何かの摩耗とともに生きていく
無神経について考えていた。
ある著名な人が、自らが健康であることを当然の前提として、深酒のためポテンシャルを発揮できないでいたそれまでの自分を「重いハンデを背負ってきた」と表現しているのを目にしたからだ。
悪気のない冗談(あるいは冗談にさえ至らない軽口)なのはわかっているけど、率直に言って俺の愛する人が背負ってきたハンデを背負ってみやがれと思った。
■
無神経な言葉を放つ人に、無神経の自覚があった試しはない。自覚がないからこそ無神経なのだ(自覚のなさには無知、気を抜いていた、テンションが上がりすぎたなどさまざまな理由があるだろう)。
もし自覚があるとしたら──「ああ、今オレは無神経な言葉を口にしているなあ」としみじみ実感しながら無神経な言葉を口にしているとしたら──それは無神経とは別のレベルの問題だ。
無神経は自覚できない。ということはつまり、ぼく自身がそれをしてしまっても気づけないということだ。そしてたぶんぼくは、ほとんど必ずどこかで無神経な言葉を口にしているだろう。そう考えるととても恐くなる。
■
でも、あまり深く考えすぎない方が健全だとも思う。無神経を防ぐことは原理的にできないから。
できることは、自分がそれをしてしまったことが判明したなら全力で本気で心から謝ること、そして他人の少々の無神経には寛容になることだけだ。
■
無神経な言葉を口にした著名人にぼくはネガティブな感情を抱いたが、その人に対するリスペクトが失われたわけではない。何かが少し摩耗しただけだ。
ぼくがどこかで口にした無神経な言葉を寛容にも受け入れて(あるいは受け流して)くれた誰かの何かも少し摩耗したのだろう。
みんな何かの摩耗とともに生きていく。