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長篇【僕らの唄が何処かで】西野七瀬


【春の手前、何もない生活】

———————今日も疲れた。

筋肉が萎縮した後の慢性的な疲労ではなく、人と出会い、人に気を使う事への途方もない疲れが何処となく体に流れてくる。

東京という世界は異様で恐ろしい。仮面を着けているような表情と棘のある言動には、正直僕の幼少期のトラウマの一つとして、片隅の奥でウジウジと住み着いている。

だからこそ自分の閉鎖的な家の隅で、静かにしている時の方が気が楽だ。

今日の晩飯は上手く作れた気がした。日頃の行いか努力の結果か、高2の冬時点での腕前は的屋と同じぐらいの雑味加減が残る。

誰でも簡単に上手く作れるカレーでさえ、普通という台詞がそこに綺麗に乗っていく。


ただどちらにせよ、このままだと一人でも生きていそうな、柔い自信に溢れる。

明かりが妙に眩しいリビングに、母と僕の二人だけで広く使う。母の仕事の調子が良いらしい、僕は全貌が分からない姿でも疑問に思うことは無いほど慣れていた。

だからこそ、母の言葉には疑念すら浮かばず、また慣れたような返事で事の端末を見届ける。

今日もカレーが匂う。
「〇〇、また私転勤することになったの」

「………そう、お疲れ様」

「ありがとう、流石優しい我が子ね」


「で、何処行くの?」

「イギリスに、いいでしょ」

「でもご飯は美味しくないって聞くよね」

「……ちょっと行く気無くすじゃないの、やめてよ」

「そんなすぐに落ち込まないでよ、とりあえず僕はどうするの?」

「色々考えたんだけど、私もいつ日本に帰ってくるか分からないみたいなの、今回は大きなプロジェクトらしくて家に帰る可能性は薄いかも」


「だから〇〇を私の地元で知り合いに預けようと思ってるの」

「……また大胆な作戦だね、一人は慣れてるからこのままでも大丈夫なのに」

「帰ってくる保証が無いから、流石にそれだと心配になっちゃって、だから誰かに預ければ安心かなって。もう話は済んであるから後は〇〇の返答次第なんだけど」

親というのは子供の理解を知らない。偽善という言葉が似合うのか、押し売りのような愛情で子供を見る。

だからこそ僕はそんな母を無下にする意などある筈もなく、単純にその優しさに肖ったほうがどうせなら誰も悔しい思いなどしない、幸せな状態にしようとする。

「いいよ、引っ越しでも転校でも」

あっさりと答えは僕が珍しいと思ったのか、目を見開いて問う。

「…本当にいいの?今の友達とお別れすることになるのに」

「親が大変な思いして仕事してるのに、わざわざ駄々こねる必要もないよ。僕は大丈夫だから母さんは好きにしていいから」


今日もそうだ、親は疲れた顔を隠そうと必死に笑う。父親のいないこの家庭において、母の責任は恐らく、毒以上の厳しさだろう。

その毒に浸る僕も大概だが、母はとりあえず落ち着く。

「ありがとう、じゃあ来月引っ越すことにするから、荷物まとめておいてね」

「わかった、ありがとう母さん」

東京の三月は厚着を楽しむ半端な位置と思う。各々が見せることが出来る丁度良い洒落を着飾って、道路や空まで蔓延る。

母さんから言われたその後すぐに僕は荷物を纏めて、身近な物の整理を始める。

簡易的な友達たちとの交流もそこまで熱は無く、とりあえず報告する程度で治ってくれた。

歓迎会でもされたら多分、曖昧な顔になること間違い無い。

僕の荷物は海外に行くような分厚い顔をした素材ではなく、既に郵送で送っていることを利用して身軽で空港に着く。


昔お盆や正月に何度も行ったことがある場所だったが、不安が残り母から言われた住所を頼りに旅行感覚で次の仮宿を荒く見つける。ただ調べると、どうやら少し本土から離れた離島と書いてある。

僕は末端の不安と開放感を浴びて、調べた経路を歩む。

“知り合いの娘さんが港で待ってるから”

春の手前、

『貴方が〇〇君?』

「……はい、宜しくお願いします」

『麻衣さんから全部聞いてる、とりあえず家に案内するから』


飛行機と船を繋げて乗ること、丸一日。乗り物酔いなんてしなかったが、背中のぎこちなさだけは残っている。

都会から随分離れたところに位置する島に僕は一人で乗り込んだ。そして港に行くとそこで待っていた少女と出会い、道を進む。

固まった体をだらだらとして、船着場から程なくして僕の新しい家に着いた。緑に囲まれた平家の古民家がポツンと自然にある。


『荷物届いてるから』

「……はい、えーっと……貴方は…」

『西野七瀬、〇〇君と同い年だよ』

母にはもう血の繋がっている知り合いはいない。ただ血が無くとも、意識で繋がっている知り合いの空いてる部屋に泊まることになっていた。


家の中を案内される。
『ここがリビングね、〇〇君は東京から来たんでしょ?どう、この島は』

「良いところだと思うよ、東京みたいにうるさくないし」

『お世辞はいらんよ、本当はどうなの?』
洗礼を早速と思ったが、僕に嘘をつく暇もない。


「自然しか無いとは思うけど、僕は寧ろこっちの方が心地いい」

『へー、〇〇君って変だね』

「多分親譲り」

軽く二人で会話しながら、これからの話をする。

『まだ制服持ってないでしょ?』

「うん、そこら辺詳しく知らないけど」

『もう一つ別の段ボールがあるから、その中に生活用品と学校のものが入ってるって』

「……西野さんはここに住んでるの?」

『うん、元々一人部屋みたいな感じで住んでたけど、〇〇君が来るってなって共同で住む形に変わるの』

「それは迷惑かけたね」

『そうでもないよ。この家掃除とか大変だったし、単純に管理が一人だと面倒だから、〇〇君が来てくれて助かった』

「そんな年頃の女の子も珍しいと思うよ」

『この島に来たらみんなそんな風になるよ、現に麻衣さんだってそんな感じでしょ?』

僕の母は僕に似ていないからこそ、彼女の発言に納得出来る。自由人の特権かもしれない。


僕の母の下の名前すら安易に呼ぶ彼女を見ても、なんとも思わなかった。


『結構前に麻衣さんが来て。私とおばあちゃんにお願いしてきたの。麻衣さんのお母さんはもう居なくなってたから頼めるのは私たちしかいないって』

「母さんは一人で頑張っちゃうからね。そこでお二人に頼んだのは相当勇気絞ったと思うよ」

『随分信頼してるんだね』

「自由人だけどしっかり意思はあったからさ、尊敬しているよ」

『それも珍しいと思うよ』

この島の人たちとまだ彼女以外出会ってない。積もる不安はひとりで歩く。


時刻は6時になり掛けた。
「そういえば、この島ってコンビニあるの?」

『流石にあるよ、なんなら本屋とかカラオケも』

「じゃあ行くか」

『………え、コンビニ行くの?』

「うん。流石にきた初日に自炊なんて無理だから、とりあえずなんか買いに行こうと」

『……折角なら二人で食べようよ、いい店知ってるからさ』

少し意外だった。まだそう言う言葉を軽く言えるような女子とは認識していなかったみたいだ。

「わかった、とりあえず行こう」


夜になりそうな島の波のことが聞こえる。鈴虫が息を鳴らして、旋律を轟かせる。

二人でだらだらと島の港近くにある一軒の家を訪れる。静かな店内に少ない椅子と机。

『お邪魔します、今から大丈夫ですか?』

二人で通された席には魚拓が並べられて、まだ寒い島の気温に合わせて暖房が効いている。


僕らは向かい合わせで、
『どれにしよっかな』

「おすすめとかある?」
メニューにはシンプルな名前が綺麗にある。それを指刺し確認しながら眺める。

『刺身定食かな。昔生魚苦手だったんだけどこここの刺身食べてから食べれるようになったの』

「じゃあ僕はそれにしようかな」

『……オッケー、じゃあ私もそれで』

料理を待つ時間を暫く経験していない、自炊の賜物だろうか。結局自分の手で作る事に妙なポリシーを持っていたのは事実だが、この島に来た時には海に投げ捨ててたらしい。


僕らは大した会話のせず、現代人の都合と言うべきの携帯の直視に暖かい匂いだけ漂う。乗り物疲れで固まった体がここでも解されると、この島は生きているようにも思える。

そして小さい机の上に定食屋のメニューと頼んだ覚えのないご好意が次々と添えられていく。

その数は恐らく彼女の明るさが齎した奇跡だと思うが、まだ他人の僕にも優しく出来る懐の広さに、少し圧倒される。

『ほらっ食べなよ』

「うん……頂きます」

ゆっくりと頬張る僕ら、何故か前から知り合いだったような雰囲気になった。食べている時の静けさは、まるで慣れた会話の延長戦。

「美味しい…」

『口に合って良かった』

僕らは焦らず、時計の針と同じぐらいの速度で箸を動かした。

だらだらと米を掻き込む。

なんだか、分かり切った味にまた親しみを感じるように噛み締めながら味わう。この間も会話という野暮はせずに、ただただ目の前にある料理を堪能して、終わりの合掌する。


『食べ終わった〜』

「満腹だね、じゃあ行こうか」

『すみません、お愛想を』

「ここは僕が払うよ。折角の同居人だし、使わないお金を持ってたって意味ないからさ」

『………じゃあお言葉に甘えるね』

親から貰えるお金は出来るだけ使わずに残してきた。学生時代も特にやりたいこともなく、趣味もアルバイトをして稼いでいた分、必ず余裕があった。

払い終わると外の塀に座る彼女の後ろの姿が、僕の目からは見えた。

『終わった?』

「うん、結構安かったね。財布に優しかったよ」

『……どう?島の世界は』

「またその質問?」


『だって〇〇君は都会と島の二つを知ってる。私より知ってる事が多いの、それは私には羨ましく思える』

「知ってたって意味ないよ。僕は結局都会にあまり迎合できなかったしこっちの方が性に合う」

『………そぅ』

返す言葉は何がいいのか、景色に映えるのか

「風、冷たくない?」

『そうだね、夜になると冷えるよ。じゃあ帰ろっか、まだ荷解き終わってないしね』

「手伝ってくれるの?」

『流石にそれぐらいは一人でやってよ』

「七瀬さんって意外と冷たいんだね」

『冷たくないよ、〇〇君の為』

彼女は立ち上がり、僕の隣に来る。
『さぁ、行こっ』

一人で勝手に歩く彼女には、特別を残したくなった。

「ねぇ……どうせ一緒に住むんだし、お互い呼び捨てにしない?」

4月になろうとする風が僕には涼しい程度で、今は収まる。微風が上り、髪が舞う。


『いいよ、〇〇。これから宜しくね』

「うん七瀬。これから宜しく」


僕らは家に帰る。まだ終わってない段ボールの整頓を進めて、僕は少し汗だくになる。彼女はテレビをつけて、何か言いたい事があると僕に投げかける。

集中しているでは許されないらしく、無視するとツムジを叩いてくる。僕はそれを払い除けながら、自分の部屋に荷物を置く。


「はぁ終わった」

『長かったね』

「七瀬が手伝ってくれないからな」

『アイス食べる?汗かいた後だとより美味しいよ』

バニラアイスが僕の口に入る。咄嗟に咥えた僕は歯を立ててしまい、冷たさで悶えながら、ゆっくりと堪能する。

「美味しいね」

リビングに春の風が入る。僕はより受けようと雨戸を開けて、テラスに置いてある椅子で空を見る。

『隣にいい?』

この涼しさでも溶けるアイス、暑さではなく雰囲気だけで砕ける冷たい空の下では、黙っても輝く。

「星綺麗だね」

『東京も綺麗じゃないの?』

「見えるには見えるけど、ここまでじゃ無いよ。東京は汚れているから」

鮮明に見える星たちの繋ぎ目も、個々で多彩な輝きを放つ惑星たちも何かの星座と言われれば納得してしまうほど、美しく絶え間ない。

田舎に特別な影響もない僕でさえ、感心してしまう強い光を放つ世界は、不思議と落ち着く。

「明日から島の人達に挨拶行くけど、七瀬も暇?」

『暇じゃなくてもどうせ一回は頼むでしょ。行くよ、暇だし』

「ありがとうね、とだけ思っておく」

『また今度奢ってね』

「あれ母さんのお金だから」

もうすぐ四月だ。
今年の一年は、多分普通の暦となるだろう。



 

【春の時間、木霊する愛】
4月10日の今日、土曜日ということに気が付いたのは目覚めた時に身体に現れる微妙な疲れが睡眠を邪魔したからだった。

いつもならとりあえず起きて麦茶を飲む習慣をつけている七瀬がリビングには見当たらず、僕は少しだけ不安になり、携帯を見て時間を無闇に確認する。

「僕はいつもこの時間に起きるのか、もうアラームは必要ないな」

昨日まで着ていた新しい制服はこの前デザインが一新されたらしく、華やかに平日の模様をしていた。七瀬曰く一昨年迄は不評だったらしい。


この島の高校の全校生徒は7名ほど。更には校舎は中学と高校の共同の学び舎という事もあって、必然的に島の若者と知り合う事になる。

転校自体初体験だったお陰もあって出陣する直前は随分と緊張したが、巷でよく聞く閉鎖的な田舎の村八分の噂など盲信に過ぎず、結局仲良くなって、特に関係のない下級生や上級生と共に過ごす時間も野面にある。

