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【短編小説】理不尽な世界(8)


地下施設の廊下は、相変わらず息苦しいほどの静けさと重い空気に包まれていた。湿ったコンクリートの匂いが鼻を突き、ちらつく蛍光灯がかすかな光を投げかけている。男がラボの地下廊下を歩いていると不意に低く重い声が背後から響いた。

「おい!」

振り返ると、ひげ面の男、通称「BF」が立っていた。その存在感は圧倒的で、彼の鋭い目つきが暗がりの中でもはっきりと浮かび上がって見えた。声のトーンには金属のような冷たさがあり、その一言で心臓が跳ねた。

男は、先ほどドリーに連れられてここへ戻ってきたばかりだった。杖を突いたおしゃべりな男――ドリーは、やけに陽気な態度で「部屋で待っていて」とだけ言い残し、すぐに姿を消してしまった。彼が戻るまで何をすべきかわからず、男は一人で不安な時間をやり過ごしていた。そんな彼の前に現れたのが、この無骨なBFだった。

「来い」

短く投げつけられた言葉には、命令の響きと断定の重みが混ざり合っていた。反論する余地など微塵も感じられない。BFの背中を追う以外、選択肢はなかった。

昨日もBFと行動を共にしたが、その時の彼の目つき以上に、今日の視線には冷たさが増しているように感じられる。その目はまるで、ラボに対する不信感を持っている男の内面を見透かし、そのような者を仲間としては認めないという強い拒絶のようにも見えた。だが、そんなBFとの対面も機能に比べればましだった。昨日の体験を経て、自分の命を失う恐れは少ないかもしれないということだけはわかっている。

靴音だけが二人の間に響く。それ以外の音は何もない。BF の背中には一切の拒否も問いかけも許さない圧力が漂っており、男は黙ってその背を追わざるを得なかった。


駐車場に足を踏み入れると、冷たい夜風が頬を刺す。視線の先には黒いバンが静かに佇んでいた。昨日見たものと同じ車だ。そして、車の横には昨日と同じように、そして昨日とは違う知らない顔の運転手がいる。

その男は細身で背が高く、薄いフレームのメガネをかけている。この男は「ヤン」と呼ばれるラボの一員だった。彼の佇まいには貫禄があり、年齢がBFやドリーよりも明らかに上であることはすぐにわかった。しかし、その目にはどこか親しみのある光が宿っており、男にはBFほど近寄りがたい人ではないだろうと思えた。

ヤンはバンの横で腕を組み、軽く体を傾けて立っていた。口元には薄い笑みが浮かんでいる。彼は男たちの足音を捉えると、穏やかな声で言葉を放った。

「遅いぞ、BF。俺をこんな寒い中で待たせるなんて、お前にしちゃ珍しいな。」

「悪いな、ヤン。こいつが道草を食ってたもんでな。」

BFはそう言いながら後ろを歩く男を指さした。男は心の中でため息をつきつつ、眉をわずかにひそめたが、言い返す気力はなかった。

ヤンはゆっくりと男に目を向けた。その視線は鋭く、まるで内面を探ろうとするかのようだ。しかし、不思議と敵意は感じられない。興味深げな観察者のような目だった。

「お前が噂のセンチュリオンか。初めましてだな。これが初仕事か?」

「二回目……。」

男は短く答えた。自分の声が少し硬いのを感じ、それを隠したくてそれ以上は答えなかった。

ヤンはその答えに満足したのか、わずかに眉を動かし、笑みを深めた。

「ふーん、二回目か。どうりで緊張した顔をしてると思ったよ。」

ヤンは軽く肩をすくめ、視線を再びバンに移した。

「誰だって最初はぎこちないものさ。俺も初仕事のときは散々だった。ま、期待してるよ、センチュリオン。さてと、そろそろ行こうか。」

ヤンがバンのドアを叩きながら言う。「今日の仕事は簡単じゃないぞ。」

「ヤン、荷物は積んだか?」

BFが短く尋ねる。

「あぁ、もう積んでいるよ。」

ヤンは微笑みながらバンの荷台を開け、段ボールがぎっしり詰め込まれた光景を見せた。男もつられて覗き込んだ。食品や生活雑貨などのブランドのロゴが印刷されたそれらの箱は、使い古されているのか少し汚らしい。

