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短篇【夜風が調律してくる】深川麻衣



『髪切ったの、どう?』

そういえば、この言葉はどういう意味だったのか。2日前のたわいもない会話の一部など、僕の頭の片隅からは既に消えていた。

まるで魔改造したような速度で身体の虫酸が奔る夏の夜。微かに聞こえる蚊の羽の音は、ゆっくりと鼓膜を連打して、不愉快と一緒に目が覚める。


ワンルームの狭い布団に足りない僕は、60年代のイギリススパイ映画のような仕草で、彼女を起こさないように起き上がって、


汗も涙も、炭酸水のような溌剌とした気分になりたくて、彼女に聞こえないように冷蔵庫を開ける。疎らな中身の君は、もう少し補充が必要なようだ。
 
「水でいいか………って水もないじゃん」


「面倒」という言葉が好きだった。こういう時に垣間見えるずぼらな僕らの普段は、成長したら直したほうがいいと顔も思い出せない他人から言われそうだ。仕方なく水道水の蛇口を捻って、微熱の水を飲む。

純粋な冷たさで不愉快さを逃して欲しかった今夏に水道水の温もりだけでは、僕の体は揺れてしまう。

起こさないように布団の近くにあった扇風機の前に座り、「弱」の文字を押す。首振りをやめて、僕だけの前に居座るように要求して、独占をこれでもかと楽しむ。


拒絶していた扇風機は僕の目の前で、無様に風を送り続ける。夏の夜には似合わない弱い音で、蚊も逃げそうな心強さで、僕は髪の毛を靡かせる。少しばかり「弱」だと物足りなく思うと、今度は試しに「中」を押してみる。


「………お、いいね」


自動販売機の当たり前のような温もりを夏の夜に感じてみると、然程冷たいわけではない少し強い風にまた髪を靡かせて、瞼をゆっくり閉じていく。
『う〜ん、』


寝苦しそうな彼女の声も、僕には聞こえない。掻き消された訳でなく、単純に今の僕は視野が狭かった。目の前にある一点の楽しさが同居人の心地を忘れて、一人優雅に踊っていた。

だから僕はまた試したくなって、ゆっくりと「強」のボタンを人差し指で押そうとする。何故かと言われると、僕にも意味は分からない。


此処で新しい気持ち良さに挑戦する理由も無ければ、愉快な身体に満足していない訳でもない。問答無用な僕の姿勢は、刺青のように根深く一生付き纏いそうな道を見せていた。


何処からだろう、しんしんとしている訳でもない外から冷たい隙間風が聞こえて、僕の細かく僕の耳にも届くと、瞬く間に新しい部屋になる。

そしてまた愛くるしい間になると、
『ねぇ、私も混ぜてよ』と僕の背中にビタッと乗りながら、扇風機の風を我先に感じようとする。自分の彼女が自分らしく、可愛らしいことに少しだけ嬉しくなっている。

