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短篇【春から電話が来て】生田絵梨花

無意識の疲れは解放されたバイト後にも続く、


他の学生たちに話を聞くと音楽を聴くとか、カラオケ行くとか、ただ友達と駄弁るとか。

今の僕からしたらそんなもの癒しになり得ないと吐露してしまうほど、癒しというものに対して軟弱に飽きていた。


「歩くのだるっ……………」

5時間程度の労働を週4回でこなしていたとしても、僕の部屋に着く頃には8時間労働と同じような疲労が膝と足の裏に潜んでいる。

それを毎月毎週繰り返して、また朝が来る。普遍的でなんとも形容し難い学生生活。


そうやってこの日も無駄に朽ちながら21時頃、乱雑に錆びついた階段を登って滲みだらけの扉を開ける。一人暮らし用のアパートの一室なら少し落ち着かないぐらい程の広さが待ち構えているが、大学生でもなんとか成立する程の立地と環境が佇んでいて、今日もバイト先で買った晩ご飯を時計を見ながら食卓に並べる。


いつもならこの時間は彼女が来る。

滲みだらけの扉を陽気にノックする音が、トントンと聞こえると僕はお決まりのように立ち上がる。

『お疲れ様、ご飯食べようよ』と、

より陽気な音だった。

彼女は決まりの言葉をとりあえず言うだけ言って、そそくさと部屋に入る。この夜には涼し過ぎる無防備と爛漫な格好で、彼女は自分の部屋から持ってきたお手製の食材を僕に見せる。

『せっかくの金曜日だし、存分に楽しもうね』

そうだ、この人は曜日に現代的習慣を馴染ませているタイプのアナログ先輩だった。更に慣れた顔をしている僕もゆっくりと微笑んでいるのは、多分居心地がいいのだろう。

彼女が用意した食材をつまみながら、そこら辺でも通用しそうな日常会話をだらだらと流して、丸テーブルを二人で囲む。


『そういえばまたお風呂が壊れちゃった。恐らく〇〇の部屋のやつ、借りるから』

「恐らくって…………今年で何回目ですか、もういい加減にしっかりとした業者頼んだ方が良いですよ」

お互い酩酊した口調が先走り、お互いから安堵の匂いが漂う。

『いや、今回ばっかりは大家の方が悪いと思うよ。前回の時に”しっかり修理したから安心して”を凄まじく連呼されると本当にしっかり修理したのかなって思っちゃうじゃん』

「こんな少し新しいアパートをこの家賃で貸している時点で、少々常識のない人当たりのいい大家って事を理解してない先輩が悪いと思います。よって罰として一週間風呂無し」

『えぇ………じゃあ、来週の月曜1限の授業手伝わないけど?』

こういう時この人はより弁が立つ。僕の見事に弱い部分を正々堂々と突いて捲り立てる。


明らかに相性が悪い負け試合に挑んでいる僕が相変わらず理解しない時点で悪い気がするが。

だからこういう時は、別の話題で誤魔化す。社交性が圧倒的に低空飛行の僕が唯一出来る手の内を今ここで披露する。

「…………そういえばこの前のゼミでですね、」

『ううん、まだ話は終わってないよ。そもそも日曜に夜勤を間違えて入れた〇〇が寝る時間と授業ノートの確保をする為に、君が知り得る1番優しい人間であろう私に頼み込んできた事なんだから、私の風呂の事ぐらい優しく水に流しておくべきだよ』

