私と私以外の境界線
「私は私の人生を自分で切り拓いてきた」
という自意識。眩しいくらいの光の強さを感じる。それはそれでもちろんありだと思う。その人らしさの核だろう。
僕自身についていえば、むしろそのような自意識とは全く無縁のまま、ここまで来たような気がする。
たとえば、格闘技医学。
最初から格闘技医学というものを発明して、それを広めたい、と思ってやってきたわけじゃない。
強くなりたくて、カラテを志して。
上京してからは研修医として働きながら、当直の夜には病院で自主トレし、運良く道場に行けたときは仲間と共に終電まで練習して、試合に出ていた。
その頃は、とにかくカラテというフォーマットで強くなりたくて、具体的には試合で結果を出して、全日本ウェイト制の舞台に立つために狂気じみた日々を送っていた。仲間たちの協力もあって、地方大会で2回優勝し、出場も夢もかない、全日本でも山の途中までは登れた。
もちろん上をみればキリがないし、時代は更新されていくから、今では珍しいことではなくなったけれど、当時のドクター兼社会人選手としては、少なくとも人に言っても大丈夫なくらいの成績にはなったと思う。
カラテ専業の選手とは一味違った、僕のカラテ。
試合より「練習時間の確保」つまり「試合場の外での戦い」のほうがメチャクチャハードだったから、そのノウハウ、あるいは凌ぎ方には、それなりの蓄積も自信もあった。
ところが、である。
道場の先輩たちから聞かれるのは
「ふたさん、ちょっと膝を痛めちゃったんだけど、どんな風に練習すればいい?」
「ちょっと追い込み過ぎて体調すぐれないんだけど、そんなときはどこがどう悪いのかな?」
「パンチをもっと強く打ちたいんだけど、レントゲン写真って手に入るかな?」
そんな質問ばかり。内心「カラテ技術や戦術の質問もしてくれよ」と思わないではなかったけど(笑)、「それらは後輩たちに伝えればいいか」と頭を切り替えて、
いつしか僕は「先輩たちの質問に医学的背景を交えながら説明する」という特別なポジションを与えてもらっていた。
これがおそらく、格闘技医学の種だったんだと思う。
前年よりも上にいく、と決意して臨んだ2度目の全日本。トーナメント表も送られてきて、思いっ切り練習に集中・・・・のはずが、練習で肋骨骨折、外からも明らかにわかるくらいに変形してしまい、試合直前で無念の欠場となった。
「試合のための練習で、試合に出れなくなるって絶対におかしい・・・」
「きっと同じような辛い想いをしているアスリートもいるだろうな・・・」
この2つの想いから、2001年9月15日にWEBサイトを立ち上げ、全国のプレイヤーからの無料スポーツ医学相談をスタートしたのが、格闘技医学の基礎となった。
とまあ、僕のこれまでは、確固たる信念とか、自己実現とか、そんな感じではなくて、周囲の声にこたえる形で、変化を遂げてきた。
「私の人生は多くの人たちに導かれてきた」
という自意識が僕の中にずっとある。(拓也なのに拓じゃない)だから格闘技医学も、パフォーマンス医学も、Twitterも、FBも、連載も、noteも、「私と私以外の境界線で生じた化学反応の記録」というのがホントのところだ。
というわけで、「感謝をカタチに」を大切に。
いっぽいっぽ進んでいこうと思います。