「あれ、起きたんだ」

『……そりゃ起きるでしょ、そんなにブンブン音が鳴ってるんだもん』

「ごめんごめん、なんか暑くてさ」

「……気持ち良いね」

『隣来れば?』

「ううん、ここでいい」

淡白な言葉のラリーならこの夜にすんなり迎合出来る。まるで豊かな契約のようにゆったりと、僕の背中と顔の隣になって羅列する。

少し上向に扇風機の向きを変えて、彼女の髪をより靡かせる。前髪がふわっと持ち上がり、上唇が徐々に尖っていく。爽快な風の圧力に額も瞼も赤裸々に曝け出ている。


頑なに閉じている僕の腰に巻いている彼女の腕は、世界の帳を奪うようにギュウギュウと。胡座をした僕の身体は段々と緩んでしまい、バランスを整えようと何回も立て直す。


『ふぁ〜気持ち良い、こんな気持ち良い風邪を独占してたんだね』

「今まで寝ていたじゃん、独占させてよ」

『それじゃあ、なんか寂しいよぉ、一緒に居たいじゃん』

そんな可愛いことを直接言う彼女だったっけと、僕も忘れる。

そして彼女から仄かに香る柑橘が窓に逃げていく。勿体と貧乏性に思う僕はだらだらと体を動かしながら、今度は彼女の背中に乗ってみた。

「じゃあ、今度はこっち」


『えぇ…私も巻き付きたい』

「十分巻き付いたでしょ、今度は僕の番」

目新しい景色に驚きながら、僕は彼女の顔の隣を陣取る。正面から来る風と髪から流れてくる一途な風は欲張りながら顔にだけ当たる。


矢鱈な香りにまるでイルカのメロンにでもなったような、何でも出来る錯覚になる。机上の空論をそのまま、身体で体現している。そう思うと彼女の肩の温もりが、今が一番欲しい存在に
なってしまった。


「ん、風いらないの?」

『うーん、今はとりあえず麻衣が欲しいかな』

「甘いじゃん、可愛い」

段々と肩に沈んで、その温もりに染まろうとする。今度は僕の腕が如実に巻き付いて、現世からの怨念のような締め付けを彼女にしてやって、

まるで吸血鬼のように舞い上がる彼女の香りに、クラクラと体にゆっくり浸透させながら。彼女も空いた手を巻き付いた僕の腕を摩りながら

『もういいでしょ、私も抱き着きたい』

「じゃあ首振りにして」

そのまま僕らは、ゆっくり倒れていく。整頓された布団の並びから外れて、疎らな立ち位置のまま、僕らは体を落としていく。

『布団ぐちゃぐちゃになっちゃうね』

「どうせ朝起きたらぐちゃぐちゃになるんだから、今そうなっても問題ないよ」

『ならもっと遊んでいい?』

「ダメ、もっと僕に寄って」

腕にのし掛かる彼女の頭の重さなど、昔やった部活の重運動に比べたら何とも思わない。脇辺りまで寄り添って、より近い距離で交ざり合う呼吸を見ると、僕は落ち着きを無くしてしまいそうだった。

ゆっくりと通り掛かる髪の毛を僕のか細い指で弄る。一本ずつの力強い素敵な毛質に僕は何かまた忘れていた形を思い出す。


そして形状記憶の性質にして欲しいと、同時に思う。

『あれ、髪型変えたの?』

「……今気づきました?貴方はいつも遅いですよ全く」

『ごめん全く気付かなかった、いつの間に変えたんだね』

「私もいつかは忘れたよ、もう随分前だった気がする。なんなら2日前にも切ってるもん」


そういえば、他人の変化には人一倍疎い自信がある。例えば塗り替えた校舎の壁色も、新しく舗装された道路も、他人の機種変の時も神の思い通りに無様に分からなかった。

それを機敏な彼女の変化すら見逃す羽目になるとは、世の男性の整頓された管理能力には毎度驚く。


「あらら…、彼氏失格だね」

『髪型の指摘一つでそこまでにはならないよ、寂しいけどね』

「ありがとう、この髪型好きだな」


さらさらと、その短い髪を揺らす。独占する対象を変えたくなるぐらい、単純に見えてくる彼女の出立が堪らなくて。


『気に入った?』

「そうだね、正直麻衣なら何でも似合うとは思ってるけど、この髪型は何となく好き」

『へー、じゃあ次からもこの髪型にしようかな』


僕の頬に手の甲を何回も、ジリジリと近くで感じる。装丁に施された甘美な空虚の口調に、少しだけより柔らかく彼女の空気を漂う。


『いや、僕に合わせなくていいんだよ、麻衣の好きな風にしていいんだから』

「……分かってないなぁ」


そうやって、花より美しくなる彼女は
「 愛してる人の好みになりたいの」


ただの言葉を残しても、彼女の可憐な気持ちは落ち着かずに、僕の唇に当たる。

『ん、目閉じちゃダメ』

「普通こういう時って、目を閉じるでしょ」

『そういうことを言いたんじゃなくて』


『私とするときは、閉じないで』


夜風は独占を始めた。不愉快にならないこの横暴さは、この季節特有の蜃気楼のようだった。そういえば、もうすぐ朝になりそうだ。


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