だった。
何度か一緒に食事を繰り返し、特段付き合うだとかそんなプロポーズめいたこともなかったが、帰り際にキスくらいはする仲にはなっていた。
ある休日、海平の故郷に小旅行するということになった。青浦区という場所で、車で1時間くらい走った場所だ。
昼には現地についた。
道端の粽(笹の葉は取り払われ、日本のスーパーによくある透明のビニール袋に直接入っていて、なんとも食欲を減退させる様である)を買い込み、海平は自分が通っていた大学を見せたいと、星彩のごとく純真な様子で提案してきた。どんな学校なのかと興味はありながら、きっとイメージするような灰色のこじんまりとした校舎なんだろうとテンションは上がってはいなかった。
予想は外れた。かなり大きい校舎であり、イメージとは異なる多少灰がかってはいるが月白色の綺麗な学び舎だ。
そうか、土地も有り余っているし、災害も少ない地域なので、綺麗で大きな建物は建てやすいのか。
海平に導かれ、校舎内に入る。
様々なクラスがあり、海平の説明とともに、母国との違和感をあまり感じず、なんだか懐かしい気持ちのままに散策を楽しんだ。
土曜日ではあったが、クラスによっては授業を行っており、他人の私が見学している様がなんだか後ろめたい気もするが、まぁ逆に他人であるのだから気にしてもしょうがない。
最後に訪れたのは、日本語科のクラスだ。
現地人が教壇に立ち、おそらく日本語の文法を学んでいるのだろう。日本語とは難しいものだ。よくこんな難解な言語を学ぶ気になる。関心していた私に海平がなかば強引に教室内へ引き連れた。
突然のことに驚く。
なぜ教室に?と混乱する最中、海平がこれは私へのサプライズであって、学校には以前から連絡済みであること、日本人との交流は学生にとってあまりないチャンスだから、是非交流してほしいということであった。果たしてこれが私が喜ぶようなサプライズではないことを理解しているのか、いやそんなことはどうでもいいと思っているだろう心優しい海平は大変満足げな顔で、学生らに私を紹介しはじめた。

日本人でありながら、この国が大好きで、一人現地の会社で働いている。海平のことが大好きで、いつも海平に助けてもらいながら生きている。こういう女性をものにできる海平がいかに成功者であるか、異国の女性と付き合えて助けている海平がいかに器の大きい男か。勉強も良いが、心の強さも鍛えていかないと海平のように立派な人間にはなれないので、学生の皆も鍛錬に励むようにと。

はてさて、予想だにしていない(というより口から出まかせの)言葉が織りなされた。
こんな上から目線の海平を初めて見たし、私をネタに自慢する彼は納戸色に輝いて見えた。
さすがの私も紹介?に関して否定するわけにもいかず、早く帰りたい気持ちを悟られないよう、当たり障りのない挨拶をした。
ふと口の中に粽のネバネバが残っているような感覚にとらわれ、大変具合の悪い気持ちのまま、学生たちとの交流にふけった。
母国に関する質問やこの国についての意見など勤勉さともとれる交流から始まったは良かったが、結局どんな男性が好きなのだとかそんなところまで話は広がり、最終的には雑談会の様相でクラス全員と連絡先の交換を強制執行され、なんとも言い難いこの居心地の悪い公開裁判は終わった。


二人目の男<ライムイエロー>

天気予報は快晴である。快晴とは、燦燦と降り注ぐ陽光と空が高く見えるほど澄んだ蒼穹であると思うが、ここの快晴は太陽は霞んで見えやはり灰がかっている。
寒天の昼下がり、公園でぼーっとしていると、携帯にメッセージが。
明杰(ミンジエ)くんという以前訪問した大学の日本語科の生徒だ。
19歳とまだ若く、運動が好きで、卒業後は日本に行きたいと言っていた。肌艶よく、男らしいという感じではなく、綺麗な子だ。女装などさせたら、さぞ似合うだろう。
ここのところ数日に1回はメッセージが届いていて、なんてことないやり取りをしていた。
仕事の合間の貴重なランチタイムにいささか面倒くささを覚えつつもメッセージを確認してみる。
サッカー観戦に泊りで数人と行くので、一緒に行かないかというお誘いだ。
私自身、スポーツというスポーツは全くしてこなかったので、サッカーと言われても、実はあまりルールは知らない。(馬鹿にしないではほしいのだが、ゴールにボールを蹴って入れば1点とかくらいはもちろん知っている。)
海平とも少し距離を置いているし、休日の寂しさは相変わらず。最近は楽しみという楽しみも少ないし、前向きな気持ちで行ってみようと思い立った。

