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【文章エディタ】編集機能とデジタル過渡期の作家の「想像力」

※この記事は、KDPでの出版を念頭に作成中の『想像する文章エディタ(仮)』の一部(の予定)です。
※2024/11/18 タイトル含め、大幅に修正しました。
※2025/1/29 見出しを含め、大幅に修正しました。



作家のワープロ・パソコン1991

かつて『ASAHIパソコン』という雑誌がありました。その1991年1月1日・15日号の特集は「私のワープロ・パソコン」。執筆にワープロやパソコンを使っている作家10人に執筆について聞くという企画です。30年以上前の雑誌記事を今さら引っぱり出してきたのは、文章エディタに対する「想像力」のすれ違いを示す非常にわかりやすい例として印象に残っているからです。

アナログからデジタルへの過渡期、作家という「文章を書くという需要から見ればこの上ないヘビーユーザー、でも(特に当時は)コンピュータ自体に詳しいわけではまったくない」ユーザーの「想像力」。

時代背景を書いておくと、日本の物書きがコンピュータに出会ったのは、日本語ワープロ専用機が普及してからのことです。

最初の日本語ワープロである東芝JW-10が登場したのが1978年。これは600万円以上する机ぐらいの大きさの機械で、個人で利用するようなものではありませんでした。ワープロが一般の作家の仕事場に入り始めたのは1980年代に入ってからのことです。それでも当初は「ワープロなんかで小説が書けるか」という声も根強くあり、作家の間でワープロを導入するべきか否かの論争があったりもしました 。

現在では「ワープロ」といえばPCやタブレットで使うアプリケーションソフトのことですが、80年代から90年代初め頃までは単に「ワープロ」と言えば専用機のことでした。ワープロ専用機が早々にPC上のワープロソフトに取って代わられてしまった英語圏とはかなり状況が異なったわけです 。

日本で専用機の時代が長く続いた大きな理由は、初期のパソコンに日本語処理をさせることが難しかったからです。英文ワープロとは桁違いの文字数を扱わなければならない上に、漢字かな交じり文の入力自体が大問題でした。その実現自体に膨大なリソースが必要とされたのです⁠1。英語では8ビットパソコンの段階で一応実用的なワードプロセッシングが可能になっていましたが、日本語では専用ハードでないと現実的な価格と性能を両立できなかったのです。

『ASAHIパソコン』の特集が組まれた1991年というのは、職場や一般家庭でもワープロが急速に普及し始めていた頃です。作家の中でもワープロに対する当初の拒否反応はおおむね収まってきたものの手書き派もいまだ多く、「ワープロやパソコンで執筆している作家」自体が雑誌企画のネタになり得た時期。パソコン視点から見ると、日本でのスタンダードはNECのPC-9801シリーズ、日本語ワープロソフトのトップシェアは一太郎、パソコンOSの主流はMS-DOS、Macintoshは日本語を実用的に使えるようになりつつあったもののまだ高嶺の花、Windowsはいまだ普及せず、商用インターネットは存在せず、一部マニアと先進的なビジネスユーザーがパソコン通信にアクセスして電子メールやBBS(掲示板)やデータベースサービスを利用している、という時代です。

『ASAHIパソコン』の特集に話を戻しましょう。デジタル過渡期の作家たちは、ワープロやパソコン(≒文章エディタ)に対してどんな「想像力」を持っていたのか。特集に登場する各作家の意見(主にワープロ・パソコンのメリットに対する認識の部分)を要約してみましょう。カッコ内は使用機種です(すでに鬼籍に入った作家も多いことにあらためて時間の流れを感じます)。

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