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私刑と鉄砲玉

マフィア映画なんかで「鉄砲玉」という役割がある。そのポジションはたいてい、ボスにお世話になっている若い衆だ。ボスに拾ってもらい、居場所を与えてもらい、ボスを(尊敬を超えて)崇拝している。そんな若い衆だ。

ボスは若い衆に語りかける。

「オレは孤独だ。みんなオレに表面上は忠誠を誓うが本心はわからない。だが、オマエは違う。今まで本気でオレのために、組織にために、命を懸けて戦ってきた。まるで若い頃のオレのようだ。今のオレは、他の誰にも心を許してはいない。オマエ以外は。」

若い衆は静かにうなづきながらボスの言葉を聴く。

「こんどのミッションは、オレの命だけじゃない、我々の組織、ファミリー全ての命運がかかっている。決して簡単ではない。だがこれをやれるのはオマエしかいない。やってくれるな?」

若い衆はボスへの忠誠を行動に移す。その結末は・・・鉄砲玉にとって決してハッピーなものじゃない。

あれはある道場で、稽古が始まる前の時間のことだった。

「オス、今度の寒稽古、家の用事があって参加できません」

ある道場生が師範に伝えていた。

「バカヤロー、他の道場生は来れるのになんでオマエは来れないんだ!」

道場内に罵声が響いた。

寒稽古は大晦日から元旦にかけて行われていて、「家庭の事情でこれない」人がいるのも仕方がないことだろう。だがその罵声は「参加しないという選択肢はない」ことを全員に伝えるに十分な大きさだった。

いつもどおり稽古がはじまり、スパーリングの時間になった。

カラテ道場ではスパーリングは集団で同時に行うことが多い。先輩が後輩の相手をすることもあれば、同じレベルの帯同士で競い合うこともある。試合志向の選手だけのスパーリングは練習といえど、見ごたえがある。

その日は全員でひと通りの軽めのスパーリング、つまりお互いに怪我をさせないよう十分配慮した形で行われた。

そのあと、師範から数名が指名され、6人でスパーリングをすることになった。みんなが見ている前でスパーリングをやるということは、後輩へのお手本としての技術が求められる。それは同時に、師範からの期待でもある。

もちろんパワー、威力はセーブしながら、道場のみんなに見てもらう形で、強さの磨き合いが始まった。

1人め、2人め、3人め・・・いつも以上の緊張感のあるスパーリングで、僕の動きもどんどんよくなっていくのを感じた。

そして何人めだったかは忘れたけど、僕の目の前には、稽古前に寒稽古を断った道場生が立っていた。ラグビーをやっていて、しっかりしたガタイの人で、カラテ選手としても強くなるんじゃないか。そんな素養を感じさせる人だった。僕は彼とは何の遺恨もない。道場生として挨拶を交わし、高め合う、そういう関係だ。

彼とのスパーの直前、師範が流れを遮り、このように告げた。

「次は相手を倒してください。本気でやるように」

これはおそらく密命だった。僕は鉄砲玉だった。

「目の前の相手を倒さないと僕があとで怒られる」

心は恐怖に支配されていた。倒し合い前提のスパーで、必死に戦う以外の選択肢しかなかった。結果として相手を倒したものの、こんなに後味の悪いKOはなかった。

稽古が終わった後、その道場生はまた師範に呼ばれていた。

「オマエ、これでわかっただろう」

そんな言葉が聞こえてきた。この時、僕は「私刑」に使われたのだと理解した。僕はカラテを悪用してしまった。この時の心の苦しさは今も消えない。

当時の僕は、若い上に、心が今以上に弱かった。ノイズの中、僕の声なんてかき消されるに決まってる。動かしようのない強固なヒエラルキーの下で「押忍」「押忍、失礼しました」以外の言葉、そして「勇気」と「意志」をもっていなかった。鉄砲玉のように、最前線の兵士のように、テロリストのように、命令を遂行するしかなかった。

だけどこの時、僕は「人間として強くなりたい」と心の底から思った。

「カラテを、武道を、格闘技を、私刑に使うのはカッコ悪い」
正々堂々、胸を張って言える自分でいるために。

・ヒエラルキーの時代から、実力と可能性の時代へ。




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