そして今日の朝も制服をハンガーにかけて、皺を伸ばす。意気揚々と並んでいる服たちと一緒に部屋は、殺風景という言葉から抜け出す事は困難と思うほど、鷹揚とした景色だ。


 

この島には確かに必要最低限の娯楽と情報はあるが、都会に慣れ親しんだ物や施設は当然無い。ただその事実に対して特に思うことも、感じる事も薄い起伏で、今日も平日と同じ気のままで生活をする。


 

もう住んで数週間、有難く既に慣れた。

七瀬の生活習慣に合わせるのが少し大変で、ほぼ一人暮らしで身に付けた家事スキルを遺憾なく発揮出来る。

もう既に当たり前な高校授業を行なっている。オリエンテーションから垣間見える楽な時間などとうに過ぎて、早速学びの本望を尽くす。

人数が少ない分、ゆとりと焦りが混沌とした教室の中、勉学は程よく楽しめる。僕は慣れたいつもの動きで、挨拶だけはしようとする。しかし結ばれると離れない人の縁は僕を愉悦の一端を味わせて貰う。

既に縁は繋がっていた。

七瀬の部屋僕の部屋を分けている廊下に、立つと休日の夜更かしの匂いがする。

ドア越しで声を出すが、
「七瀬、一応朝ご飯作ったけど食べる?」

耳を澄ませると、聞こえない声とテレビゲームの音に彼女の昨日の待遇を感じる。


「とりあえず冷蔵庫に入れておくから」

それだけ言葉を置くと、僕は習慣になっている散歩に行こうと身体を反転させる。


すると重々しく扉が開いて、

薄く瞼の閉じた七瀬が出迎える。
『ん、〇〇……どこ行くの…』

「散歩だけど、一緒に行く?」

『行く』

「じゃあとりあえず顔洗っておいで」

島で生まれて島に住んでいる七瀬は思春期から来る影響なのか、少し都会的な生活リズムを兼ね備えている。僕からしたらこの島に似合わない姿だと思ってしまうが、七瀬らしい姿と思えば、何となく咀嚼出来る気がする。


今日は比較的気温が高くても、日中はまだ肌寒い。一枚パーカーを羽織っているが、サンダルから抜ける風と草木に残る朝露の跡が染みてくる。

「とりあえず適当に歩くから」

『はーい』

当然人口も少ない静観な島の住人は数百人しかいない。朝散歩で歩き回っても出会う人達はいつも決まった顔だらけで、真新しい運命も生まれないのはしょうがない事だろう。

僕らはだらだらと島を徘徊するが、毎回歩けば歩くほど知らない道を見にする気がする。

ある程度歩いた先、今見えるのは一筋の小さい尾道。目を凝らしても先には緑しか映らない。

「この道はまだ行った事ないな」

『……確か先行くと神社だけど、散歩なら丁度いいと思うよ』

「いいね、なら行くか」


サンダルで行くようなところではないが、恐らく島の住人なら願掛けに行く機会を多いのか、道は舗装されたように自然に頑丈に出来ている。


「その神社って何の神様を祀ってるの?」

『そんなの知らんよ』

「何だそれ、今の七瀬の島知識なら僕とほぼ同等じゃないのか」

『だってななには今まで関係なかったんだもん。でも漁師の人とか年始とかに拝んだりするって聞くからそういう神だと思うよ』

「なんだよ、普通にしっかりしてるじゃねえかよ」

『まあ私も初めてみるけどね』

緑に囲まれた祠に小さく扉がある。

「これは普通のパワースポットなんだろうな」

『ここだけ妙に涼しいもんね』

しんしんと聞こえる森の騒めきと鳥の囀りが空洞の中のような響きで僕らの耳に返す。誰かに作られた訳ではなさそうな自然体に、苦し紛れの不自然さも感じる。

ここに長居しても、祟りが起きる。そんな迷信が曲がり通りそうな雰囲気だけに僕の気持ちは少しだけ臆してきた。

「よし、帰ろうか」

『なんか怖くなってきたね……てか寒い』

「パーカー着る?」

『着る』


来た尾道を戻りながら、僕だけ少しだけ肌蹴る。素早く涼しい空気に足された色合いに同じ日本の統一感覚を忘れる。

「……田舎に憧れはなかったけど、結構好きだな」

『でも来年までしか味わえないかもしれないだけどね』

「そんな事言うなよ、一挙手一投足楽しめって」

『親みたいなこと言わないでよ』


「今じゃ僕が親のようなもんさ」

『そうだね、〇〇は家事出来るからね』

「七瀬が出来な過ぎるんだよ、出来ないというかズボラというか」

『だってこの年齢であの家に一人で住んでたって、荒い教育だと思わない?』

「七瀬のような子供には程良いと思うに一票」

『…もぅ』

僕らが生産性もない会話を続けると、七瀬の祖母が僕らの前に現れる。

「あら、七瀬と〇〇君、仲良く揃ってどうしたの?」

『散歩しただけよ』

「いつもの日課なんです」

「〇〇君がこっちにきて七瀬も外に出るようになって私は嬉しいよ。ありがとね、〇〇君」

「いえいえ、結局一緒に住んでるので、七瀬も分も家事をする事にはなってしまいますけどね。自由に暮らすにはそれぐらいは屁でも無いですから。やっぱりこの島は良いですね」

「でしょ、都会にはない良さがここには詰まっているからね、これさっき取れたじゃが芋。良かったら持っていきな」


網目の袋に詰められた沢山の野菜が元気な自然の心地を見せているような、感心してしまうほど美味しそうだった。

七瀬の祖母は畑帰りのような出立に、自給の具合を感じる。夏のようなワクワク感も僕には薄くて思う。
  

『家帰ったら朝ご飯食べなきゃ』

「絶対に残すなよ」


この島本来の正しさなど僕には完全に理解することは難しいかもしれないが、楽しむことは出来るのかもしれないと、また強く思った。


七瀬の祖母と別れて、家に帰る。数分の帰り道は都会で得た重たい鉛へと変わるような下校時とは違って、軽やかな足取りだった。


僕は家に着くと掃除を始める。七瀬の朝ご飯の最中に申し訳ないが、一人で掃除をするにはかなり広いと感じる家の広大さに、散歩帰りの疲労も忘れてしまう。

二つ前の世代の掃除機と雑巾で埃がないように、細かく目をやる。自立した生活の影響で、赤の他人が近くにいてもその習慣は変わらない。


誰に習った訳でもない手つきで、自分の部屋とリビングを整えていく。その間に七瀬の朝食も住んでおり、僕は洗い物が増えないか心配する。

『御馳走様、ななも手伝う』

「手伝うって、もうすぐ終わるよ。あとは七瀬の部屋ぐらい」

『なら自分でやるから、掃除機貸して』
どうしても追い出そうとする姿勢に、

僕はその小さい抵抗を見つけて
「……他人に見せられないほど汚いの?」
と笑いながらはぐらかす。


『そんな事ないよ、女子の部屋は簡単に男を入れないだけ』
上手いこと逃げた言葉だ。デリカシーを壁にして、僕は立ち竦む。

「じゃあ、一人で頑張ってね。一応12時に昼飯作る予定だけど、どうする?」

『流石にインターバル欲しい、後で食べるかもしれないから、また冷蔵庫入れておいて』


七瀬はよく食う。その見た目と反して僕の倍は食う時もある。食費は七瀬の家と僕の母からの折半だが、殆ど持っていかれそうだ。

とりあえず粗方清掃が終わり、心も落ち着く部屋へと変わる。先週まで段ボールやビニールのゴミが錯乱していたが、暇を見つけては掃除出来た事に誇らしく思う。


僕は一息つく為に、二人で見るには大き過ぎる薄型のテレビを付ける。今日は興味を唆るような番組はやっていないようだ。

雑多に乱打した後、七瀬の部屋から聞こえる掃除機の音が五月蝿くて、テレビを嫌々消す。

「てかこの家便利過ぎだよな」


『そりゃそうでしょ、田舎だからって不便とは限らないよ』

「何もないは撤回したほうがいいかもな」
 
『何もない事には変わらないと思うけど、生活においての便利さは東京とそこまで離れてないかもね』


そういえば、この家にはネットゲームが快適に出来るようなWiFiが設置されている。この島では携帯の電波すら危うい時もあるが、家の環境は依然整っている。前の世代の掃除機を使ってはいるが、テレビは確実に新しい機種だ。


「島だけが過去にいるみたいだな」

『それこの島の人達に言ったら怒られそうだね』

「じゃあ言わないでくれ」

『どうしよっかな……』

けたけたと笑う。掃除を汚れたを拭きながら、また二人にはと大き過ぎるソファに座った。


田舎の島の平家にソファというアンバランスな組み合わせは、風情こそ壊してはいるが、いかんせん気分は爽快だ。少し体の体勢に飽きて、余ったスペースに寝転んでも、体はゆっくりと迎合していく。


『ねぇ、今日他にやる事ある?』

「とりあえず掃除は終わったから、買い物だけ」

『じゃあさ、かずみん呼んでいい?』

「………いいけど、なんか怖いな」


『悪いことはしないよ、三人でご飯食べようと思って』

「まあ、同級生はあいつしかいないしね。折角ならアリかも」

『じゃ、決定ということで』


「その前に課題やったの?七瀬この前怒られてたよね、なんなら高山に手伝ってもらえば?高山なら頭いいし」

『……嫌や、かずみん勉強だと意外とスパルタだもん』

「じゃあ今やっちゃえ」

『はーい』


七瀬が課題をする時、必ず自分の部屋ではなくリビングで教材を広げる。私欲が多い自部屋に剥き出しの欲を制御することは、今の七瀬には難しいらしい。ノートパソコンだけ置き、地べたに座って悪戦苦闘する。

意外と自由なりの思考が楽しめる課題を課せられる僕らは、それなりの有意義さで進めることが出来る。都立高校の重荷の厳しさに嫌気が差していた頃の僕には存分に羽を伸ばせるいい機会だったかもしれない。

そう思うと親の転勤という転機には、やっぱり感謝したいところだが、親らしいことを求めている家庭だったら、そんな事はできないと苦肉にも思ってしまう。

ひとまず、七瀬の課題が終わりに近づく。
『後もう少しだ〜』

「長いな、もう少しで高山呼ぼうと思ったよ」

『……いいけど、そのかわり今日の晩ご飯全部作ってもらうからね』

「さっき使った”折角”という言葉を知らないようだな」


『折角なら〇〇の料理をななとかずみんで楽しもうって意味だけど』

「はい、もう決めた」僕は携帯に向かって、怒りの連打を繰り出して、”もしもし”という言葉を発せようと試みる。

『っ終わらせる!今すぐ終わらせるから〜!』


虚しい事に、僕が高山を呼ぼうとしたタイミングの時点でもまだ終わってなかったらしい。彼女は嘘が得意だが、疑うと面倒になるので何も敢えて言わないようにしている。

また数分後に僕は尋ねた。

「どう、終わった?」

『終わりました、疲れた………』

「じゃあとりあえず買い物行くぞ」

『了解ですっ』


僕らは高山と待ち合わせする為に少しだけ着飾った格好となって、徐に家を出る。この島に必要な服という認識は少し失礼になるかもしれないが、都会のような突飛な格好はまだ余った段ボールの中に入れてある。

少しだけ人を気にした格好を七瀬も同じような雰囲気で飾っていたことは、ある意味相思であると思ってもいいかもしれない。
そうして待ち合わせの少しさりげないスーパーで別の彼女を待つ。


【夜風と共に】

高山一実は、大人のような聡明さと反抗期の子供を双璧にしているような女性。

七瀬は女子という言葉が似合い、高山は女性という言葉が似合う。多分それは、僕だけが感じている雰囲気では無いと思う。


今日も無邪気に僕らを見つけると、平日には必ず会うのに二人が抱き合うバカバカしさは、この島ならではの意識なのか。


[お待たせ、昨日ぶりだね]

「それ毎日やってたらキリないよ、とりあえず今日は何作るか決めよう?」

『肉がいい』
姫のような一言は、凍りつくが諦めは見えた。

[………じゃあ焼肉にしよっか]

僕に作らせるつもりの夕食も結局は贅沢の本心から出た一言で、僕の苦労も泡となって消える様は少し滑稽ではあったが

『〇〇豚汁作れる?』

「作れるよ、作ってほしい感じ?」

『うん食べたい』


「分かった。とりあえず作るけど、僕の家の豚汁は少し変わってるから文句言うなよ」

『大丈夫、かずみんもいるから』

「残したら許さねえからな」

『へ?』
阿呆の顔が腹立つが、意識してもしょうがない。


レジカゴを持つ僕に手を差し伸べてくれる高山に有難いと思っていた束の間、そういえば高山も大食感だと忘れていた。

[ねぇ、肉どのくらい買った方がいいかな]

