長篇【僕らの唄が何処かで】① 西野七瀬
【春の手前、何もない生活】
———————今日も疲れた。
筋肉が萎縮した後の慢性的な疲労ではなく、人と出会い、人に気を使う事への途方もない疲れが何処となく体に流れてくる。
東京という世界は異様で恐ろしい。仮面を着けているような表情と棘のある言動には、正直僕の幼少期のトラウマの一つとして、片隅の奥でウジウジと住み着いている。
だからこそ自分の閉鎖的な家の隅で、静かにしている時の方が気が楽だ。
今日の晩飯は上手く作れた気がした。日頃の行いか努力の結果か、高2の冬時点での腕前は的屋と同じぐらいの雑味加減が残る。
誰でも簡単に上手く作れるカレーでさえ、普通という台詞がそこに綺麗に乗っていく。
ただどちらにせよ、このままだと一人でも生きていそうな、柔い自信に溢れる。
明かりが妙に眩しいリビングに、母と僕の二人だけで広く使う。母の仕事の調子が良いらしい、僕は全貌が分からない姿でも疑問に思うことは無いほど慣れていた。
だからこそ、母の言葉には疑念すら浮かばず、また慣れたような返事で事の端末を見届ける。
今日もカレーが匂う。
「〇〇、また私転勤することになったの」
「………そう、お疲れ様」
「ありがとう、流石優しい我が子ね」
「で、何処行くの?」
「イギリスに、いいでしょ」
「でもご飯は美味しくないって聞くよね」
「……ちょっと行く気無くすじゃないの、やめてよ」
「そんなすぐに落ち込まないでよ、とりあえず僕はどうするの?」
「色々考えたんだけど、私もいつ日本に帰ってくるか分からないみたいなの、今回は大きなプロジェクトらしくて家に帰る可能性は薄いかも」
「だから〇〇を私の地元で知り合いに預けようと思ってるの」
「……また大胆な作戦だね、一人は慣れてるからこのままでも大丈夫なのに」
「帰ってくる保証が無いから、流石にそれだと心配になっちゃって、だから誰かに預ければ安心かなって。もう話は済んであるから後は〇〇の返答次第なんだけど」
親というのは子供の理解を知らない。偽善という言葉が似合うのか、押し売りのような愛情で子供を見る。
だからこそ僕はそんな母を無下にする意などある筈もなく、単純にその優しさに肖ったほうがどうせなら誰も悔しい思いなどしない、幸せな状態にしようとする。
「いいよ、引っ越しでも転校でも」
あっさりと答えは僕が珍しいと思ったのか、目を見開いて問う。
「…本当にいいの?今の友達とお別れすることになるのに」
「親が大変な思いして仕事してるのに、わざわざ駄々こねる必要もないよ。僕は大丈夫だから母さんは好きにしていいから」
今日もそうだ、親は疲れた顔を隠そうと必死に笑う。父親のいないこの家庭において、母の責任は恐らく、毒以上の厳しさだろう。
その毒に浸る僕も大概だが、母はとりあえず落ち着く。
「ありがとう、じゃあ来月引っ越すことにするから、荷物まとめておいてね」
「わかった、ありがとう母さん」
東京の三月は厚着を楽しむ半端な位置と思う。各々が見せることが出来る丁度良い洒落を着飾って、道路や空まで蔓延る。
母さんから言われたその後すぐに僕は荷物を纏めて、身近な物の整理を始める。
簡易的な友達たちとの交流もそこまで熱は無く、とりあえず報告する程度で治ってくれた。
歓迎会でもされたら多分、曖昧な顔になること間違い無い。
僕の荷物は海外に行くような分厚い顔をした素材ではなく、既に郵送で送っていることを利用して身軽で空港に着く。
昔お盆や正月に何度も行ったことがある場所だったが、不安が残り母から言われた住所を頼りに旅行感覚で次の仮宿を荒く見つける。ただ調べると、どうやら少し本土から離れた離島と書いてある。
僕は末端の不安と開放感を浴びて、調べた経路を歩む。
“知り合いの娘さんが港で待ってるから”
春の手前、
『貴方が〇〇君?』
「……はい、宜しくお願いします」
『麻衣さんから全部聞いてる、とりあえず家に案内するから』
