「これだから昭和は」に続くもの、メシはいらない電話、やってる感

出社したら女の子が淹れてくれたコーヒーを飲みながら新聞各紙を広げ、関係先に電話をしたり予定を錬ったり煙草を一服したりしているうちにお昼になるので蕎麦を食いに行って書店に寄り、ビジネス書と雑誌を立ち読みする。
帰ってきて一服しているうちに14時からの定例会議の時間になり、手帳1冊持って会議室に出かける。求められたら意見を言い、求められなかったら言わない。
席に戻って一服し、16時ごろからおもむろに仕事を始める。煙草を断続的に吸いながら電話をかけ、資料に目を通し、仕事上の難しい問題を考える。
気がつくと20時頃になっているので残業していた部下を晩飯に連れていき、仕事やその他諸々の相談に乗る。ビールも一本飲む。会社に戻って一服してから家に電話して「遅くなる、メシはいらない」と伝える。
22時、ほとんどの同僚が職場に残り、昼間よりもむしろ活気があるくらいだ。この時間になったらもう酒を飲みながら仕事をしたって許されるだろう。

……というのは、かつての上司に聞いた「昔の話」。80年代後半から90年代前半くらいの話だろう。

武勇伝的誇張はあるだろうし、その時代のあらゆる職場がこうだったはずはない(その会社は広告業界の周縁部に位置する。国会中の旧大蔵省とかマッキンゼーとかがこうだったとは思えない)。時期にもよるだろう(繁忙期ではなかったのかもしれない)。

でも、父(造船業界)に聞いた話からも、ぼく自身が最初に就職した会社(電機メーカー系ソフト開発)で新入社員として観察した様子からも、この時期の内勤の中間管理職サラリーマンの仕事の「ある種の感じ」の一端はうかがえる、と思う。

それにしてもなぜ「メシはいらない」電話をメシを食う前にしないのか問題。

現代の環境にさらされている若い人たちがこの話を聞いたら「まったくこれだから昭和は……」という感想を持つかもしれない。

ぼくだって、こんな働き方をしてた連中が現代の過酷な環境で働く若い人を成果主義とか言って「評価」してるのかふざけるなと思ったし、そう口にしたこともあるような気がする。

もちろん物事はそんなに単純ではなく、仕事の仕方が現代に比べていかにヌルく見えても(見えるけど)、その時代にはその時代の過酷さがあったはずだ。

現代では通報ものの理不尽さがまかり通ることもあっただろうし、話には出てこないパワハラ/セクハラ/精神論は今よりさらに野放しだっただろうし、定時退社が良いことだという概念もたぶんないし、女性社員はひとまとめに「女の子」だし。

何にしても、いつの時代も個人の人生が過酷でないことなどない。

個人の人生の過酷さは「メシはいらない」」電話をメシを食う前にしない言い訳にはならない。そこには(やはり過酷であるはずの)家族の人生の過酷さに対するリスペクトが欠けている。

母の親友の夫は、どれだけ遅く帰ってもメシが用意されていないと激怒する一方で、深夜に食卓に並んだ食事を前に「いらん、今日は食ってきた」と平気で口にする人物だったそうだから、「メシはいらない」電話をするだけでもまともな部類なのだろうが、そう言ってしまうことを「甘やかす」と言うのですね。

上司の昔話を聞いていて思ったのは、かつては「精神の助走時間」みたいなものが仕事時間の中に(非公式にでも)組み込まれていたんだなということだ。

手を動かさずに考えている時間。成果に直接つながっていない時間。評価の対象にならない時間。気持ちを立て直し、心的態度を作る時間。何もしていない時間。カッコよくに言えば「余白」。その時間をどう使うかは別として。

上司にも部下にも、発注側にも受注側にもあったそんな余白が仕事に、あるいは仕事人の精神に重要な役割を果たしたことは多かったはずだ。

少なくとも「やってる感を出す」などという醜い言葉は当時はなかったと思う(個人的にその言葉を初めて聞いたのは平成の後半に入ってからだ)。

誤解しないでほしいのだが、「やってる感を出す」ことは円滑に仕事を進める上での重要なテクニックだ。でも言葉にしてしまったらこれほど醜いものはない。

「これだから昭和は」に続くネガティブさもポジティブさも、一筋縄ではいかない。

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