『〇〇が食べ切れないと思うぐらいでいいんじゃない?どうせ私たちで食べるし』

[そうね、そしたら〇〇も同じぐらい食べるでしょ]


何回か三人で昼ご飯を堪能したことはあるが、正直驚きの連続だった。高山は元々剣道をやっていた事実があったとしても、今でもその細身の体をキープ出来ている事の不可思議さには、七瀬と同様の異様さがある。


男の僕が霞むような、二人の食愛は巨人と間違えるような背中をしていると錯覚して続けている。僕は萎縮して、強張って二人を見つめていた。

これも滑稽かもしれないが、


[とりあえず、これだけ買えば………]

『多分食べ切れるよ』
3パック目を七瀬が手に持った辺りから何回カゴに入れたか覚えていない。会計のことなど我関せずに二人は今日の夕食を文字通りの”豪遊”するつもりなのかもしれない。

結局これからの食事に必要な材料も諸々カゴに詰めた段階で、三つほど用意したカゴがギュウギュウに膨れていた。それでも気にせずカートを押す二人の背中は、やはり巨人のような堂々とした城壁の出立だ。


とりあえず僕だけで後で精算しやすいように一人で会計を済ませる。

店員が(預/合計)のボタンを押した時に、画面に出てきた金額に呆れて言葉も出ず、店の中で狼狽することをこの日は覚えてしまった。


この小さい島の小さいスーパーの顎が外れる手前まで買い漁った僕らは何枚もの袋を貰い、詰めていく。まだ袋が無料の期間で助かったと心から脳に通った。


重たい袋が何個も重なった僕らの手には、明らかに島の景観に合わない姿。

それでもこれから始まる宴に意気揚々と踊る七瀬と高山に、出遅れている僕はゆっくりと追いかける。


既に夕方を超えて、夜の色になってきた。

細波がざらざらと島全体の空気を覆い、静寂だけが僕らと共に歩く自然となって、帰路へと急ぐ。

まだ春の冷たい夜風には食欲を覚ます力など存在せず、結局僕でも夕食を早く経験したいと急かす心になっていく。


片方では七瀬の家に事前にあったたホットプレートで肉を焼き、僕が横腹が満たされそうな小料理を即席で取り掛かり、七瀬は余った体で飲み物や箸の細かい準備をする。

リビングにある大きい一枚板の机が短い時間であっという間に豪華絢爛の居間へと変わり、食欲も唆られる。

[そろそろ焼けるよ、〇〇も一旦来て]

『なな、この肉欲しい』

「待てよ、挨拶してから選べ。公平性にかけるぞ」

『細かいな、小さい男はモテないよ』 

「肉如きに僕の人生は反映されないぞ」

[とりあえず、手を合わせて!]


“頂きます”

漠然とした言葉の次は、退廃的な肉の競争にある一方的な映画のような勢いが見えて来る。やはりあれだけ落ち着いていた高山も挨拶の後は、一目散に肉を取りに行く。

[美味しいね、最高〜]


『……美味だね』
他人に殆どやってもらっていた七瀬は落ち着いて狙っていたものにかぶりつく。正確には箸で射止めただけだが、七瀬は口に入れた瞬間、敢えて落ち着くリアクションでその場を凌ごうとする。


自分で作った小料理がまだ手付かずの状態だったのが少し憎たらしいが、正直あれだけした値段の肉には興味は当然出る。

「……そりゃあ美味いよな」


三者三様な行動に僕らの満足値は徐々に上がっていく。ただ単に食らいつくだけでなく、同級生の誼みを相まって夕食には一層色濃く華が咲く。

雑談と食事の交錯はこれでもかと思うほど、僕らの期待を超えて脳から溢れ出す。都会ではあまり味わえなかった、他人との食事を存分の果てまで、骨の髄まで味わい、堪能する。

[〇〇の豚汁、美味しい]

『ね、こんなに美味しいのいつも食べさせてもらってるの有難く思うわ』

「嘘つけ、いつも気にせずバクバク食べてるだろ」

七瀬の時だけ著しく口調が荒くなるが、箸の止まらない躍動の姿に、結局は笑顔に戻る。その当たり前の結果には僕も完敗と言うしかない。

まだ春なのかと少しだけ思いながら、
とりあえず夜の風に当たろうとまた過った。


[…………何してんの?]

真夜中と呼ぶにはまだ早く、聡明な時間で満腹の状態から吐き出される気怠さを夜風に流してもらう。


一人更ける僕はテラスの椅子で、夜更過ぎに揶揄う。言葉を漏らすと高山がゆっくりと僕の隣を陣取る。

「いや、食べ疲れた」

[そんなに食べてないじゃん、私となーちゃんに比べたら]

「お前らが異次元なんだって……あれ、七瀬は?」

[あっち]

指の指す方向には、ソファで寝転ぶ猫のように横になる七瀬。胸焼けのせいで少し気分悪そうに寝言も荒い。

『うーん……』

「だから食べ過ぎるなって言ったんだよ」

[私はまだ行けるけどね]
多次元なら理解出来たかもしれない。

そんなこと今思っても、夜風は変わらない。
「まだ少しだけ残ってるでしょ、折角の手料理が」

[〇〇の料理美味しかったよ]

「……そりゃあ有難う」

今日は夜空の顔をまだ見てない。運良く雲が覆い、険しい削られた雲の断面が見えるだけ。僕はまた雨戸を開けて嗜む。

[なーちゃんとの暮らしはどう?]

「どうって……なんか毎日親戚の子供の世話をしているようだよ」

僕はそう言いながら立ち上がり、仕舞っていた毛布を押入れから取り出す。

「七瀬が純粋だから過ごしやすい、やっぱりそれが良いかな」

また高山の隣に戻って、夜空の表情を伺う。空白んでる機嫌を見たくて必死に追おうとするが、まだ朝には遠そうだ。

[なんか青春だね]

「何、その安い言葉………」
多分、その言葉を聞いても書いても閃かないだろうと。

意味が頭の中で苛まれそうになる。

[安くても、良い言葉だよ]

「へー、じゃあ高山は青春したことあるの?」

[まだ高2の段階で安易に体験するものじゃないでしょ]

「じゃあ、高山こそ難しく考え過ぎじゃん」
今日の雲はどういう色をしているのか。月明かりだけでは見分けがつかない視覚の限界値に、今の高山の声が無下に月へと届きそうだった。

[……そうかな、本の読み過ぎ?]

「それでその偏屈な思考だったら、ある意味納得かも」

りーんと七瀬が仕舞い忘れた風鈴が鳴る。

[〇〇は読まないの?]

「漫画と本の比率は7:3ぐらいって感じ。現代っ子の綺麗な成長の仕方でしょ」

[その言葉も少し安いね]

「じゃあ僕の負けかな……」
春の夜風に風鈴は無理矢理季語として成立しそうだ。やけに静けさを纏う家は、風をキツく追う。

[……さぁそろそろ片付けやろっかな]

「七瀬起こす?」

[大丈夫、今日疲れてそうだし、寝かせてあげて]

「案外七瀬に甘いんだな」

[厳しいのは勉強面だけって決めてるの]

「……それなら七瀬も有望だな」

立ち上がっては机を片付ける。高山と二人きりでまるで念願の共同作業の手前のような、淡い色を揺蕩わせる。

台所の水場は意外と狭い、二人で作業をするには少しだけ肩が当たる。分担して洗って、拭いてを繰り返すと自然に会話も彷徨う。

なんだろう、イケナイ事をしているような気分に落ちてしまうのは。

僕は不意に七瀬を見てしまった。咄嗟に視線を戻しても違和感は拭えずに、また風鈴がりーんと邪魔をする。

水の流れる音も木霊しながら、
[そういえば、なんで私はまだ高山呼びなの?]

出会った時から、そう呼んでいた。

台所近くの窓辺には小さい鈴虫が、待ってそうな音を出している。

「………特に、なんか嫌だった?」

[出会ってまだそんな経ってないけど、少し距離を感じるなって……]

「じゃあ七瀬みたいに”かずみん”かな……」

[普通でいいよ、”一実”で]

「わかった」

「これから宜しくな、一実」
油が浮かんでいる水場の群青色は、気分悪そうに僕らを着飾る。それを今から流し殺そうと思うと少しだけ億劫にもなる。

[うん、宜しく]

出会いとは簡単だった。

始まるのは時間は少し掛かるみたいで、

少しだけこの島の事を分かり切っていた気持ちを押し込んだ。彼女の真紅に染まりそうな頬は僕の位置からでも見える。

思い返せば僕の右には七瀬が座り、僕の左には高山が座る。

いや間違えた、一実が左に座る。

海鳴りは波ではなく、空と共鳴して聞こえる。
[じゃあ帰るね]

「七瀬起こさなくていいのかな、折角の別れなのに」

[そんな重い別れじゃないし、あの子は奔放な子だから]

「一実も七瀬の親みたいだね」

そんな事を冗談でも言ってしまう。
[じゃあ私が母で〇〇は父になるね]

「やめてよ、そんなんじゃないし」

[冗談だよ………]
僕らは分かりやすい。


そして分かりやすく間を開ける。
[帰るね、また明後日]

「うん………」

手の残像が花のような形にも見える。空の機嫌と相まって、真夜中の雫の存在も明確に見える。だからって何も意識を変えることもしない。


玄関から見送ることに苦しさを覚える。人が少ないこの島特有の寂しさをこういう別れで思い知るとは思わなかった。

ゆっくりと、サンダルを脱いで、

家に入ろうと試みると、
『あれ、かずみん帰ったの?』


まだ寝ぼけてはいない七瀬が立ち尽くす。
「うん、今さっきね」

『……なんだ、起こしてくれても良かったのに』

「もうすぐ夜中になるし、それに片付けも終わったからこのままにしても、どうせ明日は日曜日だから」


『……ならいいや、風呂入るね』

「分かった。まだ浴槽洗ってないけどお湯貯める?」

『ならシャワーでいいよ、身体洗いたいだけだし』

寝起きの七瀬は真夜中にまともになる。大人になりそうな言葉遣いも添えて、僕らの今日の会話はこれで終わった。

土曜日の台所はまだ濡れたままの皿達の残骸で、少しだけ湿っぽい。僕は一枚ずつ丁寧に拭きながら、明日の休日らしい朝の準備をする。

主婦のような行動範囲に実年齢を忘れていたみたいだ。僕は少しだけ踵をあげて、偉そうにしてみる。

伽藍としたリビングに薄く伝わる威厳は、一実に見せても面白そうだ。

そして僕らは春を消化するだけの時間を過ごす。

無駄にするつもりも無く、また七瀬と一実と三人で、たった三人だけの同級生として謳歌を実現する。

少しずつ昇華していく春の匂いは、段々夏に変わっていく。

鈴虫の音色が蝉の遠吠えと重なって、照りつける地面に乾いた雑草の魂がある。宙には湿った空気が漂い、都会にも感じた事のある熱量をこの島でも味わう。

僕は学校生活の他愛もない青春の時間から、永遠に刻まれる故郷の色を見つけていく。
今年の夏は、少し違った。




【夏の日、祭と僕と七瀬と】
そういえばこの夏は心境だけでなく、生活の環境も少し変わった。

遊んでばかりいる僕のだらけを解消したくてアルバイトを始めた。ただアルバイトとは名ばかりに、本当のことを言えば島の人のお手伝いで不確定な金額を貰うだけ。

この前七瀬と行った定食屋に不定期ながら働かせて貰うことになった。

毎月親から貰える金額を明細で確認すると罪悪感が増えていくのが、子供ながらに嫌になっていた。有難い事を無駄に浪費するのではなく、誰かの為に貯蓄したいという好奇心が煽られて、僕は大人になるように働いた。

