短編「16小節と付点四分」
「ねぇ、こんな感じで弾いてくれない?」
不和、そんな想いを伝える。
梅雨入りした私の学校の教室。占領していた人間のヒビが、キャンパスに表現される不快感のように、窓をぽつぽつと鳴らしていく。
誰かが逐一反論する隙もなく、私は大好きな「練習」に性懲りも無く励む。
左手の指先が血だらけになろうと、右手の爪の先端が地獄の蓋のようになっても、余白のない譜面を飽きるまで睨めっこし続けても。
私は誰よりも真剣に、彼女らを説いた。
「もう少し丁寧に弾いてよ。テンポもブレてるし、所々音も間違っている。ちゃんと譜面を見てから曲を理解してる?」
誰よりも残酷な音楽だった。
「よし、もう一回46小節目からね」
私の独り言は誰よりもこの教室で響く。誰も止めない心地良さで、私が全てと思い込んでいる。それはこの練習の時間だけではなく、私生活の人間性までも、一丁前な説教と音楽が、息苦しく靡く。
誰も楽しもうとせず、カウントが進むにつれて
音は生きてくる。いや、生かされると言えばいいのか。
結局、雨音の方が、譜面に合っていた。
豪雨のち快晴、世界が嘘つきの日だった。
「ねぇ、君一人?」
「うん…………」
誰もいないバス停。雨粒で軋む木造屋根の下でレインコートを着た“子供”が錆びついたベンチで一人佇む。
目の前をただ見つめて、覚束ない足をぷらぷらと。その儚さだけで、幼稚園児という事だけは、不和をよく産む私でも分かる。
「隣いい?」
「…………いいよ」
雨雲に隠れた空、遅くまで部活で耽ていた私は雨に当たらないようにハードケースを片手で抱えながら、余裕のある傘を畳んで隣に座る。
私という存在が隣に来ても微動だにせず、ふらふらと足が交互に揺れる。持っていた透明の傘を適当に置き、子供より高い視線でこの場を眺める。
バス停から見えるのは、雑踏と草むら。誰かが整備した形跡も無い、無造作な世界に私もよりも孤独に生きていた”子供”に向かって、
「君は何歳なの?」
「………これ」
目の前に出された手のひらは5本の指を広げている。それが力強い証拠になるわけでも無く、その子の痣だらけの腕を見ても、私は今は網膜に映し出された情報を処理しようと、また不粋な言葉を投げる。
「偉いね君、ここで誰かを待ってるんだ」
「うん、お父さん待ってる」
「お家は?」
「ママがいるの」
りっとした。その事情も詮索する私の、誰よりも不恰好さを今日の叱咤と共に見られたら、赤面でギターも弾けないだろう。
「ママ疲れてるから、私が待ってなきゃ」
“信じる”
私が忘れていた、馴染みない言葉だった。
都合が良く忘却できる、ご利口な私の頭は彼女に並んで、何かを与えることも出来ずに、ただ隣で仲良く座るだけ。
無力で視線を送ることしか出来ない私は、微かな吐息さえも飲み込む。
この場所は雨の音がよく反響する。森の葉たちが鈴のように綺麗に揺れて、しんしんと降っていた飴玉ぐらいの水滴が、屋根をじんじんと押す。私たちは、閑静な時間になるのを、虎視眈々と待って。
友達すらも消化出来ない私は、
保証されてない時間を待つだけ。
元々一人でやっていた音楽を、運悪くクラスメイトに見つかり、川流れのように入部して、徒党を組んで、戯れる。
完成された芸術を追求するわけでも無い集まりに業を煮やした私は、気付けば先導して重奏へと変えてやった。
遊び半分で誘ったクラスメイトたちの困惑した顔や態度をあからさまに変える楽器たちの音にも負けずに、私は一人で気走っていた。
そこは狂うほど泥濘んで豪雨の漂う険しい荒地だったのに、私は走り続けた。
「実はあの時は音楽をしてなかったかも、しれないな。だって独りよがりだもん」
雨のち快晴、嘘だと思っていた天気予報はここから見える雲の隙間の陽炎によって、この先の幸運を理解する。
譜面通りに飽きようと思っていたが、譜面通りに巫山戯るのも、今は雨に左右されて分かる。
「音楽をしてみる必要があるかもね」
待ち切れなくなって、
「一人でも寂しく無い、音楽を」
誰よりも硬く、ずっと立て掛けていたハードケースを開けて、雨で鈍くなった弦を勘で揃える。噛み応えある音に変わり、私はいつも一人で弾いていた音を慣れた雰囲気で鳴らす。
「ちょっと、聴いてくれる?」
無粋にエコーする、私のギターの弦。
この子がどう思うかは、正直何も分からない。
答えなんて思い浮かばないし、失笑されるかもしれない。
それでも、
私の進歩しない音楽を、この雨がしとしとと、柔らかく降る景色の中で、きめ細かく演奏する。
嘘つきなのは私だ。
天気よ、お願いだ。
このまま晴れてくれ。
初めて、信仰したかもしれない。
私は縋るように、弾いていた。