待ち合わせの駅に着くと、明杰が一人で立っている。少し緊張した面持ちだ。聞くと、数人で行くと言ったのは嘘で、どうしても私と二人で行きたかったという。
若さの勢いというか、なんというか。
騙されたことに落胆し、残念な気持ちにはなった。
明杰は申し訳なさそうに私の反応を待つ。
まるでご主人様の顔色をうかがうポメラニアンのようだ。
一度落ち着こう。はぁ、とため息をつく。
いわゆるヴィラといったコテージ的な部屋に泊まると言っていたな。どうしようか。
こんなに若い子が好きになってくれるのは嬉しいし、私の方が大人なのだし、そもそも嫌な気はしていない。
なかばしょうがないという気持ちで、今後嘘はつかないということを約束し、予定通りサッカー観戦に行くことにした。
これまた、しっぽフリフリ、ご主人の帰宅を喜ぶポメラニアンのように、明杰は喜んでいる。
まぁ可愛いものだ。

気を取り直して、まずはスタジアムへ赴いた。日本のスタジアムを知らないが、きちんと整備された施設だった。
存外楽しい。
ビールの売り子がいて、スポーツ観戦の雰囲気そのままに身をまかせ、存外楽しいのだ。
赤色のユニフォームのチームと、青色のユニフォームのチームが対戦しており、明杰から赤色のチームを応援しようと言われていた。
シュートを打つたび、反則があるたび、歓声が沸く。ゴールが生まれればお祭り騒ぎだ。
これは楽しい。何度も言うが存外楽しい。ビールに少し酔っていたこともあってか、にわかの私も歓声をあげていた。寒夜なぞどこに行ったか、皆が顔面紅緋に染めて。
結果、赤チームは逆転負けをして明杰は残念そうではあったが、大変満足のいくアクティビティであった。試合が終わっても、私自身興奮冷めやらぬこと。明杰にいろいろと質問攻めをしたり、あの場面が盛り上がっただの、会場の雰囲気がどうだっただの、その後のディナーでも話に困ることはなかった。

これは来てみて良かったと余韻を楽しみながら、宿泊する施設に着くと、私のテンションは一変してしまった。
そのヴィラ(のような場所)は、ほこり臭くはっきり言ってレベルの低い部屋だった。
カーテンはところどころほつれていたし、入り口の扉は隙間風がすごかったし、シャワールームはその部屋に大変似合ったカビ臭い独房のようであった。明杰にとっては特別なものらしく、その部屋の絢爛さ、また大人数人が一緒に寝れるくらい大きいベッドに興奮していた。鼻炎の私は、少し不安になりつつも、いやだいぶ不安で仕方なく。私はこんなほこり臭いベッドに横たわらないといけないのかと反面落ち込んでいたのに。
そんな様子に気づきもせず、まさに油色の空気でも出ているのではないかと思うようなゴーゴーと音を立てるエアコンの下で、明杰はその若さ勢いのまま、可愛らしいポメラニアンも欲望のままに、夜深くまでありのまま振る舞った。


三人目の男<紫紺>

なかなかの経験だった、若さたる猪突的振る舞いにうんざりしていた。いまだに明杰からは、いろいろとお誘いを受けていたが、過去の苦味を忘れられず、返信はあいまいなものになっていた。
サッカー観戦から1カ月経った頃か、会社の飲み会に誘われた。
海平もいたが、あまり気にせず、同僚との食事を楽しむ。
火鍋については、自分でよそうことはない。周りの狩猟者たちが我劣らじとやってくれるのだから。全く甘えればいいのだ。
大変騒がしい店内で、酒も進んできていて、段々と取り巻きやその場の雰囲気に嫌気がさしてきたところ、すっと隣に座る男がいた。
良敏(リャンミン)という。私の上司で、こどももいる既婚者だ。
若き狩猟者たちとは時間の流れが違うのだろう。ゆっくりとゆったりとした素振りも、丁度よい表情の変化も、やはり大人なのか落ち着く。彼が隣に座ると、若き狩猟者たちは一層おとなしくなって、飲み会の終わりには心地よい時間となった。
良敏はここ最近の仕事についてなどをもっぱら上司部下の話をしていたが、途中からはお互いのプライベートの話になっていた。良敏は特段趣味と呼べるものは持たないが、酒が好きなのだという。特にビールだそうだ。この国にも青島ビールなど、有名なビールがたくさんあるから、そういう人間も多かろう。
ふと、数駅先にビールの美味しいバーがあるというので、是非行きましょうと特段下心などなく2次会とばかりに二人で店を出た。
なんとも雰囲気の良いバーだ。大人のバー。この国に来て初めてのバー。優しいジャズと、バーテンダーの振るシェイカーのリズムに、キャンドルライトの炎が揺れる。
店内に濡羽色の濃い夜が漂う。
イタリアだとかチェコだとか様々なビールが美味しい。まずい、かなり酔ってきた。
そのミサンガ可愛いねだとか、甘い言葉もきちんと伝えられるところが大人だ。
そんなBGMにも酔いながら、めっぽう可愛くなっていたであろう私。(相手が年上だったからと言い訳させてほしい)
煙草を灰皿に落とす仕草。ビールを飲む彼の喉ぼとけの動き。流し目で私の顔を伺う。
良敏の名前の発音すら朧になってきたところで、彼の肩に寄り掛かる。この夜も大変寒かったし(また言い訳)、帰るのがおっくうになってしまった。

