短篇「幽霊の夏、そば粉と」
こんな瞬間の後は蕎麦を食べたくなる。
「私の浴衣、どう?」
柄にもなく、さっきまでウレタンマスクで蒸れてた私の顔を彼のすらっと伸びた横顔に近づける。自分の吐息が循環する不快感を忘れようとしながら、彼の優しい声を聞きたくて、ゆっくりと甘えるように肩に合わせた。
「やっぱり菜緒は青が似合うね」
いつもなら彼から寄り添うのに今夜に限っては、私の方から無闇に近寄りたくなった。
そんな優しい彼は嫌な顔一つせず、こんな風のような気分の私を迎え入れる。
疲れからなのか、この日はやけに暑くて、彼の頬に伝う水滴が涙か判断出来ないぐらいになっていた。
寒がりな私に合わせて、だいぶゆとりのある27度に設定したエアコンの風がだらっと6畳の仄暗い部屋を回る。乱れた夏の嫌気を喚起してくれる嬉しさと同時に、不用心に少しだけ空いている小窓へ逃げていく爽快感が彼の声と交ざる。
「……ほらっ、今年も夏が来たよ」
何よりも優しい彼は無慈悲に蚊取り線香を焚きながら、ひと気の無くなったこの閑散とした街の景色を背景に、夏の風物詩を辿るように楽しもうとしてた。
涼しくなった窓を開けて、二人並ぶ。
何も無くなった瀬に変わったから。
まだまだ自粛が持続的に蝕む2度目の夏の夜空、少しでも夏の妙を堪能したくて、二人暮らしのワンルームの中で、二人だけで浴衣を着て、居間で蚊取り線香と団扇とラムネと。
この場の静寂を貫く予定だった風鈴を忘れた私と、律儀に部屋の中でも三密を防ごうとする健気な彼の浴衣の色を敢えて青で揃えてみた。
靄が漂う部屋の中で晴々しく映える青が、私たちの翳りの影響の藍色になるみたいだった。
ラムネに苦戦する私たちは浴衣に着かないようにおずおずと、ひらりと吹き荒れるラムネを避ける。
眩い青い閃光が薄い布地に息を吐くような鋭い線とそれに連なって身体の調整をした私たちは、意外と現代人をやっていた。
自分たちで着付けしたせいか、心無しか頼りない結びで、なんだか体中がむず痒い。ただ、ぱたぱたと耽る団扇の音が、そのむず痒さを消してくれる。
それでも二人ともキリッと上品に纏めた髪と浴衣の楚々が、まだ夏の嫌気と鬩ぎ合う。
私はまた少し離れて、打ち上がる予定だった花火を待ち構えるように居間の真ん中で窓に向かって横並びになる。
さっき飲んだ炭酸が浮き上がってきても、蚊取り線香を潜り抜けた蚊が見窄らしく血を吸おうとしてきても、さっきまで覆い被さっていた二人の手がいつしか媚びるように恋人繋ぎになっていても、
それでも今年の花火は上がらない。
「このコロナ禍で結構な数のカップルが別れたらしいよ」
雲も星もない空に向かって言う。まだシュワシュワと小さくなるラムネの音も私の声で聞こえなくなる。
「それどこ情報?」
「私の大学の友達情報」
「なら信憑性ありそうだね」
「まあ、類は友達を呼ぶし、映すからね」
色々変わった。世の中の動きが変わっただけで、時間差で走る常識に慣れない人間たちで溢れ返る。
私も友達の話を聞く機会がだんだんと減り、”なんとなく”だけで周りの状況に合わせていた。
それでも村八分になることもなく、私はアップデートせずにこのまま、ただ流れるだけの世界を泳いだ。伸びる気持ちと濡れていく体は伽藍と。
「ただ、自粛が原因で失恋って、なんだか少しどうしようもないな、それ」
なんてらしいことをそれなりに言った。
誰よりも他人に優しく、こんな私でも労る彼が殴るように、私に乱暴に吐いた。
「どうしようもないよね、本当に下らない」
私は目を見て話したかった。ただ彼はじりじりと削られていく線香を見つめながら、その末端に似合うような台詞を並べていく。
童心色のゲーム感覚のままなのか、若気の至り特有のの真剣そのものなのか。希薄な関係を続け慣れている私にも、混乱しそうな雰囲気だった。
