むりむり。
A:「無理をしない」ことは現実的にほとんど不可能なので「無理をしない」というコンセプト自体が意味のないもののように感じられる。
B:重要な局面で願うような結果を得るためにはほとんど必ず無理が必要だ。
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Aタイプの無理の中でも特に問題なのは、無理をすること自体がデフォルトになっている状況、無理をすることを前提にものごとが回っている状況なのだが、こんなことを指摘すること自体が無意味で無粋に思えるくらいAタイプの無理は当たり前になっている。
そしておそらく、多くの人が「大人」で「社会人」で「仕事」ならそれは当然受け入れなくてはならないことだと思っている。
Aの状況で「無理はするべきではないし自分はしない」と発言したら、おそらく責められるのは状況(を生み出している/容認している何か)の方ではなく発言者の方だ。この無理の自己増殖が多くの人を不幸にする。
前職で社内に貼られていたポスター。
このポスターが「無理を強いられている側」の作であるところが根深い。
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しかしBタイプの無理はおそらく必要だし、これをAタイプの無理と同一視して排除しようとすることもまた、人を不幸にする(あるいは幸福を遠ざける)気がする。
だから、もしかしたらAタイプの無理とBタイプの無理には違う言葉を使うべきなのかもしれない。
考えてみればBタイプには理があるような気もする。