島崎春樹
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木曽路はすべて山の中である
島崎藤村の『夜明け前』のあまりにも有名な書き出しです。
木曽方面への出張帰りに無理矢理時間を作って馬籠宿へ寄り、島崎藤村記念館で『夜明け前』の生原稿を見る事ができました。推敲の跡が生々しく残る藤村直筆原稿の実物は、言葉に魂が吹きこまれ情景が目に浮かぶようでした。
なにぶん不勉強で恥ずかしいのですが、島崎藤村の本名は島崎春樹というのですね。知りませんでした。
でもここですべてが繋がりました。
そういう事だったのか!
こういうことです。
今や世界的な作家になった村上春樹さんの春樹は、島崎春樹に由来するのではないか。つまり村上春樹の父が、島崎藤村の本名の春樹からとったのだと確信を持ちました。
村上春樹は老いて父の事を語っています。それによると氏の父は、大陸の戦争に駆り出され生き残りました。大陸では捕虜の斬首に関係した事や、死ねなかった事による後ろめたさや仲間への懺悔が、自身への禍根として残り随分と苦しんだといいます。祖父が京都の僧侶だった事も、その背負った荷をより重くしました。
ちなみに祖父は難聴で、ある雨の日に踏切で列車に轢かれて死んでいます。
そう『1973年のピンボール』に出てくる井戸掘りの天才職人は、村上春樹の祖父の巧妙なメタファーだったのです。井戸掘りも難聴で雨の日に轢死して鳥の餌になっています。井戸掘りの天才というのは僧侶の暗喩みたいじゃないですか。
そして『1973年のピンボール』の主人公の「僕」には死別した彼女の直子が精神的に重要なキーになってきます。直子の父は仏文学者で、大学での教鞭を置いたあとは難解な原書の翻訳に没頭していた何かと変わった人でした。
『1973年のピンボール』の直子は『ノルウェイの森』で顕在化し、村上作品に暗礁のように時おり姿を見せていました。一人称で描かれていた村上春樹の初期の作品の「僕」は春樹自身でもあったのでしょう。
つまり直子は村上春樹にとっての母であり、直子の父は村上春樹にとっての父であり、井戸掘りの職人は祖父である。戦争で生き残った村上春樹の父は国語教師として後世を過ごし、村上春樹は本漬けの環境に置かれ古典文学を暗唱させられるなど、文学的スパルタ教育を受けたようです。それが作者村上春樹の血肉になったのは間違いないのですが、関係性は決して良好なものではなく、老年期まで村上春樹を苦しめたようです。
子が父親の年齢になって、大きな壁が瓦解するようにお互いが歩み寄ることは珍しくありません。
そのようにして村上春樹は父のことを書き出したのでしょう。
そう、それこそ島崎藤村つまり島崎春樹の『夜明け前』なのです!
藤村の父の島崎正樹は、馬籠宿の有力者でもあり国文学者でした。しかし正樹の理想はあまりにあねきたために、明治天皇に直訴文をしたためた扇を投げつけて不敬罪で逮捕されるなど、行き過ぎた正義感と理想主義のために狂人扱いされ、座敷牢に幽閉されて獄死してしまいます。
非業の死を遂げた正樹の影響を藤村(春樹)が受けないわけがなく、父の人生を描いた『夜明け前』という偉大な作品となりました。
島崎正樹や島崎藤村に村上春樹の父が大きな影響を受けたことは、時代背景や世代的にも容易に推測できます。村上春樹の父が、藤村(春樹)の父島崎正樹の人生に、自分を重ねたのではないでしょうか。
そして子に「春樹」という名をつけた。
ちなみに僕の子も「春樹」といいます。
実は最初の子は死産で失ってしまい、僕の子の春樹は第二子で、春の樹のようにすくすくと育って欲しいという意があります。
春樹についての答え合わせが、奇遇にもして馬籠宿でできるとは。これぞ旅の偶有性というものです。
もうひとつ。今回の木曽路の出張ではまさに邂逅ともいえる不思議な女性との出会いがありました。
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というのは冗談です。
続きはまた折を見て笑
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