「あれ、水に流すと水場を掛けました?」

『…………五月蝿いっっ』

小さく可愛い怒り聲が谺する夜、僕らの1日はこんな感じで、ただ進んでいく。

たまたま隣の部屋同士の関係だった僕らは、いつの間にかこんな日々を過ごすようになっていた。

微温湯の状態ってだけに、愛とか恋とかの関係を求めてくる人が多いが、正直そんな風に思った事は一度もないし、それを求めようとも思わなかった。

だってただの人間として関わっている僕らにそんな眼鏡の度を求められても、僕らは自然な視力で生きているだけだ。


だから僕らはお互いの部屋を平然と行き来出来る。手軽に会える間柄によって眩い光が有難く感じているのは、”自然体”という魔法の言葉のせいだ。

いつもの定石では晩ご飯を食べ終えて一頻り話した後、彼女は僕の寝床で寛いだのちに気持ちよく浴室に行って存分に心地を変える。

身体を洗い終わり、更に開放的な格好になった彼女は僕の部屋に置きっぱなしにしたバスタオルで髪をざらざら揺らしながら、


『じゃあ今日もお疲れ様、また明日ね』
たったそれだけを置いて部屋を後にしていく。

「はーい………」

そんな返答が残り、綺麗に片付いている丸テーブルの寂しさを気にしながら僕も就寝の準備を始める。

他愛もないこの時間がほぼ毎日順不同になっていた。僕はそこに学生特有の違和感を感じていたが、敢えて慣れた身体を作ろうと画策していた事も確かだ。

多分、結局心地は良かったのだろう。

それなりに嬉しくも認めたくない笑い声を、こうやって毎日消費していく。


より野良猫みたいに、彼女の脱いだ衣服を自分の持ち物のように洗濯機に入れて、後の夜は睡魔に任せた。

—————————

光がより濃い日々となって季節が目紛しく入れ替わる谷間の大学2年目の秋、この日は程よく関わっている同じゼミ仲間と食堂で駄弁りながら昼食を取る。

学生特有の恋愛が盛り上がる中、僕はいつものように孤立して最近ハマっている手作り弁当をただただ突く。

「………この弁当自分で作ったの?」
比較的この雑踏のメンバーの中だったらよく喋る男友達の彼奴がこの日も何か珍しそうに話しかけてきた。

それも結局は先輩の事を遠回りに聞いてくるだけだから、何も大きな期待も無かった。

「うん、早起きしてね」

「へー、俺は〇〇って家庭的な趣味に興味ないと思っていたわ」


「別に興味を持ったわけじゃないんだけど、ここ最近先輩が弁当作りにハマっているから、連れられて僕もなんとなくって感じかな」

期待に縋るように言葉を続けて言う彼は、
「……〇〇って生田先輩と本当に仲良いよな」

「そりゃ同じ大学の隣の部屋同士ってだけで普通の友達以上のシンパシーは感じちゃうでしょ。たまたまだよ」

何度も説明したせいか、こんなにも重たい言葉をすらすらと出せるようになっていた。

功を奏したと言えば違うが、今はそんな普段使わない言葉も頭の中に過ぎってしまうほど冴えている状態だった。

「…………そうなのかなぁ…」

腑に落ちない彼の言葉尻は幸い僕にも届いた。というかここまで言っても理解出来ない彼奴の思考を疑ってしまったからだ。

「こんだけ言っても納得出来ないほど、僕らは不自然な関係なの?」

こういう強気はこの場にいる他の男女たちにも伝わってしまうほど、鋭利なものだった。

「いや、そういう事じゃないんだ。だって〇〇と生田先輩が一緒に歩く所を目撃する事はしょっちゅうあるけど、交際的な状態かと言われればそういうわけでも無さそうだし」

というか僕らの普段の登下校をしょっちゅう見られていた事に驚きを隠せないのだが、今は僕の赤面より彼の言葉を待つ方がいいと流石に思った。

「でもそういう思惑が全くない顔かと言われれば、”うーん”って感じなんだよな」

「なんだよ、その”うーん”って感じというのは」

怪訝に合う顔を備えて、忖度を交えながら彼は述べる。希望が薄そうな表情と言葉尻を感じ取ってしまった僕は、何故か悔しささえも、迸る。


「断言は出来ないけど”お互いの顔に隠れた期待ある関係”って言えばいいのかな、でも”しっかりと含みが存在している関係”の方が正しいかもしれないけど」

遠回りの言葉だらけではっきりと明記しない彼の言い方に苛立ちがぞわぞわと顔を出して、僕はまた強い口調で彼の根本的な言い分を表そうとする。


「この際どっちでもいいけど、僕と先輩には君らから見ればそういう思惑が漂っているように見えるってことかな?」

「………多分、それが1番合う言葉かもね」

こんな曖昧な彼の意見を聞いたところで、今の胸の中にはある根底を担っている感情は何も動かなかった。

それよりか、他の人が僕らの関係を”そういうもの”で形容したくなる気持ちが、今のままではまるで分からなかった。

だからこそ今の僕らは何なのか、彼に聞いても分からない答えを進ませたくて何か問うてみる。

「…………今の僕は恋愛をした方がいいと思う?」


自分の現実を他人の意見に惑わせる今の時間こそ、悪戯と言うべきかもしれない。

「うん、少なくとも人間は愛や恋をした方が素敵にはなる。それは友情から恋愛に変わった関係でも単純に猿のように求める愛や恋だとしても、意識すればその人間は眩くて素敵な人生に体を填める事が出来ると俺は思う」


「……ただ〇〇と生田先輩との関係が”そういうもの”ではなく、卓越した友情で出来上がった関係なら今の〇〇の疑問は生まれないと思うよ」


その無駄な言葉を聞いて、いつかは勇気を出して何か変化を試すのもいいと、安易に思ってしまった。


そう考えていると頭が冷めた。折角食堂の質の良い機材で温めたご飯を食べていた矢先に、貫かれたような最後の言葉に、また何か、曖昧で不可思議な想いの粒を残して食堂に終わりのチャイムが鳴り響いた。