一人で暮らしているからこそ、成長の材料となる糧を見つけたくて、アルバイトという選択をしたのは、親に今度言ってみようと思う。


ただ七瀬はやっぱり難色を示したが、少しの真剣な眼差しで最後は渋々僕のお願いを聞いてくれた。

七瀬の成長の材料となる可能性も増えたという事実も良い収穫とも言える。

その代わり、少しだけ七瀬が我儘になったという点は大きさ誤算だったかもしれないが。

そして仕事を始めた事によって、人脈が増えた。

この島の人口的に元からあって無いような真新しい人との関わりだったが、仕事をして本物の大人たちと交流出来る。

他の立派な大人に見ると萎縮を重ねて、僕は縮こまる。親の世話をしていることによる過信が意外とここでは効いている。やはり大人とは自らなるようなものではない。


ゆっくりと大人になれるように仕事を覚えて夏を待つ。


七瀬はまだ夏の課題が溜まっているらしい、
『……ねぇ、今年の夏祭りは何作る?』
初耳だったが、新鮮な予感はしていた。
「作るって……僕が的屋をやるの?」

『そういう事じゃなくて、夏祭りの手料理だよ』

この島では的屋は来ない。その代わり地域ごとにある大広間に皆んな集まって、そこで一人一品、其々の手料理を振る舞うという形らしい。

なんとも見窄らしくて、健気な姿なのか。

「……七瀬は去年何作ったの?」

『確かオムレツ。難しくて見栄えは最悪だったけど、味の評判は良かったから今年もやろっかなって』

「へー、七瀬も意外としっかり考えるんだね」

二人で気怠く、扇風機を使う。

カラカラと出来の悪い音を鳴らして、僕らに風を送る。気持ち良く、気分の悪い。

「………あれ、今日も一実来るんでしょ?」

『うん、確か4時頃って言ってた』

「それまで何しよっか………」

僕らは並んで扇風機の前にだらける。怠け者として夏の亡者より酷く、学生の有意義を昇華出来ない心残りなど、微塵も思わない。

だから今日もいつもの消費される時間を無駄とも感じずに、暑さを凌ぐだけ。

七瀬は僕より間抜けに、口を開けてダラっと。

『………暑い、これじゃあ課題も進まない』

「七瀬に関しては暑さだけの問題じゃないだろ」

『何が分かるの、まだ知り合って3ヶ月ぐらいなのに』

「理解は時間じゃない」

『……なんか〇〇、かずみんみたいな事言う』

視線が夏の熱気に負けて、僕はまだ誰も見ない。

「そうかな?ただのいつもの戯言だよ」

『ちょっと似て来てる』

「………ただの勘違いだって」

最近いつ会ったのか、毎日に近い感覚で会う一実との時間を逐一指を折って数えている方が記憶が狂うだろう。

『てか〇〇は祭りの日もいつものその格好で行くつもりなの?ちょっと弱くない?』

「………だって、らしい格好がねぇからな」

『勿体無いな。年に一度の祭典だよ』

「僕にとっては今のところ島の時間全てが祭典みたいなもんだよ」

『………じゃあさ』

無闇に七瀬は立ち上がり、自分の部屋に続く廊下へ消える。七瀬がいなくなった事で風がより多く、僕の顔目掛けて飛ぶ。

_______数分後、

いなくなってた事さえ、忘れていた僕は

『〇〇、これ着付けしてみてよ………』

その声は後ろの廊下にまだ近いところで、照れと欲張りのちょうど気持ち良い部分を狙って響かせる。


「……う、なんで下着姿なんだよ、てか窓開いてるから!」


七瀬は浴衣の着付けをするために、わざわざ僕の見えるところまで下着だけで来た。洗濯などで見た事のある色だったが、誰かが着れば当然反応してしまう。

『今更そんな反応しなくてもいいじゃん、とりあえず着れるかどうか確認したいだけだから』

純粋は時に、刃物のようだ。


徐に近寄ってくる七瀬の顔は恥ずかしさの色もなく、本心から言ってると分かってしまった。だからこそ、それに耐性のない僕は、流石童貞の対応で、

「分かったから、とりあえず前だけは閉めてくれ」

浴衣をだらんと羽織るだけで、前が開いたままの姿を瞬時に直させて、僕は明後日の方を見ながら帯を持つ。

「……これどうやってやるんだよ」

やった事ない着付けに携帯で調べながら、順番を学ぶ。

「こうやって………ここはこんな感じかな」


『ふふっ……』
綴られたような台詞。

最早合っているのかも分からないと確信出来るが、七瀬は満足気に僕を待つ。さっきまでの立ち姿が脳裏に記憶された僕は、多分目が泳いでる。


「えっーと……これでいいかな?」

最後に帯をキツく締め一息つけて、後ろにいる僕は正座のまま彼女を見上げる。

ひらりと一回転して、余った布を舞わせて。

『どう?』

完成すると七瀬の頬は赤く変わり、
「………わかんねぇ、いつもは誰に着付けしてもらってた?」

『おばあちゃん』

「じゃあ七瀬のおばあちゃんが見たら、笑われそうだな」
僕は痺れた足を忘れて話す。

『そうかな……、十分だと思うよ』

「お前は過大評価し過ぎたよ、完全に素人の跡地だぜ」

『寧ろそれが味だよ。うんサイズもまだ大丈夫、本番も宜しくね』

「大事な祭典ならもっと上手い人に頼んだ方がいいと思うぞ」

『………ううん、〇〇で十分だよ』
吉報がなる口から、僕の心臓に届く迄浅い紫のような景色だったかもしれない。

そんな事言われても、分からない。
「心臓に悪いぜ、さっきの七瀬」

まだ嬉しそうに腕を少し上げて、着飾った自分の姿を楽しむ七瀬を見て、僕も少しだけ嬉しくなった。

そして嬉しくて、もう一度舞う。

『どう、やっぱり可愛い?』

「可愛いけど、やっぱり幼いが似合うかな」
唇を尖らせて怒る七瀬も、

嬉しそうに話す七瀬も、


『もぅ………折角なら素直に褒めてよ』
満更ではない様子だった。いや、多分嬉しいだろう。

誰よりも楽しそうだから。

「二回目の質問なんだから、いいだろ。もう着替えたらどう?本番の楽しみが薄れるよ」

僕も観念して、胡座になる。

『そうだね、まだ2週間あるし』

まだ7月の中盤、

夏の入り口に足を入れた程度の時間で

それを踏まえて僕らは泡ぶく。

これから夏が本格的に始まる。この島の八月は結局暑い。何かに縋れたような熱視線に打たれるような厚着になりそうで、

今日もアルバイトを淡々と熟していく。

七瀬曰く、今年の夏休みの課題は例年に比べて少ない量らしくて、敢えて僕は最初の2週間血眼になって終わらせてみた。

今回は正直ペンだこが綺麗に出来てしまったことは、現代の恥と言うべきか難しい。凝り固まった肩の厚みに解しても、止まらない。

その流れで仕事をすると身体にガタが来そうだったが、若さ由縁の回復に結局疲れを知らないまま生きている。

そういえば、僕はアルバイトを仕事というタイプという少し格好付かない人間だった。

そんな人間は今日も定食を運んで洗うを繰り返して家に帰る。

この店で七瀬と食べた日には初日の初動のまま、店内を楽しんでいたから虚ろのまま覚えてはいなかったが、僕の二倍ぐらいの年齢の夫婦がやっている渋い店だった。

都会から来た僕の怪訝さを疑いもせず、とりあえず仕事をしたい旨を言うだけで理解してくれた。有難い限りで、助かった。


この店は明らかに繁盛している。顔馴染みが当たり前のように訪れる様子は信頼の素直さなのか。

海鳴りすらも横隣で感じる店に、何人も屈強な島の住人たちがズラズラと入り、たちまち店は賑わいを見せていく。

僕は若いという利点を少し億劫に思いながら、この島の人たちの当たり前に縋って、生活を続けた。


結局今日も、そういう温かみが溢れる。

___________ある日、

「そういえば〇〇は祭りは行くだろ?」

結局店主に苗字で呼ばれたことは、最初だけだった。今は下の名前を親の立場のようにすらすらと口に出す。僕も正直それぐらいの距離感でちょうど良かった。

「はい、七瀬と一実と行きます」

「それは両手に花だな、あんな美女と一緒に祭りなって」


「そうなんですかね、僕には近過ぎて分からないんですけど」

そう思えば、確かに七瀬と一実は一段飛び抜けている。それは可愛さという簡単な言葉だけでは済まされないほど、可憐な存在という事実が浮かぶ。

他の子供たちも可愛らしいが、高校生という中途半端な大人の格好にそう思う人たちも多いだろう。

「今年の飯は決めたのか?」

「一応何となく、自信ないですけど」

「そんなに身構えるなって、別に喧嘩するわけじゃねぇんだからさ」

「……そうですね、僕も少し緊張してました」

「あ、そうだ。〇〇ちょっと待ってろ」
この店の大黒柱が思い出した様子で、奥に行く。この店は狭いが縦に長い。

言ったら怒られそうだが、本音は仕方ない。

暫くすると戻ってきた。七瀬の時と同様に、何かを持って、駆け下りてきた。

「これこれ、どうせ着るもんねぇだろ」

少し清潔に保たれた浴衣が僕の目の前に差し出された。紺色の落ち着いた色と涼しそうな生地で整っている。


「俺のお古だけど、結構状態がいいからお前にやるよ」

「……いいんですか?」

紺碧の浴衣に高揚しそうで、僕は悶えた。

「七瀬ちゃんと一実ちゃんと行くなら、お前もそれらしく格好付けねえとな。それにこの島にはお前は十分染まっている。これはその証として十分だろ」

まだ信頼出来るほど時間は経過していない。寧ろ浅い理解と慣れだけで進んでいたと過小していた。だからこそ手に持つのが少しだけ臆病に思いながら、

「受け取れよ、だらだらすんな」

「………はい、有難いございます」

何かを兆していた僕は、未来に向けて少しだけ考えた。儚く、尊い想像を浮かべながら、その日を楽しみに考える。

「人生楽しんでこいよ、選択なんて一瞬だ」


多分、僕にはまだ理解出来なかった。


その帰り道、僕は浴衣を紙袋に詰めてもらい、大事に持って歩く。半袖が少しだけ肌寒いと思わせてくれる夜も幸せの起伏が充満して、嬉しく思う月夜を照らす。

ここから数分しかない道程を、店主に言われた反対の速度で、だらだらと歩いていると半透明の格好をした一実と出会った。


畦道をぼーっと立つ彼女は、
[あれ、〇〇じゃん。なんか楽しそうだね]

「お、一実じゃん。ちょっと嬉しいことがあってね」

何ともない顔をしていた。
[何それ、聞かせてよ]

「いずれわかるよ、それまでのお楽しみだね」

ただ、瞬時に切り替わった様子だけは
[いつになったら分かるの?]

「それを言ったら確実に分かる」

僕からも少しだけ見えた。
[それもそうだね、楽しみにしてるよ。浮かれた〇〇を見るのも新鮮だから変に期待出来ちゃうけど]

「……あれ、一実は何していたの?」

[散歩よ、この歳になると意味もない散歩をしたくなるの]

「ババアかよ、嘘くさいな」

[本当よ、男には分からないと思う]
駄作と言える捨て台詞を、僕は感じた。

[ねぇ、一緒に少し歩かない?]


何処からか祭囃子の練習する音が聞こえる。用意周到だが、狭いこの島での音量わ配慮していない鈍感さは滑稽で笑けてくる。

「……もうすぐ夏祭りか、七瀬から聞いた?」

[うん、学校に6時集合でしょ。意外と早いよね]

「あいつ張り切ってんの、この前なんて浴衣着付けしてくれって頼んできてさ」

[着付けしたの?]

「したよ。やった事ないけど、見様見真似で調べながらさ」

[なんだよ、青春してんじゃん]

群青の空から夜の色へと。幻想のような星たちも今日だけは少しだけ休み気味に見えた。

「………なんか楽しみだな」

[私も………]

ゆっくりと星の北から南に、流星が弧を描く。紡がれていく空の景色に一筋の光が、パーっと化粧されていく。

一瞬の煌めきだったが、永遠の絶頂にも感じる。僕らは何か願う隙もないぐらい、見惚れていた。

「じゃあまた」

[うん、多分明後日家に行くよ]

「分かった、それも楽しみにしてるよ」

[なーちゃんに宜しくね]

結構なお手前の手振り。地響きのようなサンダルの叩く音が僕らは二人の足から聞こえる。

告げられた夏の顔は、美しく、綺麗だった。

今日も海鳴りが聞こえて、人波が流れていく。

そして祭りの日、特別がやって来た。



【惜春が燃える】

今日の天気予報では曇のち雨。不運にも神頼みが必要な賭けをしたくなるほど邪魔をしそうな天気に向かって、七瀬は苛つきを打つけていく。


結局お昼頃には曇のち晴れに変わって、さっきまでの喧騒が本当に馬鹿馬鹿しく思い返すと、僕は七瀬の顔を見て笑ってしまう。

七瀬はその苛つきも何処かへ打つけたくなって、僕に再び着付けを頼む。

『ねぇ……浴衣って下に何も着ない方がいいらしいよ』

「漫画の読み過ぎだ。もう少し世の中を疑え」

『面白くない反応、前世は僧侶でしたか?』

「五月蝿い、じっとしてろ」

翳りが落ちて来た夕暮れに近い頃、晴天の輪を焦がして小さく呟く。

その日暮らしになりそうな風の音も今日は弱く、僕は彼女の帯を敢えてキツく絞めて背中を叩く。

「はい、終わり」

『いてっ…………』

優しく身体を押す。終了の合図と共に蹌踉て僕を睨みつける彼女は、僕の格好に疑問がありそうだ。

毒にもならない柔い格好で着付けをしていた僕は、前と同じように正座で痺れてくる。

「よし………そろそろ行くか」

『うん、今日もありがとう』

「もう慣れたよ、結局少し練習しちゃったし。流石に着替えてくるから、外で待ってて」

完成した華やかな彼女の姿を正面から見ることなく、そのまま自部屋に行く。

『………可愛くなかったかな』

僕はこの島の匂いが優しく付いた浴衣を取り出して、大事に身体を通す。自分で着てみる浴衣も案外過ごしやすくて、柄含めて深く好きになりそうだった。

「………お待たせ」

下駄のカラカラとした音が僕から鳴ると、玄関で待ってる七瀬に向かって、楽しそうな顔を見せていた。不覚にも僕はワクワクしていた。

唖然と、夏の静寂が僕らを包む。
『あれ………その格好って』

「知り合いが貸してくれてね、どう?」

『なんていうか、似合うよ』

「そうかぁ……良かった」


安堵したのは、僕だけか。
「七瀬も、綺麗だね」

『…………ありがとう』

「じゃあ、行こっか」
二足の草鞋が揺れたわけではない。

僕らは手を繋ぐことなく、夏に揺れながら目的地まで歩く。気前のいい七瀬の指は気付いたら僕の袖を掴んでいた。

重い感覚だけ僕の軸のズレで気付く。そういえば、七瀬の髪も洒落ていた。多分僕が彼氏だった指摘しなくてはいけなかったかもしれない。

後で言おう、それだけ胸に仕舞って一実の家まで無言で歩いた。緊張か、疑いか、丁度いい塩梅のない時間に、少しだけ苦戦する。

[あ、来た]

七瀬と同じように綺麗に装飾された一実も、僕らの前で蝶のようにひらひらと舞う。

『………かずみん可愛い』

[なーちゃんも可愛いよ……って〇〇も浴衣?]

