ヒップホップについて

私が一番好きな音楽。
それはヒップホップ。
自分の好きなものをジャンルで語るというのは本意でない。
ジャンルあるいはカテゴリというのは、端的に言って便宜上の分別に過ぎない。
複雑な実態のうちにある何かを語るときに生じる、一定の手続き/説明を大幅に省略できるわけだから便利は便利なのだが。
ヒップホップと一口に言っても、これを明確に定義し、なぜそれが好きかを語るのは、真面目に取り組めば容易なことではない。

どうしてこう小難しく書くのか。
自分でも思う。が、仕方ない。
私は何か答えを示そうとしているのではなく、答えを探しているからこそ、書き、考えている。

分かりやすく伝えると、これから私が語ろうとするヒップホップは、アフリカン・アメリカンにルーツを持つ人々を中心とする一種の音楽的カウンター・カルチャー、つまり本場アメリカの"ラップ・ミュージック"のことだ。
日本のヒップホップ文化にはここでは言及しない。
じじつ、あまり聴かないし、関心も薄い。

ヒップホップを語るというからには、それなりの文化・音楽的知識、歴史・社会背景に対する理解が必要だが、はじめに白状しておくと、大した知識はない。
だから私がヒップホップを語る上で依拠するのは、とにかくヒップホップが好きということ、それに異常に引き付けられるということしかない。
単刀直入になぜ好きなのか?と訊かれれば、「めちゃくちゃかっこいいと思う!」と、答える他はないのだ。
しかし、私はこのような曖昧な態度を積極的に肯定しようと思う。
何かを語るには、まず第一に、その対象についての一定以上の熱量がなければはじまらない。
そして、何かを語るのにキライなものを語っても仕方がない。
悪口は、よい批評(Critic)に成り得ない。
いや、批評なんて大したことをするつもりはない。
ただ、語ってみたい。それだけ。
しかし、何らかの文化に対する価値を肯定しようとする作業には違いないのだから、批評と呼べる可能性は、やはり開かれている。
そこで、まずは自分が実際にヒップホップから感じていることを率直に語ることが、最良の方法だろう。
それ以上のものは、後からいくらでもついてくる。

私が好んで聴いてきたヒップホップ・ミュージック(ラップ・ミュージック)は、いわゆる「東西抗争」の頃に躍進したドレ(Dr.Dre)やスヌープ(Snoop Dogg)、そして近代ラップ・ミュージックの伝説の中の伝説となった今は亡き2Pacを中心とする西海岸の音楽から、今日の空前のラップ・ミュージックブーム(大雑把に言えばカニエやケンドリック、そして俗にマンブル・ラッパーと呼ばれるアーティストたち)に到る現代ラップ・ミュージック全般だ。
黒人によるラップ・ミュージックにはじめて出会ったのは西海岸の音楽に違いないが、もちろんヒップホップの東西の対立は私の好みには関係がない。
たまたま聴いたのが、西海岸だっただけだ。
それに最近では、その対立の構図も重要は重要だが、それよりもアーティスト個人の存在や影響力が大きい。
だから、全然詳しくも正しくもないヒップホップの歴史に関する知識を語るより、自分が好きなアーティストや、ラップ・ミュージックのどこに興味を持っているのかを述べる方がより良いだろう。

私がラップ・ミュージックを好きなのは、たぶん、その音楽に対する態度と形式によるところが大きいと思う。
リアル(この言葉は非常に気をつけて使用されなければならない)なラップ・ミュージックに出会う前はアメリカの白人ロックミュージックに傾倒していた。
特にレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(以下レッチリ)に深く傾倒した。
これは、私にとって確実に人生を変える音楽体験だった。
レッチリの音楽をはじめて聴いたとき、それまで自分が抱えていたものから一斉に解放されたような気がした。
人格形成にさえ大きく影響したと思われる。
とにかく中学時代の鬱屈した私の精神を救いだしたのは、レッチリの音楽だった。
そして私は、なぜ自分がこれほどまでにレッチリの音楽に惹かれるのかを考えた。
当時の結論は、「たぶん、ラップだ!いろいろハンパない要素があるけど、結局自分は早口でまくし立てる言葉の音楽に興味があるのだ。」というものだった。
レッチリのフロントマン、アンソニー(Anthony Kiedis)は白人ロックにラップの要素をいち早く取り入れた音楽家の一人だ。
あまりに単純だが、しかし、この初期の考察はやはり正しいと思う。