疎らに消えていくゼミ仲間を尻目にして、僕は最後尾で落ち着きながら、彼に言われた尊い意見をまだ上手く飲み込めないまま歩く。


————————


それからなんだか、馬鹿みたいに重たいような軽いような、そんな状態だった。

時折鉛玉が身体を打ちつけたような感触に浸る時もあれば、天に昇るような時間の存在さえ忘れるほど清々しい感覚に陥る時もあった。

あの昼休み後の授業では呆然と黒板だけ見て、終わるとそそくさと帰る。

『お帰り、これ食べる?』

扉を開けると僕より寛いでる先輩を見て、何か安心と納得の妙を感じて、だらけている彼女の近くに寄っていつもの言葉を言う。

「ただいまです。また作ったんですね」


細かい事を言うのを諦めた関係、僕は話を続けて何かを整えて、またいつもの時間にしていく。いつかはっきりとすればいいと思い、今日もこうやって伸ばして行く。

ただ、時間がこんな事を言う日もあった。


—————————

未だはっきりとしない大学3年目の春、相変わらず他人に関係を蹂躙されそうになりながら、絶え間なく日々を貫いている。前の瞬間を気にして時又に先輩の下の名前を呼んでみたりしたが、それもなんだか気持ちの悪い。


またゼミ仲間と食堂で屯した後の授業終わりの帰路、今年は一緒に帰るような時間の被り方もしてなかったはず先輩が飛び込んできた。

タイミング的に無神経と言うべきだろうか、

『お、少年。今から帰る?』


「……そうですよ。今日は生憎バイトも課題もありませんし、ただ帰るだけです」

『そうか、そうか。私は安心したよ。君が立派な学生となっている事に』

「先輩の部屋の掃除時間が無ければ、完全なる模倣学生として胸を張りたいですけどね」


『まあまあ、そういう日はしっかりと晩ご飯奢って上げてるんだし。てかこれ見てよ』

この大学から程よく遠い観光地のパンフレットが先輩の手にはあった。何度か家族と行ったことがある程度の思い入れしかない場所ではあったが、そのパンフレットには所々端が折られていて、意気揚々とした気分が伺える。


「…………旅行行くんですか?」

『うん、君と二人でね。前から気になっていたの』

「そんな予定聞いてないんですけど、もう確定と思った方が良さそうですよね」

『………そういうわけじゃないけど、もう日程決めておいたから良かったらって………』


数少ない旅行経験に素性を曝け出し切っているとは言い切れない関係の生田先輩との旅行が追加されるとなれば、言い方悪いかもしれないが、学生的に言えば”童貞冥利”に尽きるかもしれない。

ただ無欲とまた言い切れる僕はそんな事よりも、普段登下校とお互いの部屋でしか接さない先輩との初遠出を旅行をしてしまうとは、人生とは何が起きるか分からないな。

どんなホテルがいい?

なんて会話からまた始まりそうな僕らを想像しながら、当然の如く返答しようと思ったが、

『………やっぱりやめておこうか』

意外にも弱気な音が聞こえた。

「え……………」

詰まらせた喉に引っかかる妙な”いつも通りの言葉”がこうも上手く出てこないとは思わなかった。

だから彼女にしっかりと言うタイミングを逃してしまい、黙り込んで僕は停止する。

そしてその最愛のタイミングを、

また弱気な彼女が発する。

『流石に無理矢理旅行に連れて行くのは、〇〇でも迷惑だよね………』

『ごめんね、変な事言って』

よく漫画に挟んでいる広告紙のせいで、途中まで読んでいたところが急にズレ落ちる事がある。折角得ていた情報を止めてしまった焦燥感と馬鹿馬鹿しくも下らない面白さがそこにはあった。

僕の学生生活にはこれぐらいの絶望しか待ち構えていない。幸せを求めない性格が功を奏して不幸せを素通り出来ていたのだ。

『私たち違うもんね………』

ただ、素通り出来ても、逃れることは出来ない。目を逸らしていた不幸せは今こうやって、帰り道の二人の空間に現れている。それから黙って歩く僕らは、得体の知らない気持ちの悪い後味のせいで、離反されたような気持ちの上で跳ねた。

結果的に別々に部屋へと帰ったが、流石にあの遺恨は消さないと思い、久し振りに僕から誘った。贖罪とか罪の意識とか、そんなもの一切合切気にしないように意識しながら、とりあえず彼女を呼んだ。