虫も嫌がる煙の中、静かに街灯を探している蛾みたいな目で、私は正面から突き刺されたような、耐え難い時間だった。
「僕はそんな程度の恋すらも経験したことないから、普通の感覚もよく分からないけど」
大きく立ち昇る煙を一刀両断した、彼のマスクから漏れる吐息は、いつも感じる愛の風味なのだろうか。
「少なくとも断ち切れそうなものをとりあえず断ち切る人間の潔癖には、つくづく吐き気がするよ」
いつも優しい彼は、街から人がいなくなった夜でも悲しそうな目をする。
まるで自分は”人間じゃない”みたいに、自分が見目麗しい存在かのように、つらつらと置く。
「恋愛はまるで毒薬だな」
その潔さは私の瞳にはどう映っているのか、それすらも忘れて。
鈴虫ぐらいの脳で話す彼の浴衣の色は、もし今頃花火が打ち上がっていれば、聡明な青として、私の記憶の中で褪せていただろう。
靡く前髪も気にせず、煙が彼の網膜を洗う。
「でも僕も菜緒にしがみつき過ぎているのも、女々しい通り越して、気持ち悪いと思うけどね」
こんな彼の一言が嫌いだった。自己評価は藻屑の底で、自己表面価値が誰よりも最低な彼の、嫌悪感が誰よりも、どうしようもなく嫌いだった。
だから私は躊躇なく、彼に身体を捧げられる。
「だったら、今日もする?」
ぱっと似合い、はっとする。
「…………うん」
急いで残りのラムネを口に飲み溜める。空になった瓶を荒々しく置いて、私は閉じ込んでいた彼の弱い口に唇を付けた。
多分今までで、一番深いキス。
その刹那に溺れる私味のラムネが彼の口内に流れていく。隙間から落ちる液体が、名前もうる覚えな誰かさんから借りた浴衣に滴る。
全てが流れていく。
「……私なら、そんな貴方でも、愛せるよ?」
私はその瞬間も瞳を広げた。
私には、去年見た花火の光が私たちを照らしているように、いつの間にか錯覚した。
だから悲しそうになる彼の目を見つめながら、婉曲していく愛情をこれでもかと注ぎ込んだ。
気づくと、するりと浴衣が落ちる音。二人暮らしの居間で優しくお互いの鼓膜を揺らす。
蛾は近くの自動販売機に纏わりつき、空き瓶は自身の中でビー玉を転がす。
これで解決される仕組みではないが、私たちにはこの瞬間にも突き動かされている動力が必要だった。
普段優しい彼は乱暴に、自己中心的な私は俯瞰で。
愛なんて、簡単だ。息をするだけでこの存在が確認出来るし、微量の言葉を優しく添えれば完成する。
でも恋することは、愛するよりも難しい。
それは彼の度々漏れる吐息から私は伝わってくる。私も抑えていたのに、漏れてしまう。
自分の息で悶々と蒸れ慣れた顔は、飽きずに密接になった彼の顔と一緒に吐く。
だからこそ、何をするにも指で文字をなぞるように優しく、痛みが慣れて身体に心が焼き付き、それ以上に誰よりも寂しがった言葉を燃やす。
「……誰よりも寂しい貴方を、骨まで愛すよ」
寂しそうな彼を癒したくて、気付けばセックスをしていて、いつの間にかセックスでは満たされなくなって、いつの日か一緒に暮らして、でも恋愛的な感情には満たなくて。
自粛で感けた私たちはだらだらとこんな関係を大学4年の夏まで続けていた。
まだまだ蠢く夏、生きた心地をとうの昔にかなぐり捨て、浮遊したまま呼吸をしていたみたいだ。
それでも、
嗚呼、今日も気分がいい。眩い花火が頭の中で細かく開花するみたいに、瞬間に彩る。
その後凄まじいノイズだけがワンルームに脈々と響き渡ったが、それすらも美しい静寂の色として私たちの身体に感染っていった。
「ふふっ、生きてるね」
「うん、生きてる」
多分、こんな寂しい夜はまだ続くだろう。
いつかの壊れる日が来るまで、私たちは飽きずにこのままで、二人で愛するつもり。
今日もなんとなく、朝打ちの蕎麦が食べたくなった。
また二人で作ろう、
また二人で食べよう。