短篇【夜間飛行】渡邉理佐
蝉達の切削な合唱が途絶えていく秋の始まり
まだ残暑の延長で再開した学校に止め処なく労る生徒たちは、気怠く息巻いている。
特質された面白みも健気な話も途切れて、だれていくだけだった。
微妙に鼓膜を遊ぶ蝉の泣き声は二ヶ月間の休みの距離を徐々に縮めてくれる。
今は数学の時間
教師が書く公式がチョークの無駄遣いと
思えてしまうほどに。
ここには希望はなく、同じような顔をした同士たちが表面上で必死に黒板を写す。
僕は空気だ。
誰も見ないし、誰も知らない。
窓側の1番端に佇む違和感の僕が少し苦い笑みを零しながら、片想いの相手を薄く見る。
目線の先を誤魔化しながら、彼女は凛々しく。
渡邉理佐
筆を遊び道具のように揃えて、背筋の伸びた身体が他の生徒より目立つ。か細く心配なる彼女の首筋まで僕の席から延長線上で見える。
不可抗力の視界である事を許して欲しい。
黒板を観ただけという言い訳を置かせてくれ。
空気には手の届かない高嶺の花を見てるだけで、僕の中の風景になってくれてるだけで、
願いは叶っているような感覚だった。
今日は授業に心の休みがなく、同じような作業を繰り返して放課後が来る。
興味のない教室で微動だにしない僕は、
蠢く生徒の流れるを見て遊ぶ。
あの人たちは今日カラオケ行くんだ、いつもひとりなあの人は今日最近出来た彼女と遊ぶんだ、またあの女集団はあの人の事を蚊帳の外にして遊びに行った、
更新されていく意地悪な着眼点は刻々と面白味を増して、僕の楽しみにも変わっている。
まるで僕は人間であるかを忘れたように
空気になることを迎合したように
同化された空気である僕は興味がその場から立ち去って行くのを見届けると、自分の帰り支度を始める。
………
渡邉理佐への片想いは突然で、
恋でいうところの「一目惚れ」だった。
初対面の絶対な気圧配置が、
意識の名を借りて僕の元に飛んできた。
『渡邉理佐です、宜しくね…笑』
可愛いとか、優しいとか
そんな俗な考えではなく……
気付いたら目を追うようになっていた。
均等に挨拶をして行った彼女の陽炎は僕の心中に反響していく。振り撒かれた笑顔は僕の心に残り、空気という自覚すらも少しだけ消える。
四月の緊張と緩和への移動よりも彼女の衝撃的な印象が他の生徒たちの会話を無意識にノイズと変えていく。
それほど彼女は暖かった。
……
昨日と同じように空気のようか軽い鞄を持ち、
慎重な面持ちで出ようと立ち上がる。
気が散る僕に不意に目に入る日直の知らせ、
明日は偶然にも彼女の日で、書かれている名前の持つ印象が急に…
その時に僕は何を思ったのか、
それが本音なのかも曖昧で、
本音という自覚もしたくないぐらい羞恥な気で
「好きな人ってだけで儚いな……」
あまりに綺麗に漏らした言葉は夕暮れの教室に似合わなく、ノイズに流れていくのを期待してた。ただ蝉すらも空気になった僕に合わせる事に関して無頓着で、ここぞの意識で静かになる。
静寂にある僕の存在と言葉は、「空気」と「愛の告白」になっていた。
ただ…………
『〇〇君って好きな人いるんだ…笑』
渡邉理佐という人間が聞いていた。
壇上の上で頬杖ついて、夕陽に影を作られながら、僕の言葉の真意を聞き出そうとしてる。
ニヤニヤと悪魔な笑みを表に着けながら、
空気で空虚な僕の中を見透かそうとする。
僕は驚きのままに振り向いて彼女を見つめた後、恥ずかしさを顕著に隠したくて、目線をずらす。
「…いたんですか……」
『いたよ、私も空気になれるからね』
何か初めての気分だった。
自分自身を空気と認識して尚、
彼女自体も空気と言い張る雰囲気は
いつもの渡邉理佐だった。
空気とは流れていくもの、
それを分かって貰えた事に
既に倍以上の驚きが二人だけの教室に、