私は「ラップ」という、一つの歌唱法に惹かれていたのだ。
それは「歌う」というよりも「語る」に近く、私はその形式が予感させる物語性や演説性、内容の有無に関わらずその批評性にこそ興味を持っていた。
それは私見によれば、非常に男性的な音楽、と言い換えることができる。
語弊があるかもしれないが、自分の人生や考えに、音楽を「服従させ」、その文化の上で自分の腹の内を見せて「語る」、そこにこそ「ラップ」の真髄があるように感じられた。
敢えて「服従させ」という言葉を用いたが、これはきちんと考えなければならない非常に重要なポイントだ。
黒人の歴史は、私なんかには想像も及ばない複雑で暗い経緯を持っている。
彼らの歴史は、白人中心社会に搾取され虐げられ、惨殺された人々の人生の積み重なり、という暗黒の側面に目を向けずには語れない。
そのようなルーツにあって、彼らにとって唯一奪われなかったのは、音楽であり、「言葉」、であったのではないかと思う。
どんな残虐な仕打ちも、彼らから、彼ら自身の精神が深く根付く文化(カルチャー)をそっくり奪ってしまうことはできなかった。
そしてそれは、黒人の持つ身体的な強靭性の次に、彼らの強力な武器となる数少ない所有物だったのだ。
まさに最後の砦。
音楽と言葉は、自分たちが自分たちの価値、その人間性を訴えるために残された切実な手掛かりだったと推測する。
だから、音楽に"乗せて"言葉を"語ること"は、必然的な帰結であり、それは、ある意味で音楽を支配し、言葉の持つパワーに「服従させ」る側面がある。
その感覚は、今どきの日常表現に端的に現れている。
アメリカの若者たちは、イケてるフリースタイル(即興のラップパフォーマンス)などを見たら、「He "killed" this shit(beats).」、「あいつはビート(音源)を"完璧に乗りこなしやがった"。」と、言うのだ。
この"Killed"という動詞には、ラップにおける音楽と言葉の弁証法的な関係が分かりやすく示されている。
つまり、音楽という霊的(スピリチュアル)なパワーを持つ要素に向き合い、それを"自分のもの"にするには、彼が放つ言葉もまた、それ以上の霊感(インスピレーション)で、それに対抗し、互いに支配し合わなければならないのだ。
そのせめぎあいの中から一つのCrazyな楽曲が生まれる。

どうしても精神論的な語り口にならざるを得ない。
だが実際、その精神性を抜きにラップ・ミュージックを語ることはできない。
というより、そんな試みは無意味だ。
言葉と音楽に対する切迫した要求がなければ、ヒップホップ文化は生まれなかったはずだから。
ラップ・ミュージックは本質的に精神性に多くを依っている。
だからこそ私は、そこに"本物"を感じる。
"リアル"が、ある、と察知することができる。
そういうものに一度でも気がついてしまえば、後戻りすることは難しい。

誰も気づいていて本物を無視することはできない。

裏を返せば、"本物"があっても、気がつかなければ、その人にとっては、ないに等しい。
本物は、気づかなければならないものだ。
あちらから「本物だよ!見て!」と言うホンモノは、たかが知れている。
もちろん一概にラップ・ミュージックと言っても、その中身も他のすべてと同じく玉石混淆。
Shit(良いもの)もあれば、Bullshit(良くないもの)もある。
ただ、本物のヒップホップの良さに触れてしまったら、中身の詰まってないWack(ダサい)な音楽(具体的には言わないが)なんかは聴くに耐えなくなるだけだ。
でも、私はヘッズ(ヒップホップ中毒者)ではない。
中毒者、と言いたいところだが、四六時中ラップ・ミュージックを流しているわけではないし、ライブも行かないし(そもそも日本に住んでいては機会がない)、自分でラップをするわけでもないし、人に布教もしない。
それにクラシックやジャズ、ロックやポップス、他にも好きな音楽はいろいろあって、ラップだけを贔屓する時間もない。
だから、ヘッズと聞いて、思い浮かべられる人たちとは少し熱の入り方が違う。
ただ、私のラップ・ミュージックに対する愛情と憧憬もまた、切実なものなのだ。