「借りられてね、なんか僕だけ渋いね」

いつものように下を向きながら、皮肉は暑さに消えそうな弱さで、僕は不意に一実の目を見る。


いつもより、大きいと思った。それは普段が小さいという悪口にも聞こえるが、浴衣が見せる蜃気楼のような効果が影響しているのか。

それとも純粋な一実を見て、照れた僕の化学反応なのか。口に出したくない思いが、やけに騒つく。

[え、格好良いよ。お世辞でもなく本心で]

「ありがとう…」

七瀬の指はまだ絡んだまま、僕の身体の少しだけ前の位置に移動する。僕らは安易に交わってしまった。

[もうすぐ始まるよ、急ごう]

気付けば時間を堪能していたらしい。僕らは少しだけ早歩きで会場へ急ぐ。ずりずりと響く三人の足音は門出に近い、逞しい汽笛に。

一実の家からも数分掛かる場所に歩き慣れない格好の三人がゆっくりやってきた。既に会場には数十人がぞろぞろと、各地で挨拶が宙を舞う。

僕らは顔見知りに挨拶を交わしながら僕ら二人専用の椅子に座り、自分たちの料理の包みを開ける。

『……〇〇は何作ったの?』

「塩っぱいものが好まれるって聞いたから、塩辛」

『いいね、ななが独占しそう』

「七瀬は今年もオムレツ?」

『今年はデミグラス付き』

「………お洒落だな」

『今食べる?』

一実は高山親戚の椅子に座り、後で合流するつもりだ。こういう時の親戚付き合いは蔑ろにしてはいけないと七瀬のおばあちゃんから聞いた。

「そうしよっか」

大机に置かれている乱雑な紙皿と箸を二つずつ取って僕らは風呂敷を広げるみたいに、

“頂きます”

会場は僕らが来た時にはアルコールや豪遊の後もちらほらとあった。この島の人達は楽しむのが早い。

僕らも負けじと二人で食べる。
『……自分でも上出来』

「僕も食べたい」

『じゃあ、はい』
向けられた箸をゆっくりと口に入れる。オムレツに箸の相性は悪く、少ししか食べれてない。

ただ口に入れた瞬間、一種の感動が舞い上がってきた。
「ん、七瀬がこれ作ったの?全然美味しいじゃん」

 

『やった、〇〇のも食べる。うん相変わらず美味しい』

「これで一安心だ………」

暗渠に包まれそうな会場は薄らと祭囃子が流れて、その数分後には一実も合流する。

僕らは他愛もない料理の数々を順々に手を出す。鍛錬な島の料理人たちは豪華な品々を一覧に並べて、僕らは飽きずに楽しめた。

偉そうだが会話もろくにせず、ただ食べていたことは事実だった。

紙皿で遠くの料理を取ってこようとすると、無言の七瀬が皿だけを前に出して、僕に行けと言わんばかりの顔で顔を動かす。

渋々行くと古風な盆踊りが始まっていた。

東京でも見た、普遍的な踊り。

それでも楽しそうに舞う島の人たちが僕には鮮明に見えた。

———————素敵だ、ただそう想って

僕は見惚れていた。

すると、

[盆踊りは初めて見るの?]

気付くと七瀬を置いて、一実が僕の隣にいた。
紙皿を二つ持って立ち尽くす僕は、

「いや、素敵だなって」


[〇〇って時々いきなり童心に帰るよね]

「この気持ちが好きなだけかもね。何かに見惚れて、縋るこの気持ちが」

[………やってくれば?]

と一実が言うと、僕の腕を引っ張って、櫓の周りを円として人たちの輪の中に二人で入る。

また見様見真似で、僕は一実の後ろをだらだらと踊る。不格好で正しくない踊りだった。一実の華奢な動きには、到底勝てない。

それでも楽しさを躍動させようと、

無我夢中で身体の熱を任せながら、二人仲良く踊っていた。

その時間は普通で、普遍的な

奇跡のような_________

 


数分間は誰のことも気にせず、不屈の雑草根性で踊っていた。不器用ながらに舞おうと努力することに不慣れで、それでも喰い付こうと掴む。

僕らは事前にセットしていた髪も流れて、不格好を極めていく。だからこそ時間を忘れて、潤動しようと、楽しんでいた。

[そろそろやめよっか]
一実の手をまた引かれて、輪から外れていく。

普段使わない筋肉を使うほど激しい運動では無いが、漸次的になってきた身体は少し重くなる。

「疲れた………暑い」

懐にある扇子を広げて、風を煽る。
[私も頂戴……いい風だね]

風を浴びるために髪を揺らしながら、僕の真隣に位置して、抱くような近さで

僕らはまた隠れて静観する。

時間を見ると、もう夜更になっている。
[そろそろ花火の時間だ……]

「結構大きいの上がるんでしょ?」

[そう、毎年そこだけは有名になるからね]

三人で見る。その当たり前だけ理解していたが、その場所に二人しかいない違和感は此処で発動される。

誰かいないことに気付いて、探す
「………あれ、七瀬は?」

[いないね……どこ行ったんだろう]
辺りを見渡してもその顔はいなかった。

櫓の周りには僕らの知っている人が多く集まっている。ただそれでも七瀬のことを気にしている人なんていなかった。

僕らの席にいたはずの七瀬は忽然といなくなり、もぬけの殻となって風が吹いた。

嫌な予感というのは、最悪の幻想を思い浮かべた時に上映される。僕はその勘に気付いて、

「………ちょっと探してくるねっ!」

[うん、わかった]

会場の周りには山が囲っている。とりあえず見回しても、確認することは難しいほど、空の雲行きは落ちていた。

辺りを少しだけ歩き始める。まだ舗装された道を抜けても徐々に不安は過ぎる。


僕は嫌だった。そんな娯楽アニメのような展開に必死になる必要もなかったが、存在自体を掴んでいたかった。


僕は走りながら、七瀬を探していた。

「ハァ………七瀬…何処だよ……」

生茂る草木を掻き分けて、荒く尖った道を草履だけで突き進む。躍動された心の行末に身を任せて、溜息と呼吸が入り乱れる。


無情に悲しかったかもしれない。目の前で誰かがいなくなる寂しさを胸の中に重ねて、勝手に苦しくなる。誰か、誰かと叫びながら僕はまた走る。


願いながら走ることに、
血を賭けても見つけたかった。

その名前をまた呼ぶ時には、

「もしかして………」

僕は港に近い、僕の家まで駆け巡った。

息が殺されて、切れそうな下駄の紐も

滴る汗の格好悪さもそのままに、

「………ハァハァ、七瀬!」

いつもの家にいた。

『〇〇…………』

大人に付けられたアルコールの匂いが消えるぐらいの疾走を、人波を掻き分けて戻る。


七瀬は家の外にある椅子に座りながら、空を見ていた。いつも僕がしていた更けるような姿にそっくりだった。
『〇〇、かずみんは………』

「………そんな事はいい!」

梟すら鳴きそうな夜に、僕は七瀬を抱き締める。

安堵は暗礁から僕らの灯籠に、身を乗り上げて照らしていく。薄らと当たる頬には七瀬の水滴がわかる。

『〇〇っ………どうしたの?』

「心配したんだぞ………勝手にいなくなるなよっ」

『………ごめん』

雲が消えたようだ。快晴の夜空には雨の翳りすら晴れていて、僕らの影がよく見える。

———————ゆっくりと僕は撫でる。

いや、気付いたら僕の方が顔を埋めていた。

その温かみに分かった途端、切れた息を戻そうとせず抱き締める。

『…………〇〇…泣いてるの?』

「うん……………」

昔の旧友はよく映画を勧めてくれた。よく笑えるとかハラハラするとか、そんな感情を揺さぶろうとする魂胆を見せながら、僕に勧めていた。

僕は律儀に紹介された作品を見てみた。確かに感動するし、確かに笑った。心の底から楽しんでいた。

ただ涙を流したことは無かった。


僕は無感情なのかと、悩む手前までいきそうだったが、ただの涙線の栓が硬いだけの男と解決していた。


今はそんなこと忘れるぐらい、泣いていた。

嗚咽するような泣き方ではなく、悲しみの想像から解放された安堵の色に、僕はスルスルと彼女の体を締めていく。


「なんでだろうね……七瀬がいたことに嬉しくなったのかも」

ただ小っ恥ずかしい思いは相変わらず、建前と混在していた。それだけは譲れないところなのかもしれない。

『……ごめんね、何も言わずにいなくなって』


「いいよ………そこにいてくれたから」

華が咲くような光が空を駆け巡る。

僕の背中から走った跡のように、強く輝いて

『………〇〇、花火だよ』


それでも僕は七瀬越しに見る必要も、離れて見る必要も感じなかった。

「このままで居させて………」

『うん…………そうだね』


『………今年も綺麗だな』

僕越しに見えている七瀬な一度顔を上げてから、またゆっくりと埋めていく。

もう枯れた涙の跡を誰かに押し付けようと、何度も位置を変えてその温もりを確かめて。


—————————僕らの夏は終わった。

結局玉屋と叫ぶつもりで待っていた花火の景色を見る事もなく、僕らはこのまま一実を置いて家にいた。

祭りが終わりの時間になると、島全体に放送が流れる。その合図を皮切りに僕らは衣装を変える。


いつも服になるために、また七瀬の浴衣を脱がして綺麗に畳んでいく。来年も着れるように大事に折りながら、七瀬の部屋に保管した。


僕は少しだけ寂しく思いながら、後日店主に返した。洗い方もわからなかったので、そのまま返した事は少しだけ怒られた。


そういえば下駄のまま走っていた僕はその日の風呂場は苦戦した。血だらけになった足の指に滲みる風呂の湯が苦しくて、結局七瀬が手当てをして、完治するまで仕事を休んだ。


8月もう後半になる。

秋は顔を出すのがいつも遅い。

僕らは夏の風物詩を楽しみながら、またいつの間に秋になったことも知らずに秋を過ごすだろう。そして僕らはまた秋に再会した。




【秋の日、余韻が絶つ風】

こんなにも秋の入り口を寒いと思った事は、17年間で初めてだった。

恐らく最初の6年ほどの記憶なんて、あってて無いようなものだが、今年は特に涼しいをゆうに超えて寒く感じる。


極東との勘違いが出来る、その煩わしい季節は夏の残り火を落として過ぎ去っていく。


どうせ、夏よりはあっという間に思うのだろうと、この季節に対して特別な感情なんて抱いてなかった。


芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋

全て人間の必要欲を全て付け足したような言葉に感じて、今年の秋もぞんざいに扱うであろうと踏んでいたのも束の間、


気分屋の母から連絡があった。
“旅行券余ってるから、どっかで使ってきて”

高2の思春期真っ只中の男子に奔放な提案だけを残して、また返信がばったりと返ってこなくなった。

仕事の都合で手に入れた全国に系列を持つ宿の宿泊券を母は僕のところにメールと一緒に送ってきた。

僕はどうしようと考えた。昔から旅行という遊びには少し無頓着のまま、この年まで生きてきた。母の仕事の都合上、旅行に行く機会も少なく、僕もそれほど熱が帯びないまま成長してしまった。

