短篇【蟲の息まで】伊藤純奈
一目惚れを経験した事はなかった。
甘酸っぱい恋愛の一端を夢見る僕は、胸が打たれるような瞬間に出会えてこなかったことを、生涯の恥のように思う。
身体に一筋の電撃が走る感覚と教えてもらった事があったが、それを確かめる術も時間も存在しない世界に親指を下に向けて蔑む。
だから、彼女に今度彼女に聞く
「純姉は今後何処行くの?」
多角的と言ってしまえぼ、全ては解決出来るかもしれない。もし抽象的に学生時代を思い返すなら、僕には1つ離れた幼馴染みがいた。
初めて逢ったのはいつだろうか、
物心ついた時にはその幼馴染みが姉のような存在になって、当たり前に近くにいるという環境に慣れていた。
親の知り合いという血が色濃く現れない節操でありながら、姉弟の構図が自然と家の中に浮かび上がる。
だらだらとした空気感に一石を投じるような張りのある声で、常に昨日のことを更新する日々が続く奇跡があった。
だからこそ、傍若無人な勝手に馴染んできた僕すら諸悪にも近づいていたことは、振り返ればそうかもしれない。
『今日、4時に駅集合ね』
厚着をしたい季節。
その姉からの突風は前触れもなく、僕の身体を吹き荒らす。何処かに所属することに異様に嫌悪していた学生時代は、よく二人で遊んでいた。
田舎でも流行りの施設やアーケードで、距離を誤魔化せないほど近く、また僕の頬が赤くなる。
『また顔赤いよ、いい加減プリクラに慣れたら?』
今日もこうやって、腕や顔が近くなる。
「無茶言わないでよ。こんなの恥ずかしいの、純姉に連れて来られなきゃ絶対来ないところだし」
僕の腕をグッと掴み、何かの痼りを押し込むように近づく。
そうやって彼女は勝手をする。
まるで炭の中に灯りを求めて身体を突っ込む小蝿のように、僕は黒く立っていた。
ただ、
僕は”姉”が得意ではなかった。それは嫌気が差したというわけでも、衝動的な学生時代を一人でいたい無欲の孤独のつもりでもない。
だが単に距離が分からないだけだった。
愛の結晶があるような雰囲気では無かった。僕らがよく一緒にいた頃、彼女には彼氏が、僕には彼女が無闇の中にいた時もあった。
大層な修羅場にならずに、お互いの恋愛について健気に話す瞬間なんて、彼女は目を輝かせていた。
友達を卓越した関係に造詣されたつもりも無かった。僕には友達と言える人間は少なかった、不自由は無かった。特に理由もない交流に興味がないと言えば嘘になるが、人と交流する手前が苦手で、いつも億劫になる。
だからこそ、彼女は僕の友達のつもりで一緒にいた訳でもない。とても形容し難い、哀れむような想いもなく。言葉に出来ない、哲学のような道しか見えない関係に近かった。
僕らは何となくが似合う関係に、彼女が高校を卒業する手前の時期にはなっていた。この頃から”姉”という言葉もひらひらと宙に浮き始めた。
僕らは何に変わったのか。
明後日から春休みになる。来年の受験というお祭りに不安と期待のフルコースをもう既に喰らっている僕は、敢えて焦りせず立ち竦む。
「……明日卒業式か」
『早いね、もう3年経つのかと思うと人生の更新速度が恐ろしく思うよ』
お互い不要な荷物を背負いながら、同じ速度で夕陽に向かって帰る。
「そういえば、純姉は今後どうするの?」
幼稚な言葉だけ包んでも、彼女は笑顔で濁そうとする。そんな事はさせまいと率直に意中の本心を求めた方が効率が良かった。
『……あれ言ってなかったっけ、東京行くの』
旋風から弱い雷がビリビリと落ちて、心臓の鼓動と混ざる。
「初めて聞いたけど………」
地理の教科書やニュース番組でしか触れて来なかった、魔の言葉である”東京”が出てきたのは今日が初かもしれない。
人生の辞書にはその時の適切な言葉や対処が明確に載っているわけではなく、まるで回路のように都合の良い対応しか書かれてない。
魔の言葉を聞いた僕の回路は反吐に重なって電源を失い、建前という壁が無くなった。
「そっか、なんか寂しいね」
『〇〇がそんなこと言うなんて、雪でも降るんじゃないの?』
「もう桜の季節だよ、それにそんなに本心隠すような奴でもないけどね」
学校から数分の距離、いつもなら居場所に向かって一直線に帰ろうとする気持ちも芽生えず、淀んだ景色を作りたかった。
「ねぇ、寄り道しようよ」
指差した方向には遊具が時代の流れで撤去され始めた公園があった。
寂しさが残る影たちと共に、夕陽の溢れるこの場所には、何回も二人で遊びにきた。
錆びれたブランコや朽ち果てそうな木目の椅子の変化は年々追うことも少なくなったが、今見るとそこまで変わってないようにも見える。
気ごちない鎖が付いた椅子に僕らは一つ開けて座った。軋む鳴き声や伸びたり縮んだりする影もすぐに飽きて、
「………いつ東京行くの?」
『来週には行っちゃうかもね。お迎えもう荷物は送ってあるから、あとはこの身体のみ』