酷寒の候、そこからは矢継ぎ早。
すごく上手な男で、こんな体験がなかった私は、当時どうかしていたのかもしれないが、大変この男にハマったのだ。
結果、身体を重ねるために会っていた。
時には会社から徒歩10分ほどのホテルに私自らが宿泊予約(日本のように時間貸しがない?私が知らないだけかもしれないが。)をして、18時にチェックインし、事が済んだら21時にはチェックアウトする。受付の男が訝しげに私たちを見る。パスポートのコピーを取られているが気にしない。
そんなことまでして、良敏と会っていた。
婀娜やかさの欠片もない私に艶を与えてくれる気がしていた。
彼には家庭もあったし、朝までということはなく、そもそも私も他人と朝までいるのが得意ではなかったので、ちょうど良い距離感で関係が続いていた。
出張も多くなった。同行出張だ。
あからさまとも思うが、こういう時は職権をしっかり乱用する。もちろん部屋は別であったが、時には顧客も泊まるホテルでも、他の同僚が泊まるホテルでも。廊下でばったり会ったりしないかと、少しアドベンチャー的な気持ちもすこぶる心を色めき立たせていて、一層楽しんでいたと思う。

ある日不順になった。
良敏にも軽く伝えたのがいけなかったのか。でも、なんとなくそんな事を伝えたらどんな反応をするか女ながらの意地悪さが出たのかもしれない。
そんな気はさらさらなかったのに、冗談で産んでもいいかもと軽く言ったのがいけなかったのか。
良敏は大丈夫だろうと軽く言っていたが、内心焦ったのであろう、似紫の顔面は笑ってはいなかった。
もちろんできていなかったし、その結果も伝えた。
誘っても断ってくる日が多くなった。


四人目の男<桜色>

良敏との関係で目覚めた渇望が後を引き、いわゆる成人女性向けマッサージ店に行ってみた。
ブレイブハートという私の好きな洋画があるのだが、私はその主人公さながらの勇者であったようだ。
その主人公は最後には自由を叫んで処刑される。彼に私を重ねては失礼か。失笑を妨げない。
ひとつ言っておきたいが、元来私はこんな行動力のある女ではない。いや、なかったと過去形で言った方が良いか。
何度も店の前を通り過ぎている私は滑稽であったろう、中学男子が初めて大人の本を買うような(女の私には分からないが、なんとなく想像で)、そんな鼓動がおさまる気配がない状態で、チャコールグレーの穴の中に足を進めたのだ。

部屋に通されたは良いが、全く私の心臓は100m走を走り続けている。
アジアンテイストのオシャレな造りの部屋だ。シャワールームが備え付けられている。観葉植物があり、温度も暖かいというより、少し暑い感じだ。BGMは耳で自然を感じられるネイチャー系ミュージックだ。
部屋では衣服を脱いで専用のビキニのようなものを着ける。ビキニといっても、そんな良い生地が使われているわけではなく、おそらく使い捨てなのだろう、紙マスクに似た質感の生地だ。
これは恥ずかしいが、備え付けのベッドにうつ伏せになって待つのだ。ベッドもどこか祖父の家の古びた皮のソファのような、もしくは老舗の鍼灸院の施術台のようなもので、体勢をそのままにしていると接している部分が汗ばんでくる。

