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20250125
スイミング(バンド)のメンバーふたりと、先日のライヴの打ち上げとしてウズベキスタン料理を食べた。その店は高田馬場の商店街の中にあって、初めて降りたつ街の空気がぎっしりと詰まっていた。東京に帰ってきてから、都心のほうに出向くのはひさしぶりだった。店を出て、3人で散歩をした。暖かい15:00の日光と肌寒く鋭い風がかき混ぜられているビルとビルの隙間。神田川の側面に映る影で遊んだり、高級住宅街を巡ったり、フェンスを突き破っている大木の肌を撫でたりした。そういったことすべてにばったりと遭遇し、発見が発生していたのだから、すごい。スパイスのような刺激がありながらも、凪の中にいるような時間が流れていた。それは初めて食べたウズベキスタン料理であるプロフの味覚そのもののようでもあった。皿の上に載っている料理はまったくの新世界だが、舌に馴染むどこかほっとするような味。
日が暮れて子どもたちが帰る時間になった。わたしたちはコメダに入店して、食事や飲み物やスイーツを注文しながら話の続きをした。3人ともそれぞれノートに何かを書きつける時間がときどき生まれていて、何も言葉が交わされないそのいっときも心地よかった。
帰り際、高田馬場から新宿へ向かう途中で、iPhoneと3.5mmのイヤフォンをつなぐアダプターがついにダメになってしまった。曲は微かに聞こえるけれどノイズがその上に覆い被さっていて、ちぎれかけた部分をいくら指でつなげようとしてみても元に戻らなかった。聴くのを諦めて、銅線が剥き出しになったケーブルを見つめるとさっきのノイズが頭の中で再生された。
帰宅して湯船にお湯を溜めながらMacBookを開くと創作モードに入ってしまい、湯張り中であることをしばらく忘れていた。慌てて見にいくと湯船のふちぎりぎりまでお湯が溜まっていた。服を脱いでそこに身体をゆっくりと挿入していくと、お湯があふれて、床に置いていた空のシャンプーが船のように浮かび上がった。肩まで浸かって湯船からの洪水が終息すると、生まれてから大体20年が経った自分の身体の体積がいまあふれたお湯の分なのだ、という考えがふと浮かんできてそのわかりやすい現象をしみじみと観察していたかった。すでに0:00を回っていて、日付的にはわたしはすでに二〇歳になっていた。