淡々と靡いていく。
僕は本心を出来るだけ隠すように、言葉を濁しながら、彼女との会話を終わらそうとした。
「そうなんですね………」
でも彼女は朝焼けみたいに、
『好きな人いるんでしょ?』
突発的な尋問は非常に酷で、
筒抜けな頬面が赤く染まり、緩和のない緊張が僕の中で迸る。次に言うべき言葉も浮かんで来ず、逃げたくなる想いしか上がって来ない。
「いませんよ」
『嘘は良くないよ、さっき言ったの聞こえたもん』
「……じゃあいたらどうする? 脅すの?」
弱気を隠そうと強くするとその振れ幅が異様に伸びて、全く真逆の喧嘩腰になる。それは人付き合いが苦手な人の典型例だ。
『脅したって何も得られないでしょ…笑』
『私は単純に〇〇君が誰のことを好きなのか気になるだけ』
不適のまま彼女の体の移動は心臓に悪く、鼓動が波打つように時々刻々と速くなる。
「というか僕の名前知ってたんですね…」
『そりゃクラスメイトなんだし、覚えてて当然でしょ…笑』
僕なんか渡邉理佐以外のフルネームを言える自信がないのは恐らく自業自得だろ。コミニケーションとは疎かで愚直だ。
隣の席に座ろうとする彼女は僕のことを上目遣いで何かを要求する。青春の一ページを体現したようなシチュエーションに、僕は何も期待できなかった。
彼女は続けて僕に同じような質問を繰り返す
『で〇〇君は誰が好きなの?』
「言ったところでいい事ないよ、僕自身に」
『それでも私は聞きたい』
執拗過ぎる。申し訳ないが想いを寄せていた相手だか、他人のパーソナルな部分に不本意のまま浸食してくるのを見過ごすほど、僕は勇者のように心の広い人間ではない。
「しつこいな…理佐さんには関係ないだろ、人の想いを知って遊ぶ気なら僕は貴方とは関わりたくない、消えてくれ」
醜い言葉が下に、彼女の耳元へ届かせる。
感情的な思いから出た本音が何かを放棄した
僕の目からすんなり出て行く。
柔い文字の羅列に負けそうな僕とまだ何かを透かそうと試みる彼女の目がやはり対峙していた。
彼女は少し目を伏せて、そのまま広角をまた不適のままに上げる。
『やっと名前で呼んでくれたね…笑』
『本当はさんも要らないんだけどさ』
「……もしかして遊んでました?」
何かを気付かされた僕は諦めを露呈させながら、吸い込まれるように彼女の目を焼き付けて。
『ううん、本当は〇〇君の事をもっと知りたかっただけど、流石に私も無神経だったなって反省してる』
「だからっていきなりさん付けをやめて欲しいなんて、押し付けがましくないですか……?」
「理佐さんらしくない…」
驚かされた………
気付いた時にはもう彼女の領域を軽々しく踏みながら楽しく談笑しようとしている。
そんな自分の落胆さに辟易しつつ、
彼女に甘えている自分がいる事に。
『定着したようなら第一歩ってところかな、本当はもっと距離を縮めたかったけど』
遊び顔で無邪気に近くなる距離が僕にはまだ心許せる状態ではなかった。俯瞰でもそういう間柄にはまだなれなかった。
「………小悪魔ですね、理佐さんは」
『これが私よ、猫被ってる時よりよっぽどマシだよ…』
確かな…と心の中でそう思ってしまった時には、もう彼女の時間をだったのかもしれない。
僕はそんな彼女に笑いながら、
「じゃあ猫さん、また明日…笑」
『また明日ね、あとね………』
『私は嬉しいよ………笑』
渡邉理佐という人間が僕自身を喰う事なく、盲目的な人生の色を見れたのが何より微笑ましくて、
僕はその時間の流れを噛み締めて、彼女のいる教室を出る。
今見れば黒板に僕の名前も隣に書かれている。
予言のように事が進むのが少し怖くて、
それでも呆れるぐらい嬉しかった。
何か染められた気分でいつも愛用している自転車がある駐輪場に歩みを進める。喧騒の苦しい教室にあった僅かな想いの少しの発展は嬉しくて、僕はにんやりとしていた。
