誰かのせい、何かのせい。
何かプロジェクトが動き出す。途中で何か問題が起きる。
その問題を真っ直ぐ捉えてクリアしようとすれば、何とかなることも多い。
同時に、大抵の問題の根源は
問題を直視せず、「誰かのせい」にしたり、「何かのせい」にしたり、「状況のせい」にしたりすることじゃないだろうか?
そうすると「問題の本質がなんなのか?」がぼやけてくる。
たとえば勝負事において「なぜ負けたのか?」
ほんのちょっとのタイミングのズレとか、ちょっとした判断ミスとか、いわゆる行き違いとか、そのような負けの本質的なキッカケは、モノサシの目盛りを極力小さく、丁寧にしないと、なかなか把握しづらいものだ。
例えば「睡眠不足で負ける」なんてこともあるわけだけど、その原因に思い至るには「見えない部分を見ようとする」必要がある。
だから大きなモノサシしか持ち合わせていないと、あるいは、大きなモノサシしか使おうとしないと、問題をとても大雑把に捉えてしまう。そして大雑把に捉えてしまう時はたいてい、対象を「感情」で見てしまっている。
脳が感情的になっているから、自分の感情に適合する要素だけを拾い上げ、合わないものを否定してしまう。
本当の問題は「問題を冷静に捉え切れていないこと」にあったりするのだけど。
これは僕自身にもよく起きること。
部分否定、局所否定、がいつの間にか全否定になりがちで。
さらに全否定の範囲を拡大しがちで。坊主憎けりゃ聖書まで憎い、という罠におちいることがある。しかも無自覚に。
「好き、嫌い」の感情は生きていく上でもちろん大切なんだけど、そこに囚われている限り見えない景色もある気がする。
というわけで、
自分で書いて、自分に読ませる。そんなnoteを書いてみた。