飛行機と船を繋げて乗ること、丸一日。乗り物酔いなんてしなかったが、背中のぎこちなさだけは残っている。
都会から随分離れたところに位置する島に僕は一人で乗り込んだ。そして港に行くとそこで待っていた少女と出会い、道を進む。
固まった体をだらだらとして、船着場から程なくして僕の新しい家に着いた。緑に囲まれた平家の古民家がポツンと自然にある。
『荷物届いてるから』
「……はい、えーっと……貴方は…」
『西野七瀬、〇〇君と同い年だよ』
母にはもう血の繋がっている知り合いはいない。ただ血が無くとも、意識で繋がっている知り合いの空いてる部屋に泊まることになっていた。
家の中を案内される。
『ここがリビングね、〇〇君は東京から来たんでしょ?どう、この島は』
「良いところだと思うよ、東京みたいにうるさくないし」
『お世辞はいらんよ、本当はどうなの?』
洗礼を早速と思ったが、僕に嘘をつく暇もない。
「自然しか無いとは思うけど、僕は寧ろこっちの方が心地いい」
『へー、〇〇君って変だね』
「多分親譲り」
軽く二人で会話しながら、これからの話をする。
『まだ制服持ってないでしょ?』
「うん、そこら辺詳しく知らないけど」
『もう一つ別の段ボールがあるから、その中に生活用品と学校のものが入ってるって』
「……西野さんはここに住んでるの?」
『うん、元々一人部屋みたいな感じで住んでたけど、〇〇君が来るってなって共同で住む形に変わるの』
「それは迷惑かけたね」
『そうでもないよ。この家掃除とか大変だったし、単純に管理が一人だと面倒だから、〇〇君が来てくれて助かった』
「そんな年頃の女の子も珍しいと思うよ」
『この島に来たらみんなそんな風になるよ、現に麻衣さんだってそんな感じでしょ?』
僕の母は僕に似ていないからこそ、彼女の発言に納得出来る。自由人の特権かもしれない。
僕の母の下の名前すら安易に呼ぶ彼女を見ても、なんとも思わなかった。
『結構前に麻衣さんが来て。私とおばあちゃんにお願いしてきたの。麻衣さんのお母さんはもう居なくなってたから頼めるのは私たちしかいないって』
「母さんは一人で頑張っちゃうからね。そこでお二人に頼んだのは相当勇気絞ったと思うよ」
『随分信頼してるんだね』
「自由人だけどしっかり意思はあったからさ、尊敬しているよ」
『それも珍しいと思うよ』
この島の人たちとまだ彼女以外出会ってない。積もる不安はひとりで歩く。
時刻は6時になり掛けた。
「そういえば、この島ってコンビニあるの?」
『流石にあるよ、なんなら本屋とかカラオケも』
「じゃあ行くか」
『………え、コンビニ行くの?』
「うん。流石にきた初日に自炊なんて無理だから、とりあえずなんか買いに行こうと」
『……折角なら二人で食べようよ、いい店知ってるからさ』
少し意外だった。まだそう言う言葉を軽く言えるような女子とは認識していなかったみたいだ。
「わかった、とりあえず行こう」
夜になりそうな島の波のことが聞こえる。鈴虫が息を鳴らして、旋律を轟かせる。
二人でだらだらと島の港近くにある一軒の家を訪れる。静かな店内に少ない椅子と机。
『お邪魔します、今から大丈夫ですか?』
二人で通された席には魚拓が並べられて、まだ寒い島の気温に合わせて暖房が効いている。
僕らは向かい合わせで、
『どれにしよっかな』
「おすすめとかある?」
メニューにはシンプルな名前が綺麗にある。それを指刺し確認しながら眺める。
『刺身定食かな。昔生魚苦手だったんだけどこここの刺身食べてから食べれるようになったの』
「じゃあ僕はそれにしようかな」
『……オッケー、じゃあ私もそれで』
料理を待つ時間を暫く経験していない、自炊の賜物だろうか。結局自分の手で作る事に妙なポリシーを持っていたのは事実だが、この島に来た時には海に投げ捨ててたらしい。