此処に来て急な旅行への熱を上げなくてはいけなくなり、少しだけ落ち着きがなくなる。

島の学校自体、この秋には連休も多く、予定表を見ても隙が多くある。部活も入っていない僕にとっては最適な隙間とも言える。

とりあえずリビングでこの島から近そうな観光地が記載されているサイトを覗く。絶景にするか郷土料理に染めるか、僕には分からないところもあった。


だからとりあえず雑踏の中の一番上から、順々に塗り潰していく。判断材旅が少ないのか、これという踏み切った決定が出せない。

今日もだらだらと眺めていると、七瀬は僕の険しい顔を見逃さなかった。

もう完全に肌寒くなってきた時間、僕はまたパソコンと睨めっこを繰り返している。

『………〇〇、何してんの?』

「旅行どうしよっかなって………」

『え、旅行行くんだ…』

「母が行ってこいってさ、その場所を決めようと悩んでいるんだけど」

『何に迷ってるの?』

「全部だね、あんまり遠出したことないから何処にするべきか分からなくて」

『ふーーーん………」


なんだろう、七瀬は何を考えてるんだろう。
その時は、七瀬が今から提案する事を微塵頭の中に膨らませていなかった。

それは不自然はよがり方かもしれないが、僕には旅行を楽しむ余裕はあまりなかった気がする。


『ねぇ、私も行っていい?』

「………は?…いや、多分ダメだろう」

『何で?』

「僕は親からの許可を得て行くけど、君は誰の許可も降りてないじゃないか」

『じゃあ許可降りたらいいの?』

「………まあ、それならいいけど」

『分かった…』

その一言を残すと、七瀬は家を出た。投げるような態度になって僕を置いて行った。

この時代の人間は、少しだけブルーライトに抗体がある。薄暗い部屋の中で何時間もパソコンを見ていても、目は萎まないし疲れない。

僕は余力が残っているうちに、まだまだ根強く閲覧を重ねる。そうしているうちに、七瀬が何処からか帰ってきた。


玄関でバタバタと音を立てて、また僕のところまで向かってくる。強い音が段々と近くなるのが、少しだけ怖く恐ろしかった。

『…………ねぇ、〇〇』

「はい?」

『行って大丈夫だって』

向かい側の椅子に座らず、僕は見上げると恐らく返答を用意してきたのだろう。ただ僕はすぐ理解出来るほど、冷静な頭ではなかった。

「…………は?」

『さっきおばあちゃんに確認してきた。〇〇が一緒にいるなら大丈夫だって』

「嘘だろ……」

「〇〇君も一緒に行くんでしょ?。それなら多分無事に帰ってこれるし、私たちが七瀬を旅行に連れて行く機会なんて少ないから、この機会にもし良ければ七瀬をお願いします」

おばあちゃんは過保護だと思っていたが、少し放任して僕に託してきた。嘘だと思い、確認の連絡を入れたが、本当に了承を貰って来た。


『………私も行くからさ、何処にする?』

「金とか大丈夫なの?」

『意外と貯金してるから安心して』

用意周到な七瀬からはもう逃れる術はないだろう。とりあえずこの時点で二人で行く事は確定してしまった。

「じゃあ二人で行こっか……」

『楽しみだね』

食い気味すぎて、僕に言葉を言う隙間がなかった。憂さ晴らしのような旅行の約束は、あまりに強引だったが、嬉しくない訳でもない。

僕も結局、七瀬に甘い島の人間という事だ。


「じゃあ好きな行き先決めといて、僕には行きたいところが特にないから、七瀬のお勧めでもいいから」

そう言って僕はリビングを抜けた。

少し緊張で火照った身体を、緩く夜風で補綴させようとする。

この島の風は誰にも優しい。傷付いている時や何かに煽られた時には程よい塩梅となって、冷ましてくれる。

そういえば僕はもう一度連絡しなきゃいけない人がいた。その人に向かって夏の後処理をするべく、また夜道を歩く。


“今家の近くを散歩してるんだけど、会えない?”

この頃には頬は冷たく、それでも感情の波は伝っていく。僕の視線から見える風と星にも、純粋な気持ちが揺蕩って、

[私を呼ぶなんて、珍しいね]

「意外と早かったね」

[一応入浴後だよ、労って欲しいけどね]

「それはタイミングが悪かったな」

[いいって……今更気を遣われても]

細波から虫の囀りまで、恐ろしく細かい音の性格によって、一実の家の前にある公園で腰を下ろす。

懐かしい遊具が並ぶ公園。時代の影響で撤去され続けた公園たちの太陽は、この島が最適だろう。

僕らは一斉に並んで座る。”よっこいしょ”と言ってしまう単純な僕らは、意外と近かった。


少しだけ間が空いて、魔が刺したように一実は優しさで僕に話しかけてくれる。出会った頃を変わらない、優しさで。


[で、どうしたの。なんか用があるんでしょ?]

「……今度七瀬と旅行行くことになってね。一実の為にお土産買ってくるっていう報告」

[何それ、学校でも言えるじゃん]

「多分七瀬は学校では言わないから、意外と隠したがるし」

[そうね、私も意外となーちゃんのこと知らないかも]

知らない事は罪なのか、無知が齎す奇跡とは案外馬鹿馬鹿しいのか。

「………ごめんな、」

[それは何についての謝罪?]

「祭りの時、七瀬を優先して」

[…………今更そんな事を気にするの?]

「僕にとっては、大きい痼りだよ」

[大丈夫だよ、なーちゃんも無事だったんだし]

「そういうことじゃなくて、」

まだ夏は執拗に影を見せる。現に夜は少し寒いと思って着込んでも、朝には燦々と照りつく太陽によって汗ばむ日もある。

「一実のことも、もう少し考えてれば良かった」

[何それ………何でそんな事で〇〇が落ち込むのよ]

「………何だろうな、多分不安なんだよ、糸が切れそうになる関係性になることに」

一実の口は閉じていく。何かを言おうとした一言すら飲み込んで、考えるわけでもなく黙って、この島を感じる。

[私はそんなことしないよ、置いて行かれたからってこの三人の関係を辞めるなんて]

「………そうじゃないんだよ」

此処で何をいうべきか、既に迷いが溢れ出る。

それでも賢明に、正しさだけでは判断出来ない、僕の気持ちを言いたかったんだ。

「僕ね、七瀬が好きなんだ」

[…………知ってるよ、〇〇が七瀬を好きなことぐらい]

「そっかぁ」

単純だ、それも阿呆の所業だ。

[じゃあ告白でもするの?]

「……どうだろう、多分しないと思う」

[なーちゃんも〇〇のこと好きそうだけど、そういう不安っていうわけじゃないの?]

「彼奴の好意は、家族愛みたいな物さ。僕も突発的に好きという言葉を使ってるけど、これは恐らく恋愛っていう意味じゃないと思ってる」

[ちょっと格好つけ過ぎじゃない?]

「そうかな、素直にした方なんだけどね」


本意に向かって話したかった。

格好付けた言葉でも、真意は伝わる。

「一実、僕は白黒つけれないまま、一実とまた会うかもしれない。それでも許せる?」

弱過ぎる。女々しくて、やり切れない。

刹那の中、僕は尋ねた。

[また安易な言葉……]

それは今出るべき返答ではない。

だからこそ、今聞きたかった。


[私は許すよ、そんなダメな〇〇でも]

さよならが似合う夜。躊躇するべき気持ちも臆せずに、僕らは彷徨う。

[…………ただ次は楽しみにしてるよ、〇〇の本音が変わる時を]


まだ半年、僕らが出会った時間はとても短い。一人の人生単位で考えたら、取るに足らない距離だ。

「じゃあ待ってて、しっかりと言うから」

出逢う運命には明確な線路が必要だ。それを忘れない為にも、過去以外のハッキリとした文字が見える必要がある。


[………疲れたから帰るね、お土産楽しみにしてるね]

「分かった。とっておきを買ってくるよ」

[せめて恥ずかしいものはやめてよね]

耐え難い気持ちを抑えて、一実は消える。

僕から見える後ろ姿は勇猛果敢な選手ではなく、一人の女性だった。とても文学的で知的な言葉を発する彼女とは想像付かない、

険しく、雁字搦めな背中だった。

結局そんな長い距離を歩かずに、また家に帰る。気付くと七瀬が寝る時間になりそうだった。

そんな長い時間まで更けていたと思うと、僕はまだまだ弱いコンピューターなのかと落胆も辞さない。





そしてすっかり秋になって僕らは歩く。


特別を経験すると、多岐に渡る違和感が強く残る。

京都はまさにその”特別”を普段に作り替えたような場所だ。実際は変わってしまった日本文化と文明の両立が京都の場合、風情に重きを置いてる。


日本の毒に近い都会の濁りは京都に来るだけで新鮮に思えて、真新しい景色に囲まれて些か疑問も生まれる。

『そうだ、京都へ行こう』

七瀬が言い出した旅の行き先は、こんな感じで節操ない雰囲気だった。


幸いにも宿泊券が使える宿が京都で見つかり、僕らの行き先は案外すんなり決まった。

京都に行って何をするのかは正直考える暇なく、一週間後の行くという乱暴な旅となった。


とりあえず行き先さえ決まってしまえば、道中で決めるのも乙なもの。僕らはとりあえず修学旅行のような旅ではなく、あくまでも癒しを目的に決めた。

七瀬が感じたいのは島では感じられない風情。それだけで少しだけ安心して、僕の中の空気が抜けそうだった。

そうと決まれば、僕らは毎日を消費するだけの時間が始まった。七瀬は今から荷造りを始めて、一泊しかしない分の楽しみを小さい鞄に詰め込んだ。

『温泉卵食べたい』

恐らく夕食か朝食で食べれるであろう食材を、今から待ち侘びている様子に、その待ち遠しさが僕にも伝わってきた。

秋の学校は少し忙しない。高2である忠実さを忘れがちになっても、隙間が急に現れてくるのが不思議と面白い。

そんな時は旅行のことを考えて、時間を無下にしていくことが、僕らの得策でもあった。

そして、僕らは旅立つ日に起きる。

島を抜けるための船と京都に行くための新幹線を続けて乗る。この島に来た日を思い出すような工程だったが、連続的な旅の抑揚は相変わらずワクワクする。

「七瀬って新幹線は乗ったことあるの?」

『……ないかも。普通の電車すらどうやるか分からない』

「じゃあ今の七瀬は無人駅なら一人だと無理だね」

『今は〇〇がいるから大丈夫。頼りにしてるよ』

僕らは1日に数本しか出ない船に乗る。七瀬は全てが新しい体験として、記憶しそうな表情を逐一してくるのが、僕は嬉しかった。

「……さぁ、次は新幹線だ」


黒渦を抜けて、潮の匂いを飛ばして僕らは新幹線を待つ。周りの人たちが当たり前のように駅弁当を買う様子に七瀬も真似をしたくなっていた。

「…………じゃあこの弁当二つお願いします」

二人並んだ席で、一人だけの食事は少し可哀想に思えて僕も買う。


僕自身も久しぶりの新幹線に、七瀬がいる手前格好をつけたくなるが、慌ただしい表層をそのままに僕らは席に着く。

弁当を広げて、物語を動かす。

まだ昼頃、もうすぐトンネルを抜けて世界が広がる。


『………寝ていい?』

「いいよ、着いたら起こすから」

定番だったが、七瀬の頭は僕に乗る。今空いている右手を七瀬の方に向けたかったが、一瞬の隙間が嫌だった。

だからこそ隙間を使って、僕は静かに一人で腕を組んだ。

そして気付けば、空が広がり街が見える。

その空は何度見ても、よく分からない色をしていた。そもそも色と呼べる代物なのか、血色が悪いと言ったほうが僕らの旅路を邪魔するような不運には見舞われないだろう。

「…………あと数分か…」

切符に書かれている目的地まで、足を落とすことのない駅たちを見ると自分の位置がある程度わかる。

そして僕はそっと、彼女を起こすことにした。

「七瀬、着いたよ?」

『…………早くない?』

「それでも結構寝ていたけどね」

擦っては、彷徨く視線が気になる。またゆっくり閉じようとする瞼を僕は抑えて、意識を起こす。


「ほらっ………起きて、すぐに宿なんだからそこでゆっくり出来るでしょ」

そして改札を出ると、また都会とは違う景色になる。古民家の多い島に慣れた僕らはに映る建物の風情は凛々しくて、古風の威厳を見せる。

「なんかタイムスリップしたみたいだね……」

『駅の近くでこの景色なら、観光地はもっと凄そうだね』

「とりあえず宿行こっか」

『うん、お腹空いた』

舞い降りた土地の地面に覚束ないまま、僕らは千鳥足で宿に着く。チェックインしようとフロントに行くと周りには僕らのような餓鬼はあまりいない。

少し浮いた僕らが貰った部屋の鍵は、重く赤い簪のようだった。硝子張りのエレベーターに乗り、不器用ながら鍵を使って入る。

『…………広っ』

二人には十分過ぎる、檜の柱と香ばしい畳の一室と、大きい一枚板の机に僕は似合わない姿で近づく。

七瀬は荷物を下ろして、窓から見える景色を見下ろす。壮観な光景から自然体の日本文化に取り込まれた建物の羅列が目に入る。

すると僕は近くに扉を見つける。軽快な扉の開けると和には相反する洋室があった。

「ねぇねぇ七瀬、こっち来てよ」

『……ん?』


窓から離れて浴衣を整理していた七瀬を手招きして呼ぶと、

『あ、ベッド!!』

まだ高校生のガキンチョがベッドを見つけて飛び込む。深く沈んで、周りの掛け布団が宙を舞う。


「おい、小学生じゃないんだから」

『〇〇もやってみな、気持ち良いから』

「…………じゃあ、えぃっ!」

七瀬が沈んでいる所に無神経に飛び込んでみる。僕の少し高揚とした表情と危機感から着地点から少し身体を回して、僕から逃げる。


『どう?』

「…………このベッド気持ち良い」

この後の食事を忘れて、僕らは汚い身体で布団で遊ぶ。

『………ご飯はもうすぐでしょ?』

「うん、でもその前に風呂に入ろうよ」


僕から少し離れた所からまた身体を回して、ゆっくりと近づいてくる。沈んだ身体に落ちるように僕の身体の肩に頭を置く。

『……部屋風呂が良かった?』

「馬鹿言うな、そういう関係じゃないだろ」

口は災いの元なら、今日は夢の汗のようだった。

『そうね、もし今の〇〇なら危険そうだ』

「そういう目で見ていたのかよ」

僕らの期待のない会話には、夢も希望も水のように当たり前で、空気のように必要だった。

「……よし、風呂行くか」

もう既に下着には見慣れていた僕でも、この旅行の息だと恥ずかしくて火が出るかもしれない。

ただ一旦離れて扉をしても、隙間から七瀬が見える。

ただ見たとしても、燃え上がるような気持ちも興奮も正直薄い。綺麗な女子を横に安易に口にするべきではないかもしれないが、本音ではそうなっている。

それを野暮に考えると、僕は今どういう存在と隣にいるのか。誰と旅行をしているのか自問自答をしたくて堪らない。

巡り廻る存在の確認にありふれている朝顔のような機微の血色が、千本の針を剥き出しにして咎めていく。

答えの出ない頭の中の苦しみは、いずれ悩みになる。

今はまだそんなこと考えない方が、七瀬の為でもありそうだった。そんなことをまた馬鹿なりに巡らせていると、

『…………着替え終わったよ』

「はーい」

『じゃあ一旦出て』

扉からひょこっと顔を出した七瀬の可愛さには触れようとせず、僕は自分の浴衣を取って着替え始める。スルスルと抜け落ちる服の温もりから逃れるように、夏に来た浴衣とはまた風情が異なった、秋の世直しのような浴衣を着る。