今日は地面の影の表情がよく見える。
幼少期から見ていたこの公園の地面は、こんな風だったのかもと無理矢理再確認した。過去の恥ずかしい発言を不意に思い出すように、
『そんなに落ち込まないでよ、もう決めた事なんだから』
「……いや、落ち込んでるわけじゃないんだけど、やっぱり寂しいからさ」
『永遠の別れじゃないよ、どうせお盆や正月には帰るんだから』
だからそういうことじゃないんだ。寂寥に落ちたわけは自分でも分からないから、今度は僕が芯から濁すしかない。
『確かに分かるよ、私も〇〇の立場だったらもっと落ち込むかもしれないし。でも私の立場から言うと〇〇には私より明るい顔をして欲しい』
「そんな事出来ると思う?」
『今じゃない、私を見送る時にそうなればいいから』
門出には幸せの兆候が見える。七福神が袖を引っ張って、真新しい景色を美しい扇子の力を使って作ると思っていた。
「純姉も寂しい?」
『そりゃ寂しいよ、私たち何年一緒にいたの思ってんのよ。そんじょそこらの学生たちの希薄な関係とは違うんだから』
彼女の揺れるブランコは、誰よりも綺麗な顔をしていた。僕よりずっと聡明で、血色の良い。
『でもいつかは終わるなら、次に進みたい。それは今までの場所や縁を忘れてまで、掴みたい』
忘れるという言葉が妙に先行して、記憶が飛ぶぐらい駆け走る。
もう少しで緑色になりそうな桜の木に似た、言葉の儚さが僕の前で散っていくのが、彼女との拙い会話で分かった。
だから僕も間抜けで拙い返答で、
「……ちゃんと見送るから、今は泣いていい?」
これまで以上に寂しさを感じながらブランコの鎖を離して、彼女の目の前で嘆いた。どうやらこの時の僕は、頭をゆっくりと撫でてほしいみたいだ。
居座ったブランコから立ち上がり、目と鼻の先になった僕らはまた小さく放つ。
『いいよ、でも今はこの距離ね』
気持ち良かったと一つの言葉で言ってしまえば簡単だった。良識感情で忖度された愛情より、滾るような熱意の方がマシにも思える。
僕は出会った頃と変わらず、包まれていた。
夕陽の柔軟剤と落ちた影の匂いがした。
まるで僕自体が洗濯されたように、その匂いが身体と頭にこびりつく。
過ぎ去った記憶を思い返せば、隣には純菜が必ずいた。
改竄された都合の良い思い出に近い僕の頭の中は、彼女との凛々しい過去で充分だった。
だからこそ今泣けとも思ったが、
「………案外泣けなかった」
『強い証拠だよ』
「純姉の前で泣いたの何年ぶりだろ…」
『”純姉”と呼び始めた日からじゃない?』
「そうかもね」
これは記憶に残るのか、我に帰れば恥ずかしい言動や表情だけで純菜に迫っていた。
姉を困らせる弟と、再びなった日から簡単に数日が経過していく。
『じゃあ行くから、暫しお別れだね』
まだ春の空気にならないぐらいの世界に、辺り一面に銀色の絨毯が敷かれる。
この場所では雪なんて珍しくもない。一年の間の半分以上が染まる事なんて、ざらにあった。
「……そうだね」
『お別れの日に雪なんて、〇〇が泣いたお陰じゃない?』
記憶を辿っても、僕には特別に大事にしたい人は”純奈”しか居なかった。
だからこそまだ下を向いてこの大地の白銀の涙目がつらつらとして見える。
『もぅ私を見てよ、そうすればまた会えるから』
「簡単に言うなって…」
『そうしないと始まらないから』
頬はいつものように、強く手厚い不分明な指がすらすらと流れていく。
その刹那もじっと黙ってみた。
『ほらっ時間無いよ』
真珠のように色白く、中心は吸い込まれそうな強い黒曜の二つの目から寂しさを感じて、僕はやっとの時間を掛けて別れを言う。
「……純姉に絶対会いに行く、決めたから」
『楽しみにしてる、私を攫ってよ』
初めて彼女の輪郭を含めた全てを着目した気がする。今思えば露骨にその肌を見つめた事は無かった。
空白が似合いそうな美しい顔は、僕の一目惚れとなって消えていった。これが去年の春手前の記憶として、今も何処かで覚えている。
それから着々と会えない日々に慣れ始めた。失念出来る体質になれた事は嬉しい事でもあったが、忘れたい記憶というわけでも無い。
取り憑かれたように僕は目的を作って、より愛を確認した後に寝る瞬間が増える。
あれから何日だったのだろうか。昔には感じた事の無い喧騒が帯びて、僕は待ち合わせ場所に向かって歩く。
此処には愛も努力も薄い。田舎育ちの今の僕にはそう見える。
新幹線が集まる人混みが多い駅の外、何日分かの荷物を持って彷徨いた。厚着をした僕は東京の寒さに少し物足りなさを思いながら、今度は下を向いている人を見つける。
今日だけは僕から、
「純奈お待たせ!!」
どういう機会で再び出会えたか、そんな事を胸に僕は自慢気に上を向くつもりは無い。
ただ、また純奈に出会えた。
それだけで僕の恋は結末が見えそうだ。