すると……
[なんかいい女いねえかな…隣にいるとステータスになるぐらいの美人…笑]
〔いるじゃん、三組の渡邉理佐。あれは上物だよ…笑〕
[ほんとか?、お前がやりたいだけじゃねえの?笑]
下らなく、ただの言葉を
側のたまりから聞こえる悪意の根源が腹立たしくて、溢れてくる嫌悪の造形が原型を止め処なく変えていく。
僕はいつも自転車がある場所には寄らず、権化たちがいる悪手に向かって歩く。
-それからは鉄の味しかしなかった-
蝉たちも静寂で空気を読む。
横暴に揺さぶられる身体と朦朧する意識の中で僕は出来る限りの反撃を慣れてない拳で突きつけていた。浮き出る痛みから繋がる次への帰路がないまま、自分は潮騒の槍の中で何かを守ろうとしていた。
雑魚で何も取り柄もない僕には守ろうとする意識以外仕上がってなく、拳に秘められた反撃の力もひ弱で軟弱だ。
僕は頭の中から飛んでいくような最後の衝撃を貰った後、それでもしがみ付いた馬鹿な奴らの襟を掴んで、離さないでやった。
込み上げてくる滑稽な両者に微笑みしか産まれなくて、僕は嬲られながらも可笑しくなっていった。
その姿に苛立ちを覚えて、相手が大きく振り被ろうとしたその時…
『やめろ!!!!』
飛び交う最後の怒号はいつも凛々しく佇んでいた彼女の強い意志だった。仁王立ちで下れる僕を伏し目に、怠惰の曇空は薄暗く潜んでいる。
彼女はジリジリと距離を縮めながら僕らの団欒を引き離そうとする。徐に暗礁に乗り上げた赤い血をまだ汚れていない箇所で拭く。
『先生呼んどいたから、動画も撮ったし、
言い逃れ出来ないよ』
まるで刑事のような状況整理が逞しく、有能な仕事ぶりに容疑者側も狼狽を含んで弱い捨て台詞だけ放つ。
“覚えておけよ”というどのタイミングで使うか定かではないのに知ってる言葉を聞けて、少し清々する。
彼女はふらつく僕の体を見ながら、またあの時と同じように微笑む。今度は悪魔ではなく、天使でもなく。
『格好良かったよ』
「こんな有様なのに……?」
『結果が大事じゃないの、そこまでの意思と勇気が重要なんだから』
『どんなにボロボロになっても信念持って、悪に戦う姿はやっぱり格好良かったよ』
「突発的だったし代償も大きかったけどね…」
『それも嬉しかった。私のことそんなに大事に想ってくれてるんだね…笑』
「そんな序盤から見てたの?ならもっと早く助けてよ」
クスクスとけたたましい笑いがお互いの空気間で流れを進めて。彼女の肩を借りながら歩む僕は昨日とは少し違っていた。
劇的とは言い難い内面的な心境の変化は、人付き合いを苦手にしていた僕にも肩を隣に並べられる人が作れるまで変わる。
『呆然としてたのよ、こういう時って足が竦んじゃうもんなのね…笑』
「呑気だね…」
『呑気だよ、〇〇君の告白を待とうとするくらいにね。』
孤高に擽ぐる彼女はまだ見た事のない、少しの色欲が相まって美しいという言葉に変わる。
『私はいつでもいいから、
いつか〇〇君の想いを聞かせて、
それまで待つから』
鼓動が連なる夢のような時間。回復の見込みが遅れないように大事に生きる僕は、痛みを忘れるほど熱く滾る感情の調になった。
汗ばんだTシャツは赤い絵具で落書きされて
潤された目も瞳孔が瞼を忘れている。
たわいも無くありきたりな告白の妙など僕には似合わなくて、そのまま彼女は全く知らない僕の帰路を辿々しく歩いていく。
笑い合える自然な関係に、隣にいる関係に
その時間から彼女と当たり前になれた。
突然訪れた当然に隠された数値が徐々に時間を
かけて、不釣り合いな二人を育てていく。
秋の空気の音を靡かせながら
“好きです”
この言葉を使う前から、人生は始まっていた。