「これはなんだ?」

男が問いかけた瞬間、BFの視線が突き刺さった。

「触れるな。そして詮索するな。」

鋭い声が一瞬、空気を裂いた。BFの瞳は鋼のように冷たく、男の背筋を凍らせる。

「お前はただ運ぶだけだ。わかったら車に乗れ。ヤン、しっかりこいつを見張っておけ。」

男はトラックの助手席に身を沈めた。問いかけることさえ、どこか間違いだったのかもしれない。彼はただ仕事をする身として気になっただけだ。それなのに、あのようなBFの敵意ある視線を向けられると、自分が「余計なことをした」と感じずにはいられなかった。

「余計なことなんかじゃないさ」と心のどこかで反論したい気持ちもあった。しかし、声に出す勇気はどこにも見つからなかった。

外ではBFとヤンが話している。低く抑えた声で交わされる言葉の断片は、男には意味をなさない。ただ、時折BFのひげ面が険しく動くのが視界に入る。彼らの話が長引くほど、男はますます蚊帳の外にいる感覚を覚えた。

やがてヤンが運転席に乗り込んできた。そして、車のサイドミラーを覗くと、BFがラボに戻って行くのが見えた。

ヤンはちらりと男を見やると、エンジンをかけた。低く唸りを上げる音が車内を震わせ、鈍い振動が体に伝わる。トラックはゆっくりと動き出し、駐車場のざらついたコンクリートを滑るように進む。

「初めては緊張するものだろう?」

ヤンの穏やかな声が突然車内に響いた。助手席の男を気遣うような言葉だった。

男は不愛想に「まあ、慣れるまで時間がかかるかもしれない」と答えた。

「慣れるさ。誰でも最初はそうだからな」とヤンは言い、ハンドルを握る手を軽く振って見せた。

トラックは施設の敷地を抜け、夜の空気の中へと滑り出した。窓の外には街の灯りがちらちらと揺れ、男の視線はその不規則な輝きに吸い寄せられる。あの地下の閉塞感から解放されたことに、ほっとする一方で、これから向かう場所への不安が次第に膨れ上がっていく。

「ドリーにはもう会ったか? 杖をついた瘦せた男だ」とヤンがふいに言った。「わからないことがあれば、あいつに聞くと言い。あいつなら一を聞けば百教えてくれる。九十は無駄なことだがな。」

「あぁ、知ってる。今朝もラボに連れてきてもらった。」

「そうか、そのまま仲良くしておけ」とヤンが答えた。男はそれに対して何を返すでもなく、話はそこで途切れてしまった。そのまま車内に沈黙が流れる。

男はバックミラー越しにちらりと運転席のヤンの横顔をうかがう。ヤンは穏やかな表情を保ちながら、無心にハンドルを握っていた。男はヤンから視線をそらし、トラックの揺れに身を任せたが、車内の沈黙が居心地悪く、息をつくたびに自分の存在がやけに大きく感じられた。男は意を決して尋ねてみた。

「あなたはこの仕事、長いの……長いんですか?」

「ラボに入ってからという意味なら、もう数年になるね。ここの暮らしには慣れたよ。」

ヤンはそう言って肩をすくめた。

「運んでいるものが何なのか知ってるんですか?」

その問いに、ヤンは少し間を置いて答えた。

「研究に使う何かってことぐらいしか知らない。詳しいことは知らないんだ。」

男は眉をひそめながら、ぽつりとつぶやいた。

「ラボの一員なのに、何を運んでいるのかわからないなんて……それじゃ駒みたいなもんじゃないですか。」

その言葉にヤンは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「まぁ、その通りだな。だが、それは俺たちだけじゃない。大半のメンバーはこの箱の中身なんて知らないさ。」

