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糸井さんと羽生さん③ ~ジャンプと重力~

ほぼ日さんでの糸井重里さんと羽生結弦選手の対談、Day3。

拝読して僕の脳裏に浮かんだのは「ある男の言葉」だった。

その男は、平和を希求し、戦乱の世を終わらせた。
もし彼がいなければ、歌舞伎も、相撲も、落語も、今の形にはなっていなかっただろう。

その男は、湿地帯だった東京を開拓した。
もし彼がいなければ、半蔵門線も、東京ドームも無かったし、日比谷は入り江のまま、羽田は海の中だっただろう。

その男とは徳川家康公。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」

背負わされた重荷を、自ら背負い直し、
現在に至る近代日本の基礎をつくった男の一生が凝縮されたメッセージだ。


東日本大震災が起こってから、
ぼくは、ひとりのアスリートであるという以前に、
「被災地の人間」として、
すごく注目されるようになったんです。(羽生さん)

家族を失い、友を失い、それまでを失い、これからも失ってしまった被災地の方々にとって、羽生結弦選手は希望そのものだっただろう。

苦しい状況にあっても

「今日も羽生選手が自己研鑽を積んでいる」

という事実が、もっといえば、その事実を想像できるということが、それぞれの心の光となったのだと思う。

僕自身の経験で恐縮だけど、まあまあ長く生きてると(自ら死を選択しなかったというだけで)生きる希望を見失うような局面もある。

そういう時、

「いやいやちょっとまて。今もこの地球上にプリンスがいるんだぞ。今日もメロディ書いて、歌詞を書いて、ベース弾いて、レコーディングして、バンドメンバーにダメ出ししてるはずだ。よし、なんとか次のツアーまで生き延びよう」

そんな風に思えたし、「心救われる」ってそういうことかな、と思う。

そう考えると被災地の方々が羽生結弦選手の活躍に希望を抱くというのは、自然なことだし、ある意味「芸術の本義」でもあるだろう。

だからこそ、

ひとりが背負うとしたらすごく重いことですし、
その状況でなにも考えずにスケートするなんて、
やっぱり、かなり難しくて。(羽生さん)

羽生選手のこの言葉は極めて重い。羽生選手はこのとき、アスリートと人間との間で苦悩したことが語られる。

アスリートの「思念」は「運動」を邪魔してしまう。

「どうせオレのパンチで倒れるはずがない」と思ってのパンチはいいパンチにならない。「オレのパンチは触れれば倒れる」と思ってのパンチもいいパンチにならない。

どっちの思念も、技を、動きを、本来ではないものにしてしまう。

いい動きは「この瞬間、これしかない」という、流れの中での必然性を全身でキャッチしたときに現出する。

だからメディアで拡大されたプレッシャー(SNSでのノイズも含めて)で、「背負わされる」というのはアスリートとしてはプラスにはならない。

だが僕らは、ここから「羽生結弦というひとりの人間の真の凄さ」を目の当たりにすることになる。

「いや、それは違う」

お母様の射抜く言葉が、羽生結弦という「人」を覚醒させ、

重みも感じたまんま、背負って向かっていく、
背負ってるからこそ強くなれる、
みたいな自分のスタイルが、
あのときにできた(羽生さん)

と語っている。まさに

「フィギュアスケートが凄い人」から、
「凄い人がフィギュアスケートをやっている」に変わった瞬間を

流れの中で必然性をもって引き出した糸井さん。

鉛筆の芯の先のところに羽生結弦がいて、
もちろんそこが文字を書いて、
表現をつくっていくわけだけど、
鉛筆本体がなかったら字は書けないわけで(糸井さん)

羽生選手のパーソナルな経験を、
鉛筆になぞらえ、誰もが自分ごととしてイメージしやすいパブリックな形に即座に変換する。

羽生結弦選手の最前線での経験と、糸井さんの言語による結晶化が、
新しい作品を生み出している。何度読み返しても、スリリングな場面だ。


少し専門領域の話になってしまうけど、

僕は拙書『可能性にアクセスするパフォーマンス医学』の重力のテーマについて書いてるときに、羽生結弦選手のジャンプ動画を、何度も何度も視た。

なぜなら彼は「地球と仲良くする天才」だからだ。

ジャンプという動きは、一見「重力に逆らっているように見える」けど、
実は逆だ。

ジャンプする前の瞬間に、どれだけ丁寧に、繊細に、緻密に、無駄なく、的確に、重力方向に身体を沈められるか。

それがその後のジャンプの高さと方向を決める。自分の身体の物理的な重さはもちろん、前頭前野で「より大きな何か」を背負った運動イメージを想起すると、動きそのものが変わるのだ。

 羽生結弦選手がどのような運動イメージからあのジャンプを具現化しているかについて、あるいはその変遷なども含めて、僕は想像するしかないんだけど、あらゆる方向から想像を巡らせたおかげで、僕の医学的考察も確実に深まった。

そのような行程を経たからだろうか、
今、強烈に思うのだ。

重みも感じたまんま、背負って向かっていく(羽生さん)

これを言葉を使わずに表現したのが
羽生結弦選手のジャンプなんじゃないか?

と。

氷の上で両腕を拡げ、手のひらを宇宙に向け、地球にしっかりと立つ戦士。


あの姿から、重荷を自ら背負いし者の覚悟が伝わってくる。

羽生結弦選手の肉体は、雄弁に語ってくれていたのだ!

背負わされた重荷を、自ら背負い直し、感謝をパワーに変えて前進を続ける羽生結弦選手。志ある若者を存在ごと受け入れ、全力で応援しながら自らも前進を続ける糸井重里さん。

おふたりの歩みもまた、
これからの時代に影響していくのだろう。

家康公、2024年ひな祭りの江戸も、おかげでとっても美しいですよ。


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