ラップといえば、ビート、リリック、ライム、フックとか、何かと細かく要素を分解して分析しがちだ。
しかし、基本的な立ち上がり方の根本を押さえていなくては、それもあまり意味をなさないだろう。
音楽と言語に関するあらゆる要素がラップ・ミュージックという混沌の中に広がっている。
音楽の一つのジャンルを正面から分析しようとするなら、民族学や社会学、言語学、そして様々な音楽理論の出動をも要請するだろうし、ラップ・ミュージックはそのなかでも特に複雑な現象を呈している、と言える。

どうして私は、ただ自分の好きな音楽を語るだけなのに、こんなに面倒なことになるのだろう。
それが一番不思議だ。
まぁ、性分だろう。受け入れるより他にない。
「私はこれが好きだ。」と言えば済むところが、どうしてもそう単純にはいかない。
なぜ好きなのか知りたいし、自分の感情や確信がどこから来ているのかが知りたい。

ところで、ヒップホップ、ラップ・ミュージックで最も重要なことは何か。
それは、かっこいいか、かっこわるいか。
イケてるか、イケてないか。
それだけだ。
ひどく雑な言い方にみえるが、絶対にこれしかあり得ない。

それが、かっこいいかどうか。

これで全部が決まる。
かっこわるければ、何の価値もない。
実にサッパリしている。
私はこういうものの考え方が好きだ。
他のあらゆる表現だって、突き詰めればそれ以外ないはずだ。
実際、これ以上の何が正確な評価の物差しになろうか。
唯一信頼できるのは、かっこいい、と素直に思ったかどうかだ。
だから私もそれだけを絶対の基準としてヒップホップを聴く。
他の要素は、そのあとだ。
だから、やはり"本物"に気づけるかが問題になる。
「かっこいい」と思うのは他でもない聴く人間の感性なのだ。
その人間の感性が磨かれていなければ、"本物"の良さを見過ごしてしまうかもしれない。
この「"本物"の良さ」というのは、つまり、そこ(楽曲)にその人の"生き様"が素直に現れているかどうかだ。
彼が「語って」いることが、そのまま彼自身の人生に対する態度と合致した時、聴く者は、彼の放つ言葉に釘付けになる。
それがラップの真髄、他では味わいがたい妙味だ。
一人の人間のリアルな"生き様"が、耳に、身体に、脳に直接作用するのだから、その感覚は何物にも代えがたい。
男の生き様に、男が惚れる。

あぁ、ヒップホップ・フォーエバー。

なんたる自己満語り。

あ、そうだ。
布教はしないが、これだけは言っておきたい。
ラップ・ミュージックに対する一般の誤解について。
いや、これはあながち誤解でもないのだが...。
要するに「ラップって、なんか怖い。言ってしまえば不良の音楽でしょ?」という印象のことだ。
確かに、日本人にはなかなか理解しがたい文化かもしれない。
向き合ってきた問題も社会背景も何もかもが違う。
それに確かにラップ・ミュージックは、怖い。
内容は暴力的だし、犯罪行為もバンバン。薬物との関係も切っては切れないし、ハスラーでジャンキーな奴らの音楽だ。
男尊女卑のマッチョイズムと女性蔑視の表現は根深いし、正直目に余るところもある。
しかし、それは実際彼らが生きている環境の問題でもあるし、第一この音楽が抱えているものは、それだけではない。
だから日本人の感性から見た印象だけで、「不良の音楽」的なレッテルを貼るのは、短絡的だし建設的ではない。
そのことは、はっきりと言っておきたいのだ。

他にも語る要素はいくらでもあるのだが、切りがない。
今日はここまでにしておこう。
気が向けば、続きを書こうと思う。