僕らは大した会話のせず、現代人の都合と言うべきの携帯の直視に暖かい匂いだけ漂う。乗り物疲れで固まった体がここでも解されると、この島は生きているようにも思える。
そして小さい机の上に定食屋のメニューと頼んだ覚えのないご好意が次々と添えられていく。
その数は恐らく彼女の明るさが齎した奇跡だと思うが、まだ他人の僕にも優しく出来る懐の広さに、少し圧倒される。
『ほらっ食べなよ』
「うん……頂きます」
ゆっくりと頬張る僕ら、何故か前から知り合いだったような雰囲気になった。食べている時の静けさは、まるで慣れた会話の延長戦。
「美味しい…」
『口に合って良かった』
僕らは焦らず、時計の針と同じぐらいの速度で箸を動かした。
だらだらと米を掻き込む。
なんだか、分かり切った味にまた親しみを感じるように噛み締めながら味わう。この間も会話という野暮はせずに、ただただ目の前にある料理を堪能して、終わりの合掌する。
『食べ終わった〜』
「満腹だね、じゃあ行こうか」
『すみません、お愛想を』
「ここは僕が払うよ。折角の同居人だし、使わないお金を持ってたって意味ないからさ」
『………じゃあお言葉に甘えるね』
親から貰えるお金は出来るだけ使わずに残してきた。学生時代も特にやりたいこともなく、趣味もアルバイトをして稼いでいた分、必ず余裕があった。
払い終わると外の塀に座る彼女の後ろの姿が、僕の目からは見えた。
『終わった?』
「うん、結構安かったね。財布に優しかったよ」
『……どう?島の世界は』
「またその質問?」
『だって〇〇君は都会と島の二つを知ってる。私より知ってる事が多いの、それは私には羨ましく思える』
「知ってたって意味ないよ。僕は結局都会にあまり迎合できなかったしこっちの方が性に合う」
『………そぅ』
返す言葉は何がいいのか、景色に映えるのか
「風、冷たくない?」
『そうだね、夜になると冷えるよ。じゃあ帰ろっか、まだ荷解き終わってないしね』
「手伝ってくれるの?」
『流石にそれぐらいは一人でやってよ』
「七瀬さんって意外と冷たいんだね」
『冷たくないよ、〇〇君の為』
彼女は立ち上がり、僕の隣に来る。
『さぁ、行こっ』
一人で勝手に歩く彼女には、特別を残したくなった。
「ねぇ……どうせ一緒に住むんだし、お互い呼び捨てにしない?」
4月になろうとする風が僕には涼しい程度で、今は収まる。微風が上り、髪が舞う。
『いいよ、〇〇。これから宜しくね』
「うん七瀬。これから宜しく」
僕らは家に帰る。まだ終わってない段ボールの整頓を進めて、僕は少し汗だくになる。彼女はテレビをつけて、何か言いたい事があると僕に投げかける。
集中しているでは許されないらしく、無視するとツムジを叩いてくる。僕はそれを払い除けながら、自分の部屋に荷物を置く。
「はぁ終わった」
『長かったね』
「七瀬が手伝ってくれないからな」
『アイス食べる?汗かいた後だとより美味しいよ』
バニラアイスが僕の口に入る。咄嗟に咥えた僕は歯を立ててしまい、冷たさで悶えながら、ゆっくりと堪能する。
「美味しいね」
リビングに春の風が入る。僕はより受けようと雨戸を開けて、テラスに置いてある椅子で空を見る。
『隣にいい?』
この涼しさでも溶けるアイス、暑さではなく雰囲気だけで砕ける冷たい空の下では、黙っても輝く。
「星綺麗だね」
『東京も綺麗じゃないの?』
「見えるには見えるけど、ここまでじゃ無いよ。東京は汚れているから」
鮮明に見える星たちの繋ぎ目も、個々で多彩な輝きを放つ惑星たちも何かの星座と言われれば納得してしまうほど、美しく絶え間ない。
田舎に特別な影響もない僕でさえ、感心してしまう強い光を放つ世界は、不思議と落ち着く。
「明日から島の人達に挨拶行くけど、七瀬も暇?」
『暇じゃなくてもどうせ一回は頼むでしょ。行くよ、暇だし』
「ありがとうね、とだけ思っておく」
『また今度奢ってね』
「あれ母さんのお金だから」
もうすぐ四月だ。
今年の一年は、多分普通の暦となるだろう。