すると上下黒色の長袖長ズボンを着たおそらく20代後半の男性が入ってきた。
すっとモデルのような背の高い男性で、アイドルさながらの顔立ちだ。切れ長の目もクールな表情も大変好みだ。
そもそもスパなどにも行ったことがないが、マッサージがこんなに気持ち良いと知っていれば、日本でもハマっていたに違いない。
世間話をしながらオイルマッサージを受ける。途中何度もうとうとと眠りに落ちそうになるのを堪えながらも、少しセレブな気持ちにもなり、心地よい時間が流れていく。
まぁ言葉の発音的にすぐに外国人であるのはバレるものだ。
彼は日華(リーファ)と名乗った。偽名であろう。
出身はここから数百km離れているところで、なんとか稼ごうとこの町まで来てみたものの、学がなく、きちんとした就職先が見つからずにこの道に入ったそうだ。芸能の道なんかもありだったのではないかだとか、そんな上から目線の評価をしつつ、雑談を楽しむ。基本仕事であるためか、終始硬い表情を崩さない日華だが、時折見せるくしゃっとした笑顔が可愛らしい。
一層プロのピアニストのように、私という鍵盤を優しく奏でていく。
はじめての経験であった、撫子色に火照った私はこの施術に果てた。

それから数度通ううちに、日華とは彼の仕事終わりに食事をして、私の社宅で飲みなおすということを繰り返すようになった。
あくまで社宅であるし、人に見られたくないので、管理人がいるような時間は避け、もっぱら深夜近くに部屋に入る。部屋では日本のことをほとんど知らない彼に、言葉や文化、芸能、食事、様々な事を教えながら、毎夜盛り上がっていた。宿題とばかりに、次会う時までにこの映画を見ておくよとか、そんな甘い恋人のやり取りを楽しんだ。

日華は仕事柄なのか、受け身の性格である。いわゆる客商売なのだから、日本のホストのように、女を喜ばせるのが仕事だ。それがプライベートにも染みついている。食事をしていても、隣を歩いていても、常に紳士的で素敵だ。職場を一歩出れば仕事の顔ではなくなり、少し気が緩んだように見えるのだ。その変化が嬉しかった。

その日は朝から灰色の雨が降っていた。
少し冬も緩んできたような雨は、より一層世界から生気を奪っている気がした。
いつものようにデスクで日本とのやり取りに忙殺されていると、副総経理(日本で言う副社長)が私を探しているみたいだと、同僚から言われた。
何だろうと席を立つとちょうど副総経理がやってきて、その場で、あなたの部屋に誰かがいると社宅の管理人から通報があったが、どなたか心当たりがありますか?と優しく質問された。
同僚たち、上司や海平らも見ている。
そう、月に一度、部屋の掃除を管理人に依頼していたので、おそらくバッタリと対面してしまったのだろう。
はっとした瞬間、数学者のピタゴラスのように、はたまた物理学者のアインシュタインのように、光よりも速いスピードで私の脳は活性化した。
昨晩友人が遊びに来て、泊まってもらった。管理人さんがいない時間だったので、報告できなかった。
証拠など見つけられるようなものではない、そんな嘘を伝えたのだが、副総経理からはほどほどにしてくださいねと、お小言を授かってしまったのだ。

夕方いつもの通りに帰宅すると、いつもの通りの部屋であった。
特段何かを取られた形跡もないし、日華がいた形跡も、記憶すらも綺麗に掃除されてしまったかのようだった。
電話をしても出ない。メッセージは届かない。
その後急いで傘もささずに、彼のいた店に走り、店員に彼の所在を聞いては見たが、教えられないの一点張りだった。
まぁそこまで固執はしていなかったが。
店を出ると雨はやんでいた。
ふと手首のミサンガが切れかかっているのに気づいた。

ミサンガを見ながら、この冬の記憶を呼び起こしていた。濃密な冬を。
なんだか全てがどうでも良くなってきた。
ふとお守り代わりであったそのミサンガをちぎり捨てた。
リセットボタンを押そう。
そう決めた。
決めた途端、心が軽くなり、すべてのことがちっぽけに思えてきた。
私自身の可能性は無限に思えたし、何かに悩むという行為が馬鹿馬鹿しいとも思えた。

こうして私の異国での漂流は終わった。

何が残ったであろう。
正直に生きていくという楽しさは学べた。
帰国しても正直に生きて行こう。
すごく図太くなった実感はある。

晩冬の雨上がり、灰色のキャンバスに色とりどりの花が咲いた。
何もなかった灰色のキャンバスに。

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