【週末雑記#22】終わりと始まりの狭間で
昔から古いものに惹かれ、新しいことも大好きな「好奇心」旺盛な子供だった。日夜、好きなことに明け暮れる友人たち(当時小学生w)を横目に一つのことに熱中できる羨ましさを持ちつつ早くも「自分にはその生活は無理だな。」と諦めていた。そんな子供の気まぐれな「好奇心」に付き合って、いろいろな玩具やゲーム、本、マンガを買い与え、沢山の習い事をさせてくれた両親にとても感謝している。
たまたま図書館で手に取った「人生論ノート」をパラパラと読んでいて、ハッとした記述があった。
最初の仕事を辞める時に親に連絡したところ、呆れたように「もう辞めるの?」と連絡があった。個人的には6年も働いたし小学生だって6年で中学校に進むのだ。「もうええやろ」くらいに思っていたが、親からすると「あ、なるほどね」だったのだろう。当時28歳。とはいえ、その頃、仕事を辞める癖に「同じことを続ける大切さ・面白さ」にもようやく気付き始めて「個人営業」の仕事は長く続けたいな、と思い始めた頃だった。
何とか今の職場は形を変えながらも自分の職務としては変わらず存続しており、丸4年を迎えようとしている。ただ「続けること」は難しくてメンバーや仕事/役割も様変わりし、とても大きな変化の中にある。
「まだこの仕事を続けたい!」と思いつつ「続けられる」のも恵まれていたのだなと思った。自分の意志に反して仕事を変えることを余儀なくされたり家族の都合で止む無く仕事を続けている人もたくさんいるだろう。コロナの影響もあり、好きだった自分の仕事が「廃業」に追い込まれる人もいる中で、変わらぬ職務を全うさせてくれた(そして、全うさせてもらえる)のは誰からが任せてくれているからである。そこに気付くと、その仕組みにも、感謝の気持が芽生える。だとすると「好奇心」だけ持って「人生は自由だ!」という都合の良い言葉を場を使って、ずっと、うろちょろ、好き勝手している場合でも無いわけだ。
前職も今も「終わりと始まり」に立ち会うことが多い。「家を買う」ときはこれまでの生活に「終わり」を告げ「新生活」を求める。「転職」するときも様々な理由があるにせよ、これまでの生活に別れを告げ、次の人生に駒を進めたい人たちだ。
その「狭間」では様々な思惑が行き来し、決断の折にも一筋縄ではいかない。やっていることは「個人営業」ということで未経験でスタート出来ることも多いせいなのか、市場価値的には舐められることが多いが、10年やっても必勝パターンが体系化できない、不思議な仕事だ。
自分でスパっと決められる人もいれば、決められないまま、何年も(人によっては何十年も。実際に家を変えず(買えず)に10年以上さまよっている人も何人も見てきた。転職活動に関しても同じだ。どうも一歩が踏み出せないようである。)過ぎていく人もいる。「終わらせるのも勇気、始めるのも勇気。」改めて、いろんな人生の積み重ねて世の中が回っていることを考えると不思議な気持ちになる。
神戸の西に佇む築100年以上経つ、とある洋館に関する映画を見た。100年という時の流れでうまく所有者を変え、時代に合わせながら今も令和の世に確かに存在し、その場所で、確かに生活が営まれている。当時、同期が近所で物件を扱っていたこともあり、ついでにライブを見に訪れた街だったが独特な雰囲気と時間軸で生活が営まれていて非常に好きな街の一つだ。その名を「塩屋」という。
とても良いムービーなので、ぜひ。
終わりと言えば、今日、京都の錦湯も閉店する。95年の歴史があったそうだ。自分はアニメでその存在を知り、今週末が最初で最後の利用となった完全なにわかだが、お風呂で話した人は「ショックで仕事が手につかなくなった」と言っていた。長く続くものの終わりは、周りに与える影響も大きい。
引き続き、終りと始まりの狭間で自分は何が出来るのか?考える日々が続く。