それから瞬間は、まるでストロボのように煌めいた視界が続いた。僕らは夢の中で浮遊しているみたいな現実と忘れそうになる儚ない禍根がもやもやしながら、突き進んでいく。

夢であれと、願いもしようとすると、原始的で忌憚に七瀬の声が大地へと呼び戻していく。


『お待たせ』

「やっぱり七瀬は長いね、結構待ったよ」

『予想してたんなら、もっと入れば良かったのに』

「長湯は苦手なのよ。これでも僕としては耐えた方だったんだけど、普段通り七瀬は長かった」

火照る頬の暖かさが目に染みて、僕の昇っていく気持ちも追随していく。


汗が寂寞として身体を正直に写すと、僕は隠れたくなってタオルで顔を隠す。弛れる七瀬の視線は僕を跨いで、一つしかない僕の隣に来る。

風呂場前の狭い長椅子に、対合して筆箱のようにきっちりと収まっていく。

『…………ん?』

気付いたら、見ていた僕の顔を何事と覗く七瀬も、普段の七瀬と変わらず美しかったのを覚えている。

「いや………何でもない」

ありふれた瞬間だろう、色んなドラマや娯楽作品でこういう光景は見てきた。家事のながら見に蓄積はこういう風に結果として現れる。


僕は矢鱈に手で扇ぐ、冷ましたい高揚を整えようと躍起になって。

「熱いな………この後すぐ晩ご飯だけど、大丈夫?」

『うん、余裕』

この宿では今で聞こえていたような海鳴りと人の喧騒は聞こえて来ない。寧ろに蔑ろにされた静寂が寄り添ってきたように、僕らの耳元に不自然にやって来る。

今日の客数は少し疎らの様子で、よく見れば働いている人の方が多いようにも見える。


何も聞こえて来ない僕らの食卓では、いつもの食事に戻る七瀬の生き様が見れて嬉しい反面もあった。

「…………まだ食べるの?」

『うん、そのつもりだけど』

「そりゃぁ、凄えな」

何回も立ち上がっては好きなメニューを運んでくる。バイキングの思考を十二分に理解している楽しみ方でもあったのが、喉があまり通らない僕でも分かった。


小言で感想を言いそうになる程、幸せの笑みを溢れさせては、満足の一端を滑らせてまた立ち上がっては取りに行く。

その繰り返しが僕には少しだけ恐怖に覚えて蒼ざめたのはしょうがないと感じて、渋々緑茶を啜る。

『………お腹いっぱい』

「そりゃそうだよ」

部屋で倒れている七瀬は、敷かれていた布団に寝転んで秋を見る。僕からは瞼を落として、苦しんでいるようにも見えるが、なんだか食欲の秋を堪能しているようにも見える。

微光の漂う彼女の満腹感が華のように機嫌の良い色をしていた。

「結局布団敷かれるんだね」

『でもこの方が旅感出るよね。ななはこっちの方がいい』

目を閉じながら僕らは遠くに会話する。窓側に設置された椅子に腰掛けた僕の声は、七瀬に届いているのか。


甚だ疑問にも思うが、純粋に邪な槍を入れる必要もないと総括出来る状態であったのは、僕自身が旅に満喫しているからだろう。

「………そのまま寝るなよ、せめて歯磨きはしないと」

『親みたいで嫌だーー』

「今となっては友達兼親みたいな所あるだろ」

『…………ねぇ…〇〇?』

「ん?」

『ちょっと隣来てよ』

そういえば、この間七瀬の浴衣を見た時、僕は七瀬を満足出来るような返答は出来たのだろうか。

機嫌を取るような返答ではなく、誰もが正解と言えるような、至高の言葉を。

「………はいはい」


二つの布団の上に跨いで寝ている七瀬に向かって、汚すなと言うべきかもしれなかったが、今は僕も汚したくなっていた。

「こうすりゃいい?」

『うん………はぁ、幸せ』

「そうだな、こんな贅沢を高2で経験してるんだから」


『そうじゃなくて………』

夜風は厭悪の険しい色を、僕らにゆっくりと堕としていく。

『〇〇がこの島に来てくれて、なな幸せ』

誰がこの人生を決めたのか。恐らく十中八九僕と答えるのが正しいだろう。この島に来る選択も七瀬と住む選択も一実と出会う選択も。

僕らは進んで自らこの運命を作った。


華は枯れるしか未来がない。

『〇〇と友達になれて、本当に幸せ』
そうならば人間も多分、同じだろう。

『〇〇、有難う』


「………今更なんだよ」

正直になることを辞めたのは、この日だけど過信しても僕は責められない。そう思うと一実に怒られそうだ。

だから僕は悟られないような強い語気で、逃げるしか方法はないと直感してしまった。


こうやって人間は涸れていくのか。吉報がけたたましく音が鳴り、高く頭上を通り過ぎる気がした。気がしただけで済んで良かったのかもしれない。

「僕もだよ、ありがとう七瀬」


『…………さぁ、もう一回風呂入ってこよう』

「あ、待って、僕も行きたい」

『女子は長湯なんでしょー待たないー』

「なんで急に憎たらしくなるんだ…」

恬淡な時間は僕らの気持ちをまた無理に押し上げる。この場合”敷衍”の方が格好良いのかもしれない。

ある意味負けた僕にとって、今形容できる言葉は、強く逞しい存在でなくてはならない。

そう願いながら、僕らの旅は汽笛を鳴らして。

「………旅が終わったね」

『毎年行きたいぐらい楽しかった』

「お金が貯まったらね。てか一実のお土産これで大丈夫かな?」

『何、ななのセンスじゃダメ?』


またこうやって僕は次の約束を作れる。

秋の終わりはまだまだ先だが、運命の糸口は早く創れそうと必定的に思える。


“一実、今から会えない?”
この日は長かった。



【蜜柑と青春】

空には巻積雲が靡いている。

それだけこの世界は、結局秋も忘れてはいない。

何回経っても、僕は一人に慣れているつもりなんだろう。いつも親のいない環境に自信に沈み切っていた感情の沼について、盲目を重ねることに楽しんでいた。

今まで僕がしてきた孤独の時間は偽りというわけでもないが、真実に忠実で史実に確信がある本音というわけでもない。

真新しい秋の仕草には、夏以上に親しんだ身体が別れを拒む。結局今は温度も下がり、肌寒いが死んで、普通の寒さへと変貌を遂げていた。


結局僕らは少しだけ羽織って、夕方にまた出会う。


[………こうやって〇〇から呼ばれるの、何回あっても新鮮だよ]

「そうか?僕はそんなに冷めた人間に見えるのかな」

また公園の前で、旅行から帰ってきた数日後に一実と会った。

秋らしい落ち葉のせいで、この島はものの見事に寂しくなる。茜色に落ち着く景色に慣れた直後にこうなってしまっては、風情も薄れいってしまう。

このまた看過されそうな景色に僕の視線はいつまでも下を向く。

わざわざ場所を選んで咲いた花のように、僕は未だに図々しいのかもしれない。

[これ、お土産?]

「……そうそう、七瀬センスだけど、良かったら」

[有難う……]


擦り寄ってきた一実に頼りない紙袋を渡すと、この前に起きた旅の残り香がやはり脳を揺らす。なんだか辛いような、幸福が似合いそうな。

[普通の焼き菓子じゃん、本当に高2のセンスなの?]

「あいつは敢えて気を衒ってるからね、でもあともう一つは……」


[………?]

その紙袋には焼き菓子以外に、随分と場所を陣取る何かが潜んでいた。落胤のような出立ちにも見える姿に恐れ慄く一実に向かって、

「なんか一実の誕生日の石らしい。よくそういう物はサービスエリアとかで見かけるけど、そんな物置かなそうな宿にあったから……」


2月8日を僕はとりあえず覚えていた。

それだけだった。

それだけに特別を込めたくて、

野暮を押し込めたくて。


[………〇〇も案外気を衒ってるよ]

それを見た一実は、隙間の多そうな石を大事に持って微笑んでいた。僕には見えるように隠して、頬を上げていた。

「おい、笑うなよ。結構真剣に選んだのに」

[ごめんごめん、さっきから〇〇らしくなくて]


独自の感性という一言で片付けるのは簡単だ。ただ僕は、それを大雑把に笑うのだけは違うと抗議したかった。

[ねぇねぇ、なんで顔赤いの?]

「え、だって…………」

何度も煽る一実に詰まる言葉が、僕の程度の表れだった。


[……〇〇可愛い]

領袖で覆われた一実の顔と恥ずかしい僕の二人に出来た傷は、明らかに何か違う色の血を出して喜んでいた。

「………全く、お土産あげて弄られるなんて、不幸な人生だな」


[そんなことないよ、これは大事に使うから。七瀬に見えるように鞄につけるから]

「なんかそれじゃあ、恥の的みたいじゃないか」

蒼い僕らの秋色は、物語の正鵠さを滲み出している。誰かに注がれたような気持ちが昂ると、嬉しいという感情が一色になっていく。

憐憫の情がつらつらと消えて、有難くなっていく。


そうやって僕らは距離をいつの間にか、

「…………全く、七瀬といい一実といい、相変わらず雑だよな」

[〇〇はそんな感じなんだって、そうじゃなきゃこんなに信頼してないよ]

「それを信頼って言われると、それはそれで辛いな」


やっぱり僕は誰かと一緒にいる方が、どうしても心地が良い。

笑い疲れた僕は、また下を向いていた。

それは一実にも暴露ていたみたいだ。

[…………やっぱり言わなかったの?]


鷹揚に構えていたかったが、

「そうだね、この前言った通りにね」

今日はなんだか、あの日みたい弱くて下らない存在になりたかった。

高飛車な時間の顔から身を背けて、息をして生きたかった。


「…………やっぱり僕は、弱いままかもしれない」

『じゃあこのまま、私と付き合うの?』

「多分、そうした方が僕的には良いかもね。精神的にも運命的にも」

[私も馬鹿だから、許すよ。〇〇がどんな姿であっても]

気の抜けたサイダーとは、今のような僕らを言うだろう。明解な存在からシュワシュワと、曖昧に消えていく。

だからこそ、溌剌とした運命的な言葉で、僕は形容したかったんだ。


「………じゃあ、かずみっ…」

愛してる。そんなことを今言ったって、救われる気持ちがお座なりに死んでいくだけかもしれない。そう思うと今一実が率先して唇をつけている行為に対して、僕は感謝以外を伝えるべきじゃない。

言葉が詰まるぐらいの唇の重なりは、情熱的に変わる瞬間になるまで理解出来なかった。

それでも僕らは熱く、滾るだけで、

苦し紛れの愛情を押し込むような柔らかいキスではないことだけは、一実の顔を見て知った。


そうやって大人になる僕らの上には、冬の準備を始める淡い忙しなさが空の機嫌を物語る。

いつまで経っても残酷な世界に一石を投じたような、一瞬の瞬きに誰も追いついていない。

この島で、幸せなのは自然だけだった。


何時間にも感じた僕らの甘い瞬間を離した途端、我に帰って赤面する。

ただ次出た言葉は案外単純で、救いのある一言だった。

「…………ありがとう」

[いいって、こんな事に感謝しないでしなくても]

「ううん、僕は感謝する………またこういう日が来れるように、感謝するよ」

よくもまあこんな呆れるような本音の言葉をすらすら言えるのか。僕は大馬鹿物だ。

[……私は相変わらず待ってるから]

その愚弄者を思いのまま理解している彼女も、それなりに馬鹿だった。


だから僕らは、また約束をしたんだ。

次の季節に向けて、楽しくなるように。

秋は一瞬だった。

今思えば、どうやっても記憶に残る夏と冬に囲まれた春と秋の瞬間的感覚は小さい。

僕ら三人は結局答えを出さずに、だらだらと過ごしていた。無理答えを出しても、誰も救われずに生きるだけの人生が正直目に見えていたから。

ただ、一実と二人だけでいる時間も増えていた。

なんとなくバイト終わりの時間や朝の散歩に付き添うような形で、二人だけの時間が細かく生まれていった。

今更再度改まって話すことなんてなかったが、今日あった事やそれぞれの趣味に対する話はどうしても盛り上がる。


[〇〇ってこの本読んだことある?]