「これ、一緒に食べない?」

運悪く家庭料理の範囲で出来ることを終わらせて、彼女は部屋にポツンという言葉が綺麗に添えられたように黙って座る。


それからは意識された無意識が上辺にある状態でなんだか気持ちの悪い気分だったが、泥濘に居続けるよりかは少し発展された土地の開拓を勧めた方がマシだろう。

僕は二人分の料理を用意して、また丸テーブルに置く。今更改めてこういう雰囲気になると赤面に嵌ってしまいそうで、湯気があって助かった。

一つ年上の先輩と一緒に整えてから食べる晩御飯の味は妙に塩気が多かった。それは後悔の味として、二度と忘れないほどの美味として、厄介な運命の苦味として新たに焼き付いてしまった。

ただ、前のような雑談も時間が経てば戻って来る。待ち焦がれた会話の続きをこれみよがしに連発して、僕らの頭上を通り抜ける”いつも通り”が嬉しそうに食欲と共に消えて行く。

なんだか、逆に進歩されたような感覚で楽しかった。その分疲れる事もあるが、幸せの疲労にこれぐらいの相続税があっても不審には思わない。


『折角一緒の部屋でゆったりしているのに、スマホゲームしないでよ。寂しいじゃん』

この日は遅くまで戯れていた。

「学生の間ぐらいはこういう非効率なゲームに熱中させて下さいよ。退屈になっちゃう」

『だからって、黙って熱中されると居心地悪いでしょ。もう少しレディーに気を遣いなさい』

そのレディーの格好は干物と呼んだ方が似合うような、僕の寝床で大の字になって漫画を読んでいる。呆れてスマホゲームをしていることに、気付かない鈍臭さはこうやって言葉にして少し近くにある丸テーブルにいる僕はこう返す。

「なら先輩は漫画に熱中していたとしても、邪魔するような言葉を矢鱈に掛けても許すんですね?」

『いや、肩パンを二発骨に当たるように喰らわすけど』

「過酷かよ………」

『嘘嘘………そんなことはしないよ、ただうさぎのように寂しがって死ぬけどね』

「そっちも厄介だわ」

いや、僕らの普通は暖かい。このまま沈んでしまいそうな無意識が漂い、奥底に寝るような言葉が空中で交わされる。


だから顔を見てないこの状況なら、あの時間の後悔に首を突っ込んでみたり出来る。

「はぁ…………てか旅行はどうするんですか?」

切り込んだ想いの乗せたくて、珍しく前のめりになってこの時間に合う言葉を口ずさんだ。

その後によりしっかりとした本音を、

「僕は先輩となら、旅行でも修行でも何でもいいですよ。……どうせ楽しくなりますし」


「二人で何処か旅しましょう、先輩」

『…………………』

「…………………なんか言って下さいよ。これじゃあ本音を言った甲斐が無くなる」

『…………………』

「……ってまさか…………本当に甲斐が無かったな」

安らかな寝息を目視出来て、肩が落ちる。目が閉ざされ、ゆっくりも右側に体を向けて寝ている彼女に僕は、安堵と落胆の二つを味わった。


ただ、それも悪い気はしなかった。だからだろうか。この時僕は、少し舞い上がってしまったと思う。

「…………じゃあ僕も寝ます」

彼女が無意識に開けている左側に僕は身体を落として彼女と同じ位置に佇む。そして意識を合わせるように、小さく揺るぎない彼女の頭部を摩った。

「……………これは好きった言った方が楽かな」

今なら彼奴の言葉が理解出来る。僕はただ意識してなかっただけだったんだ。あの時言った恋愛の疑問には、こういう意味があったのか。

「好きですよ、絵梨花さん」


この瞬間だけでなく、これからも。

12弦ギターのような生活になりかけたあの夜、実は先輩は起きていたらしい。あの日少しだけ男になった僕の言葉を聞いて、微笑みながら薄らと涙の想いを重ねて、僕と一緒に寝息を合わせていた。

『私も好きだよ、〇〇』

次の朝、食事の手前に彼女から告白された。


昨日の告白の続きを煽るように言われた僕は、照れながらも彼女と視線を合わせた。想いの乗った視線の交差には、朝の匂いが似合う。

抱擁と言えるほど立派なものでもないかもしれないが、僕は彼女を寄せてみた。それは本能的に彼女を感じてみたくて、そのか細い身を僕と重ねた。

僕は満足したつもりだったが意外にも彼女は肉食的な面も期待していたらしく、あの夜に特に告白以上の事をしなかった草食な僕を揶揄うのが、今では彼女の酒の肴になっている。

それでも焦らずに。僕らはいつか来る深い慈愛の時間に迸った気持ちを吹かしながら、今日も一緒の時間を過ごしていく。

そういえばそろそろ部屋を一緒にしても、幸せは喜びそうだな。


今夜もやっぱり楽しみだ。


【春から電話が来て】-fin-


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