「ラボは今のAI支配から抜け出して、自由な世界を作るって言ってますよね。それで未来の自由を作るなんて、信じろと?」

ヤンは笑った。しかし、その笑みにはどこか苦味がにじんでいる。

「信じるしかないんだよ。この社会で俺たちに選べる道なんて、他にないんだから。」

その言葉が重く響き、二人の間に再び沈黙が戻った。トラックの揺れだけが車内を支配する。外の風景は街の喧騒を抜け、次第に荒涼とした様相を帯びてきた。目の前には枯れ果てた大地が広がり、遠くには険しい山々がそびえている。


トラックが砂利道に揺れながら止まった。使われなくなった古い倉庫。そこが目的地だった。風に乗って吹き込む錆びた扉の軋みが、静寂の中に不気味な音を響かせる。ヤンが運転席から降りると、軽快に荷台を開けて、後ろの箱を指さした。

「運ぶの手伝ってもらえるかい?」

男は助手席からゆっくりと降りると、荷台から薄汚れた箱を抱え上げた。しっかりとした重さが、何か重大なものを運んでいる感覚を与える。倉庫の中へ一歩足を踏み入れると、そこは予想以上に広く、薄暗かった。柱から垂れ下がる蜘蛛の巣が、時間の止まった空間を物語っている。

古い倉庫の中央に立っていたのはドリーだった。その明るい笑顔と軽快な雰囲気は、この異様な場所にまったくそぐわなかった。

「よく来たね、センチュリオン!」

軽快な声が響き渡る。

「お前、何をしているんだ?」

思わず尋ねる男。視線はドリーの杖に一瞬とらわれるが、すぐにその表情を読み取ろうとする。

ドリーは肩をすくめて、「未来の自由を作る第一歩だよ」と言った。その言葉はどこか軽薄で、男の胸に生じた不信感をさらに深めた。

「納得していない顔だね。まぁ、それも無理はないか。」ドリーは笑顔を浮かべながら、手近な箱を軽く叩いた。「ここに置いてくれればいい。僕は足が悪いから、荷物を運ぶのは苦手でね。その代わり、君たちが届けてくれた番を管理してるんだよ。」

「番して何になる?」

「何って……必要なことさ。」

男は苛立ちを隠せない。「お前もか。『自由のため』とか『信じろ』とか、そんな曖昧な言葉ばかりで、具体的な説明は一切ない。」

その言葉を聞き、ドリーは少しあきれた顔をした。

「センチュリオン、君はまだ知らないだけさ。知らないというのは、時に幸せでもあるんだ。だが、知る覚悟を持つ者にだけ見えるものがある。」

その瞬間、ヤンも荷物を持って倉庫の中にやってきた。ドリーと目配せを交わすと、肩をすくめてこう言った。「センチュリオン、信じるか信じないかは君次第だ。でもね、道というのは歩いてみなければわからないものだよ。」

男は何も答えられなかった。ただ、そこに立ち尽くしていた。倉庫の薄暗い空間と彼らの言葉が頭の中で渦巻き、全てが霧のように曖昧だった。


荷物をすべて運び終え、トラックに戻ると、男は助手席に座り込んだ。ヤンが運転席に腰を下ろし、エンジンをかける音が静寂を破る。男は視線を外に向けたまま口を閉ざしていた。

「なぁ、センチュリオン。」

ヤンがふいに声をかける。その声は穏やかだった。

「俺たちがやってることが本当に正しいのかなんて、俺だってわからないさ。でもさ、ここにいる間だけは、何かの一部になれている気がするんだよ。」

その言葉に、男は自分を重ね合わせた。そうだ、何かに属しているという感覚が、こんなにも自分を支配しているとは思わなかった。ヤンもまた、そうした感覚を求めているのだろうか。

「まぁ、なんだ。飯でも食いに行こうぜ。焦ったって仕方ねえ。新米なんだから、少しずつ慣れていけばいいさ。」

ヤンのその言葉に、男の心は少しだけ軽くなった。確信には至らなかったが、不思議と温かさが胸を包んだ。そして、答えを見つけられないまま、彼らを乗せたトラックは、夜の闇の中へと静かに走り去っていった。

続く



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