「ないけど、一実的におすすめなの?]

[そうだね。ここ最近見た中で一番心に刺さった]

「また怖そうな装丁だな、夢に出てきそうだよ」

貸してもらった本には、恋愛が上手くいない男女の縺れが書かれた本。今の僕らには不純な列車が微妙な線路を走りそうな内容だった。

[結構面白いから、読んでみてよ]

「分かった、じゃあまた感想言うね」

そういえば、僕らが照れて物を言う機会は少なくなった。どうしてもそのフィルターが綺麗にしてくれて、世界が美しくなる。

[………〇〇、この後暇?]

「今日は何もないよ」

やっぱり小っ恥ずかしいから、

日向に隠れて一実は言った。
[私の家に来ない?]

そんな僕らに気にもせず、七瀬はいつも温厚で自由の精霊のような、逞ましい笑顔を見せてくれる。

こんな風に、人生を180度変える瞬間が生きている間に不思議とよく出会う。その刹那に惑わされて、正常な判断が間に合わず、貴重な機会を逃すことも絶え間ない瞬間なら人間は許してしまう。

純情の赴くままに、僕らは駆け巡った。それは、好きな本の話をする時と僕らが身体を交わらせる時が同じ感情のように。

解き放たれた瞬間の答えが出たような世界への刺激は、特異の全てを見ているようだった。


お互いプラス同士へと気持ちの矢印が向いていたという、皮肉にも見逃してしまいそうな瞬間から世界は変わる。

恋愛感情という格好の良い言葉で解決できるような二人の心境でもないが、僕らはどういうわけか、違和感なく交われたんだ。


多分、僕と七瀬が曖昧に生きてきたのは知らなかったから。気付かなかった七瀬と無理矢理答えを出そうとした僕の交わることのない矢印の向き。


喉が渇いた、だから一実の家の麦茶は特別に美味しかった記憶が強い。

涙袋に詰め込んだ起伏が凄まじい登り坂は、脳裏を線路に僕らを乗せて上がっていく。


吹けていた僕は事の顛末を、窓に託していた。
[そういえば、なーちゃんには連絡したの?]

遂になる布団の上で頑なに横になる一実とそこに添えようと試みる僕。正直僕の方が彼女を強く抱き締めていたかもしれない。

だから喋ろうとすると僕の息がきめ細かい透明な肌に当たる。

秋はようやく意地悪になって、

「………あ、やべぇ、七瀬に連絡しなきゃ」

僕はより近い距離で話す。


僕が携帯越しで、七瀬に向かって口を出す。一実は携帯を耳に当てる僕に少しだけ指で遊んでくる。

よくある官能的な映像作品ではそういうシチュエーションのシーンが思い浮かぶのは、男の本能の言えば簡単だろう。


「今仕事先で、帰るの少し遅くなる。適当に晩ご飯作っておいて、ごめんね」

拡散される七瀬の声には、いつも通りの疑いのない声が絶え間なく二人だけの空間に響く。

反響しているようにも聞こえる部屋の閑散度合いには、田舎の必然さすら覚えてしまう。


会話を超えると回線の途切れた音が、

[………なーちゃんに嘘ついたね]

「無意識に出ちゃったよね、後で正直に言おうかな」

[何て言うの?]

また響く。

「一実とやっていたけど……って」

[そんな下品な報告やめてよ、するならせめて二人で報告したい]

「畏りすぎるだろ、一応唯一の同級生だぜ」

[そうだけど、家族みたいなもんじゃん]


この島に来るまでの私生活でも親との密接な関わりは少し希薄だった。贅沢は言えないが親の暖かさは感じた事は少ないと思う。

だからこそ、”家族”という言葉には何か変な思い入れが残りそうで、僕は無意識に溜め込んでいたのかもしれない。

踏ん切りをつけれない僕は一緒に暮らしている七瀬を”家族”と認識して、大切な判断を先延ばしにした。

そうして、その”家族”に最も遠い存在である、一実に愛を寄り添ってしまったのかもしれない。


[……寒いから窓閉めていい?]

「うん、てか服着ようぜ」

[いいよ、このままで]

秋は素敵だ。

誰にも縋れようとせずに、健康な指で体を奮い立たせている。

微風が髪を掻き上げて、痒い愛の傷に滲みてくる。だからどうしたと思いながら、また一実の髪を撫でていた。そっと指で引っ掛けるようにして、か細い毛先を少しずつ。


「……もう一回していい?」

[うん、おいで]

窓辺に秋の死臭が込み上げる。他所吹く吐息がゆっくりと、まんじりともせず僕らの畝りを注ぎ立てて、肺を酷使していく。


[………私は〇〇が好き。だから愛してほしい]

風がまた吹いた。朝になりそうな物語の一片には、焦がれた文字の羅列で沢山だった。

「…………ありがとう、一実」


僕らの群青の秋が終わった。


最近彼女との思い出で泣くことが多い。悲しみなんて消え超えて、寂しさなんて凍え生きた。


僕の携帯のアルバムには七瀬との思い出と一実との思い出をしっかりと区分けして保存している。


いつでも愛の行方を見据えるように、僕はポケットにある思い出をぶら下げながら、今日も三人で帰る。

今年の冬は普通になりそうだ。だから僕は普遍という呪縛から解き放たれる為に、締め切った休日の学校に一実を呼び出した。

冬は誰よりも心が冷たい。一度交じり合った僕らの混沌とした想いも、冬になると前進出来なさそうな雰囲気になっていた。

ただ僕はそこで一実に青い言葉を、

素直に伝える事にした。

「僕は一実が………………」


この日も晴れていた。



【冬の日から春の手前へ、哀惜はこの胸に】


「………好きです、付き合ってください」


冬も意外と好きみたいだ。厚着を重ねて格好を楽しめる。二人でいる時には自然と手も絡み合っていく。


一実のマフラーで埋めた頬を僕は赤子を大事にするように撫でていく。寒さに展開された人生の一瞬に有難いと思う日が来るとは、引っ越し前の僕は想像も出来なかったであろう。

典型的な告白の妙など、友達から借りた映画で見たやり方しか知らない。僕はそれを見習って、一実を呼び出して告白をする。


少しロマンチックにかける世界だが、自然の雄大さに肖って告白することは、この島目線からしたら普遍的の1文字目を順繰りと辿るだろう。


此処にも相変わらず寂れた遊具が散乱して、埋め込まれたタイヤの消耗具合で、時代の経過が理解出来る。

[うん、待ってたよ]

この日もいつもの散歩として家を出て、一実と待ち合わせをして意を決した。

冬空に任せる迄に随分と決心の時間は掛かったが、掛かった時間を共有できるほど、弱々しい昔の僕はもういない。

[これからも宜しくお願いします]

こうして抱き合う僕らの門出の汽笛は、七瀬に報告してから鳴らされると思っていた。

だからまだ安堵の園へ踏み込むわけにはいかない。また緊張感が漂いながら、僕は一人で七瀬の元へ向かう。


歩き慣れた道がこんなにも荊棘の光をになってるとは思わなかった。物理的にも軽快さを忘れそうな僕の足取りは、重く硬い。

胡乱な肩の位置から見下ろす僕らの家まで他愛もない時間の経過に少しだけ荷が降りる。だからといってこの緊張感が解けたわけでもなく、結局家に着いた頃には僕の玄関の扉を開けようとする右手の震えで目一杯だった。


言葉を告げることを先延ばしにしたいと心から願いながらも、僕は扉を開けて靴を脱ぐ。


『あれ、お帰り』

いつもの散歩と思っていた七瀬はだらしなく部屋着に身を包み、

「七瀬今ちょっと時間いい?」

僕の重い言葉を少しだけ感じ取った。


『………今から着替えるから、それからね』

リビングで立ち尽くす僕は、抑揚される伸びやかな椅子に向かって腰を下ろす。

『お待たせ』

改めて何かを添えたような七瀬の出立には、冬の趣が見えてくる。


『でどうしたの?』

「………一実と付き合う事になった」

この言葉を言う為に生きてきたような、重々しい空気の中で巡り合う意識を集中させた。無下に願う視線から見据えた事実を、ただ告げるしかない。

『……それはおめでとうだね』

その一言は多分今迄出会った事のない天使のような、人生の福音の形でも思えてしまった。


まだ救いを見出そうとして、もうすぐ昼になりそうなこの時間にも降りそうな言葉の端々を僕を求めようとする。

されど生きて、幸せは変わる。


『一応知っていたんだよ、二人がよく会っていた事』

「……流石七瀬だな」

『もう〇〇がこの家に来て一年が経とうとしてるからね。大体のことは分かっていた』

今日の天気は奇しくも快晴。青々とした空に寒さを塗れそうな色の空気が漂い、僕らを飄々と流していく。この部屋の温度はまた下がり、摩る二の腕から不安が募る。

『かずみんは優しいから、安心して。ななが保証する』

「言われなくても知ってるよ」

『いいね、恋って。二人を見てると羨ましく思うよ』

「無理矢理するもんじゃないよ。願ったって降り落ちてくる物でもないし」

『………今日は私が晩ご飯作る』

「いいの?」

『うん、二人の祝い』

『—————私も二人を祝福したい』

————————————————


そういえば、自然に囲まれた僕はいつの間にかナチュラルな人間へと変貌出来た自負がある。忖度や謙遜より慈悲が溢れそうな立ち振る舞いが自然にできる一実の影響だろうか。

これからは非常に奇妙だ。一実と付き合いながら七瀬との共同生活を続けている。その関係も変わることなく、淀みなく生きる。

結局七瀬とは”家族”の関係を超えることは無かった。実際問題軋轢に感けた関係に発展した所で、三人での居心地が悪くなるだけ。

僕らは家族を超えることは無かったが、恋人との時間には目一杯気を使った。


配慮と言うべきかもしれないが、意味のない会話から性行為まで、ごくごく自然の摂理のように進んでいく。

そんな時間が時々刻々と終わり、また春へと繋がる。

「一応今から私は東京に戻るけど本当にいいの?」

「うん、もうこの島が居心地になった。今更この心地を変えるつもりもない」

「……2年経っても私の息子は相変わらず私より大人で安心してるわ、今度島に行くからそれまで元気でね」

「母さんも元気でね、じゃあまた」

電話を切った僕は少し胸を下ろして、また朝ご飯の準備を続ける。

「あ、そうだ」

近くにあったタオルで手を拭き、七瀬の部屋へと向かった。

「七瀬〜朝ご飯作ったけど食べる?」

毎度ドア越しでいつもの言葉を投げる。無邪気に変わらぬドアの向こうからバタバタと音がした時には僕はもう笑っていた。


ゆっくりと二人分の朝ご飯を並べて、彼女を待つ。

『お待たせ〜、いや、寝坊した』

「アラームをかけろ」

『あれ、〇〇は今日休み?』

「残念ながら休みです」

仕事着を纏った七瀬は部屋着の僕を叱るような目で睨む。結局僕ら三人は島で仕事を探して、高校卒業してもこの島に残る事になった。

大抵この島の若者は高校卒業から島を出る田舎特有の当たり前から逸脱した僕らは島の人達から少しだけ重宝された。


『じゃあ……』

“いただきます”


誰かが待つ家に独りで佇むのは、寂しくて苦しい。

それでも誰かが寄り添ってくれる証がミリ単位でも僕の手元に存在するなら、寂しく生き残ることも苦しくはないだろう。

まるで産声が讃美歌に変わるような瞬間が絶え間なく続くなら、僕は詩を残す事にした。

そしてこの物語はこれで終わりだ。最後の小節に記載されている記号を全て辿り、歌い終わる虚しさが残る暗渠な瞬間があるかもしれない。

それでも新しく新譜として、作られた世界を辿るだけで、僕らの人生は楽しく約束された。

強弱されていく感情の起伏にも僕らは無下に耐えて、迫りくる別れにも果敢に受け入れる。弱起が隠された生活に何気なく幸せの階段を登るように、今日の朝ご飯も特別に美味しかった。


これからも毎日は続く、こんな僕らを有難う。

【僕らの唄は何処かで】-fin-

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