メタフィジカル・あいそれーしょん
現実がいつもままならないのは、完璧なシミュレーションが絶対的にあり得ないからだ。
それはどんなに全能な知的生命体が現れてもおそらく変わらない。
それは「存在」には「現在」しか存在しない、という前提において決して覆ることがない。
私たちは必ず何かを捨てなければならない。
得ることよりも先に。
私たちは生存するにあたって、どのリスクを取るかを選択し、期待されるリターンに向かって最大限のプロセスを求めなければならない。
そして、私たちがリスク(現在の前提)をいかに明確に把握しようとも、リターン(未来の結論)については一切の保証が約束されていないことを理解しなければならない(誰にも未来は分からない)。
だけれど、問題が規模的・経済的・社会的に大きくなればなるほど、私たちはリスクを分散しようと努める。
この一見合理的にみえる判断について、私たちは注意深くならなければならない。
特に、最悪のシナリオがリターンの一つに数えられる状況では。
私たちは計画の初期段階において、なるべく小さなリスクで、なるべく多数の好意的なリターンを得ようと目論む。
しかし、さし迫る驚異的な現実(私たちの計画の外側)は、私たちの計画と同じか、それ以上のスピードで、取られたリスクに対するリターンを決定していく。
そのようななかでは、次に選択されるべきリスクが非常に不透明になるに違いない。
この時、私たちは高度な選択を迫られる。
すなわち、最大に期待する「それ」以外のすべてを切り捨てる、という選択だ。
これには通常以上の勇気がいる。
普通、人は、生きていくために必要なものを最低2つ以上持っているからだ。
個人の生活と生命。
同じ意味合いに思われるこれらは、しかし実は分別されている。
特に高度に成熟した資本主義社会においては。
パラダイムの外側から見れば、一目瞭然の真実も、内側からでは冷静な判断が難しいことは、認識の常だ。
生命あっての生活ということを分かってはいても、生活あっての生命であるという実際上の見かけは、決して切り離すことができない。
ここで、私たちは「明日の生活」という語に注意を向けなければならない。
私たちが「明日の生活」というとき、「明日の生命」については、少なくとも最低限の保証を得ていると考えている、と考えられる。
しかし、もしこの時、私たちの目前に迫るリスクが、リターンとしてもはや「明日の生活」を含んでいないとき、私たちは大きな見過ごしをしていることになる。
つまり、私たちには、はじめから「明日の生命」に関するリスク選択が迫られている場合である。
「明日の生活」というものは、端から保証されておらず、むしろ現在にある生命、言い換えれば、未来になる生命に関して、そもそものリスクが発生している場合、私たちは、私たちが最大に期待する「それ(=現在の生命=明日の生命)」に対して、それ以外のいかなる条件をも切り捨てて、「それ」に等しいリターンへのプロセスを早急に歩み出さなければならない。
そして「明日の生命」に関するリスク選択を(改めて、正しく)行い始めたとき、「明日の生活」に関するリスク選択では気づかなかった、ある重大な見落としに気づくことになるだろう。
そもそも「明日の生命」は、いかなる形でも何らの保証もされていない、という公然の事実に。
その時私たちは、知る。
何かを得るためには、まず何かを失わなければならない。
仮定された可能性の利益のうちの多くを、はじめから切り捨てなければならない。
さらに、そのことによって得られる結果についても、私たちはまたもやいかなる保証も持たず、あらゆる不平不満が等しく権利的(そもそもいかなる権利も人為的なものであり、自然には存在しない)に不可能であることを理解しなければならない。
あるパラダイムを襲う巨大な一個の問題に対して、私たちは認識の転換をこそ必要としているはずだ。
つまり、「存在」にはそもそも「明日」がない。
いかなる未来も「現在」のうちには存在していない。
私たちがなんとしても生きたいと思うのは、動物的な本能だから仕方がない、と簡単に結論付けることはできる。
そして、そのことをまた、生きる理由にすることも容易であろう。
では、なぜ動物のように生きない?
なぜ、経済を捨て、倫理を捨て、個人を捨て、一個の動物として生きてみないのか。
人間だからだ。
私たちは人間であり、動物の一種に数えることはできるが、他の動物と本質的な違いをもたらす知性のレベルにおいて完全に一線を画しているからだ。
私たちは動物のようには生きられない。
動物であり、動物ではないから。
だから、生存本能を理由に「生きる」ことは、生きることの必要条件になり得ても、十分条件になり得ない。
ならば、私たちは現在の現実における危機の問題に対して、根本的な誤解をしていることになる。
問われているのは、「いかにして生き残るか。」ではない。
「なぜ、いかにして生き残るか。という問いが、立て得るのか。」ということだ。
コロナウイルスの大流行で死ぬのは、嫌だろう。
私もあまり気持ちいいとは思わない。
しかし、そもそも、どんな理由で、どんな経緯で、私たちは自分たちが生きなければならない、と思い込んでいるのだろうか。
本能は十分条件にならないことを確認した。
私たちは動物的に生きることでは「生きる」ことにならない。
では、「生きる」とは何なのか。
なぜ、「生きる」のか。
なぜ、「生きている」なのか。
なぜ、「存在」していることの必然性を知らずに、「存在しなくなるかもしれない」という漠然とした恐怖に支配される必要があるのか。
私たちは何を恐怖しているのか。
今一度考え直し、現実をもう一度見つめ直さなければならない。
「そして、すべてが消え去りました。さて、私たちは何を失い、何を得たのでしょう?」
誰かが未来で問うのがきこえる。
形而上的隔離より、ままならない現実へ愛を込めて