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【ショートショート】スマホ一つで
男にとって、スマホだけをポケットに入れて家を出るのは、呼吸をするかのごとく自然な行為だった。鍵も財布も身分証明すらも、すべてが電子化されたこの時代では、かさばる物を持ち歩く必要などない。家の鍵も、お店での支払いもすべてスマホがあれば事足りる。身分証明だってスマホがあれば問題ない。まったく便利な時代になったものだ。
男はカフェへ向かい、静かに席に腰を下ろした。テーブルの上に置かれたQRコードをスマホで読み取り、画面上のメニューから料理を選ぶ。待ち時間は、手のひらの光る画面に視線を落とし、流れる情報に身を委ねる。ほどなくして店員が料理を運んできた。食事を終えると、男は再びスマホを手に取り、指先一つで会計を済ませた。
店を出てから軽く伸びをし、男はスマホを片手にマンションへと歩き出した。横断歩道を渡ろうとしたとき、遠くから猛スピードで車が突っ込んできた。男が思わず飛びのいた瞬間、スマホが男の手をすり抜け、地面へと落ちた。その瞬間、車がスマホを踏みつけ、去っていく。
「ああ、なんてことだ。この前買ったばかりなのに。」
男は突然のことに怒るのも忘れ、ただ呆然と立ち尽くした。弁償をしてもらおうにも、気づいた時にはあの車はもうどこかに行ってしまった。修理か、買い替えか。男は悲しみに暮れたままマンションへと着いた。そして鍵を開けようとして、はっとした。スマホが壊れてしまった今、鍵が開けられない。管理会社に連絡すれば何とかなるかもしれない——だが、その電話ができない。
電話を求め、男は交番を探し、街をさまよった。スマホがあれば検索ひとつで済むが、今は自力で探すしかない。道を間違え、記憶を頼りに歩き回り、ようやく辿り着いた頃には30分が過ぎていた。久しく忘れていた、不便という感覚がじわじわと蘇る。
男は交番に着くと事情を説明した。警官は「大変でしたね」と相槌を打ち、番号まで調べてくれる。管理会社につながると、また事情を話す。
「開錠には身分証明が必要です。市民番号の照合は?」
「それは……スマホが壊れているので確認できません。」
「それでは、お手伝いできません。」
無機質な声が響く。男が食い下がるが、返ってくるのは『規則』の二文字のみ。男はこのまま問答しても無駄だと電話を切った。そして警官に軽く頭を下げ、電気屋へ向かう。スマホが壊れて困るのであれば新しいのを先に買ってしまえばいいのだ。
「申し訳ありませんが、規則ですのでお売りできません。」
「ですから、新しいスマホをいただければ目の前で引継ぎを行い、身分証明もお支払いも行いますので……。」
「規則ですので、先にお支払いも身分証明も行っていただく必要があるのです。」
「規則、規則って……!」
男の言葉は虚空へと消えた。肩が重く落ちる。
男は最後の望みをかけて市役所へ向かった。住民課の窓口には長蛇の列。ため息を飲み込み、男は最後尾へ。ようやく辿り着いたカウンターで、事情を繰り返し訴える。
「ご本人であると証明できるものはありますでしょうか?」
職員の問いかけに対し、男が何も持っていないことを伝えた。
「でしたら、あらかじめ設定してあるパスワードがあれば市民番号を通知できます。市民カードを作成いただいた際に設定したアルファベット大文字と小文字、数字を組み合わせたものを入力していただくシステムで。」
「そういえば、そんなパスワードを作った記憶が……。」
男はパスワードを思い出そうとするが、なにせずいぶん昔に “とりあえず” で作ったパスワードだ。普段はスマホの自動入力に任せきりで、頭の中に形として残っているわけもない。
「すいませんが、パスワードも覚えていなくて……。」
「忘れてしまったなら、パスワードの再発行手続きがありますが…市民番号が必要になります。」
堂々巡り。男はこれまでのストレスから噛みつくように叫んだ。
「スマホが壊れただけで、どうしてここまで追い詰められなきゃならないんだ!」
対応してくれている職員が悪いわけではないが叫ばないとやっていられない。男の叫び声に周囲の視線が一気に男に注がれる。職員は後ずさりし、警備員を呼ばれる。通報を受けた警察官が駆けつけてくる。男は職員の仕事を妨げていたとして「業務妨害で警察署まで連行します」と告げられた。あれよあれよという間に男は腕を取られ、警察署まで連れて行かれた。
署の一室では、警察官が淡々とした口調で告げる。
「身元が確認できればすぐに解放しますよ。」
「ですから、それがなくて困っていて……。」
「それでしたら、罰金を払っていただければすぐに釈放いたします。最近はキャッシュレスで……。」
男は力なく頭をかきむしりながら、呆然と天井を見上げた。スマホ一つで何でもできるようになったのではない。スマホがなければ、何もできなくなったのだ。